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【映画評】 宮崎駿『魔女の宅急便』 上昇と下降、現実を浸食する力

「文学作品に「驚き」を期待するほど、批評家として怠惰な姿勢もあるまい。」
と述べたのは、早稲田文学新人賞受賞作、黒田夏子『abさんご』についての蓮實重彦の選評においてである。

「驚き」を期待するのは、なにも文学作品には限らないだろう。映画やアニメにおいても、やはり「驚き」を期待するのである。ところが、「驚き」はそうたやすく訪れてはくれない。だが、作品そのものから「驚き」が舞い降りるということはないにしても、見る者の視線に、「驚き」が内包されていることは経験的に知っている。

宮崎駿監督『魔女の宅急便』(1989)は、そんなアニメのひとつといってもいいだろう。作品としては本作以前の宮崎作品を踏襲、あるいは発展というにとどまっているのだが、細部に眼を向ければ、映画史的な「驚き」や、メルヘンとしての「驚き」を再確認すこともできる。やはり、凡庸をはるかに超えた作品といわざるを得ない。

湖のほとりの緑あふれる丘の斜面に、大きな赤いリボンをつけた少女が寝転んでいる。赤いラジオからは「今晩は晴」というアナウンスが流れる。少女とは13歳のキキ。丘の斜面には風が吹きつけ、これからなにかが始まるという予感。キキの手足、衣服、そしてなにかを思い詰めたかのような真剣な眼差しで空を見つめるキキのショット。

この冒頭だけで映画としての使命は十分果たしており、吹きつける風にキキの衣服と髪はなびき、ジブリ作品では回避されているといわれるセクシュアリティーを感じさせる。それもそのはず、主人公キキは魔女。少女が箒にまたがって飛ぶという設定そのものが既にきわどさを纏っていし、風を巻き込みスカートをたなびかせて下着丸見えという姿。そのうえ、キキに「魔法ではなく魔女の血で飛ばす」と言わせたりと、性を意識しないまでも、〈少女〉=〈セクシュアリティー〉を回避してはいないと思われる。ところで、このことのみで映画としての使命を果たしていると思ったわけではない。丘の斜面に寝転ぶキキの身体に吹き付ける風は、斜面を覆う草花をもたなびかせる。見る者の視線に、草花の一葉一葉、一花一花が揺れている。草花が揺れる映像を、現代のわたしたちは自明のこととして、そして『魔女の宅急便』はマンガではなくアニメなのだという経験知として驚くということはないのだが、19世紀末、ルミエール兄弟のフィルムを見た観客が、葉が揺れる映像を見て仰天した、という映画史的記憶を想起させもするこの映画の始まりに、わたしは驚きを露にするのである。

『魔女の宅急便』については、キリスト教の家父長主義社会以前の母系社会のシャーマニズム(映画では魔女という設定および海の見える町を目指すという設定)、森・自然、人間と機械の緊張関係と上昇・下降のダイナミズム、といった議論が至る所で見られるのだが、メルヘンという視点による議論はないように思える。

階段を〈上る/下りる〉というシーンが数度見られ、それもきまって魔女のキキが登場する。ここで特徴的なのは、キキと人間が階段を上るシーンでは階段は壁などの背後に隠れ(小津作品のように二階を暗示させるにとどめる)、下りるシーンは背後の映像ですら現れない。それに対し、キキがひとりで階段を〈上る/下りる〉シーンは階段の横からのショットとして映像に示される。ここで注目されるのは、キキが上るということではなく、上るとは、下りる(あるいは落下する)ことを前提としているのである。そのことは箒にまたがり空を飛ぶシーンで特徴的な現象を起こす。

いくつか列挙してみる。

キキは13歳の満月の日、家族の元を離れ、自立するために旅に出るのだが、箒にまたがり飛び上がったものの、不意の稲妻にコントロールを失い、貨物列車に落下する。

空を飛ぶことしかできないキキは自立するために宅配便を開業し、岬のむこうに猫人形を届けるよう頼まれる。やはり突然の風でコントロールを失い、カラスの森に落下する。

物語終盤で、繋留されていた飛行船が、突風でロープが切れ流されるシーンがあるが、ロープにつかまっていた少年トンボ(キキが心を寄せる少年)も飛行船とともに流される。その状況をテレビで見ていたキキは、町にいた掃除夫からデッキブラシを借り、トンボを救うため飛び立つ。流された飛行船は塔に衝突し逆さになり、ロープにひっしにつかまっていた少年もついに力がつき落下するが、キキは急降下し地上寸前のところでトンボを救う。

それぞれの落下ごとに物語は分節化され、重要な役割を果たしている。というよりも、物語の進展には落下を必然としているのである。とりわけ、カラスの森に落下するシークエンスでは、森の小屋で絵に没頭する19歳の少女ウルスラ(劇中では一度も名前で呼ばれることはない)と出会い、森と自然と動物、生きることを人生の先輩としてのウルスラから多く学び、キキに大きな影響を与える。

上昇と急降下というメカニカルな運動はジブリ作品の特徴をなしているのだが、『魔女の宅急便』での頻出する落下を目にし、なにゆえここまでの落下を要請されるのだろうかと考えたとき、劇作家・別役実の〈ファンタジー/メルヘン〉についての定義が思い出される。

ファンタジーは現実から飛翔する力であり、メルヘンは現実を浸食する力である。

『魔女の宅急便』における上昇とは現実から飛翔する力ではなく、後に落下するための準備運動にすぎず、落下とは現実へと下降する運動、つまり現実を浸食する力の譬えではないかと。それは、メルヘンであることを映像として溶け込ませようとする宮崎駿の眼差しの譬えでもあるように思えた。落下することで日常という物語に亀裂・分節化を生じさせ、ファンタジーになることをぎりぎりのところで回避する、境界線からわずかにこちら側に身を置いた「現実を浸食」する作品といっても良いかもしれない。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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