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散花集第2期(101-200)

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花は散ります。有機体は解体します。存在は空想です。有機体とはみなさんのことです。 2018/4 - 2018/7
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2018年5月の記事一覧

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病気がちの母がめずらしく針仕事をはじめた。出来上がってみるとそれは蝶々だった。編んだ蝶は母に似てかよわく、羽ばたく力もないようだった。だからわたしは絵を描いてその中に閉じ込めた。蝶はすこし生気を取り戻したように絵の中で舞い始めた。

147

ずっと入院していた患者が退院することになって、役目を終えた折り鶴がどこかに羽ばたいていった。

146

ドリップコーヒーが垂れるのを眺めていたら、とつぜん部屋が暗くなった。見ると蛍光灯の光が透明なフィルターに漉されて一箇所から滴ってきていた。はじめはそれなりに勢いがあったが、やがて雫になって一滴一滴落ちてくるようになった。その頃には部屋がほとんど真っ暗で、蛍光灯の光は蛍みたいな風情で降ってきていた。

145

歩くことがとても難しい。難しいと感じているのはもしかしたらぼくだけだろうか。滅多なことでは転んでいる人を見ることはない。皆無ではないとはいえ、せいぜい転ぶだけの話だ。玉乗りは曲芸だろう。玉がどれだけ巨大でもそれは変わらないはずだ。ぼくは油断したらここから転げ落ちる気がしている。心が休まる時がない。おしゃべりに夢中になっている女子学生たちやスマホを見ながら歩いている会社員たちはどれほどのバランス感覚

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144

生け花教室の先生が日に日に痩せ細っていくので、心配になって「なにか重い病を患っているのですか」と聞いたら、やつれた笑顔で「花に逆恨みされてるのよ。生け花は命がけだっていつも言ってるでしょ」とあくまで毅然とした態度で忠告してくださった。ほどなくして先生は花になって枯れた。享年52歳だった。和服を着た物言わぬ花は枯れても品を失うことはなかった。

143

引っ越しをしている。荷物をまとめたり住所変更の手続きや業者の手配などいろいろと大変だったが、今日やっと不動産屋の人から鍵を頂いた。「これがご自宅の鍵です。こっちはそれぞれ一丁目の鍵、千代田区の鍵、東京都の鍵、日本の鍵、あとこれはお使いにならないだろうとは思うんですけど、一応決まりなのでお渡ししておきますね」と言われ、地球の鍵を受け取った。

142

道路を布団だと思った犬が道路の下に挟まって寝ている。犬にとって道路などないのだ。

141

車の助手席に乗っているだけというバイトがある。路上駐車して配達に出ても駐車違反にならないように、助手席に人を乗せておきたいのだそうだ。街の様子をスケッチしながらひとりで待っていると、風景が少しずつ風に飛ばされていった。電柱や信号機などのありふれた無機物が真っ先に飛ばされて、飛ばされた箇所にはスノーノイズが現れた。それはやがて無機物だけでなく花や通行人にまで及び、車外のほとんどがチカチカした白黒の世

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140

最近本を読んでいても文字が霞むようになってきた。眼科に行って相談すると「では眼球を変えておきましょうかね」と言われた。医療の進歩もここまできたかと思って感心していたが、眼球を取り出すときはさすがに少し怖くて何度も目を閉じようとしてしまった。医者はまぶたを強く引っ張りながら慣れた手つきで眼球を取り出す。取り出した眼球を見せられて「ほら、ここが少し歪んでいますよ」と医者に言われたが、たしかに歪んでいた

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139

寒い日は温かいスープを携帯していないといけない。外から温度を摂取しなくては際限なく体温が下がっていき、わたしは死んでしまうのだ。もちろんまだ死んだことはないのだけどわたしはそうなってしまうことを確信している。少し前まで四六時中温度を供給してくれていた人がいた。吸血鬼が人の血を吸うように、人の体温を奪って生きていたのだ。だけどその人は突然いなくなった。そのときの無力感は明らかに死に直結していた。

138

歩道橋の上に立って何かを朗読している男がいる。彼の驚異的な実力は正当に評価されていないが、そんなことを気にする様子もない。彼はただ朗読を続ける。車の走る音、風の吹く音、人の歩く音やカエルの鳴き声そのほか種々雑多な騒音の絡み合うすべての音を朗読している。

137

何もない日がよくある。それが他人と違う意味を持っていることに気づいたのは最近になってからだ。彼らは「予定が何もない」という意味で使う。ぼくは「空間ごと何もない」時に使っていた。物質は前触れもなく消えてしまうが、再び現れる時も理由などはないようだ。

136

猫がいたから追いかけてみた。猫はいろんな道を知っていた。知らない道を通るたび、近所のはずなのにまるで知らない町にいるように思えた。ぼくなんかよりも猫の方がこの辺のことについてずっと詳しいみたいだった。徐々に知っている景色が少なくなって、自分がいる場所もだんだん分からなくなってきた。ふと見ると周りの家がぜんぶ猫で出来ていて、魔法が解けたように一斉に走り出した。たいして広くもない路地で大量の猫が我先に

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135

鳥になった夢を見た。目が覚めると鳥が口の中で生まれるようになった。種も仕掛けも前触れもなく口の中に鳥が突然発生する。鳥はぼくの口をこじ開けて飛び立っていく。たまたまそれを見た子供は手を叩いて喜ぶ。手品だと思っているのだ。しかしぼくとしては鳥が出るたび泣きそうになる。想像してみてほしい。羽が寄り集まって口の中にいるのを。細くて硬い脚が舌を押さえつけるのを。その想像よりもリアルな感触が自分の口の中に発

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