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「旅する巨人」の弟子 マカピーの日々 #1441

マカピーです。
宮本常一さんという方を知っていますか?

宮本さんは1981年に亡くなっている民俗学者です。

マカピーが民俗学に強く惹かれたのは、民族学博物館(みんぱく)の館長をされていた梅棹忠夫さんの著作「知的生産の技術」を教えられたからでした。

それは最初は米国での酪農実習で、そして青年海外協力隊で東南アジアを知る頃でエスノロジー(民俗学)に目覚めて行くのでした。

それは各地の博物館を見ているうちに、根底に流れる共通性や宗教の影響、言語の流通などが複雑に絡むものでした。

梅棹さんのチームは学術隊を組織して東南アジア諸国を調査し「東南アジア紀行」を著します。

偶然にも、その時期はカンボジアのポルポト政権が始まる前の不安定ながらもインドシナ諸国がかろうじて平和を保っていた時期でもありました。

マカピーはカンボジアの日本大使館の公使に「東南アジア紀行」の事を伺ったことがありました。

その記述の中に大使館書記官の今川さんの事が書いてあったからでした。(今川さんはポルポト後のカンボジアに日本大使として着任されています)

公使は今川さんの一年後輩だった方で梅棹さんとの面識はなかったと教えてくれました。

マカピーは一時期「みんぱく」の会員だったこともあり、季刊誌も楽しんでいました。

いつか、「知の巨人」的存在であった梅棹さんは次第に憧れににもなっていました。

先生にお会いできることがあるかしらと思っているとそれが実現しました。

家族旅行で民族学博物館を訪れた際に、秘書の方とエレベーターに乗る梅棹先生を走って追いついたのです。

「お乗りになりますか?」秘書の女性がとマカピーに尋ねました。

「いえ、いいんです」

女性は、静かにお辞儀をしてエレベーターを操作して階上に行きました。

その隣には正面を向いた背の低い梅棹先生がいらっしゃいました。

先生はその数年前に突然視力を失っていたのですが、盲目になりながらも口述するなどしてその知的生産は衰えなかったのです。

マカピーはその梅棹先生の姿を忘れることは無いでしょう。


ウズベキスタンでスマリャックという伝統料理を食べる儀式に呼ばれました

民俗学になると、ついつい梅棹先生に脱線してしまいます(笑)

そうです、宮本常一さんでしたね。

たまたまNHKのアーカイブでマカピーは初めて生のお姿と声に接しました。

代表作の「忘れられた日本人」他を読んだり佐野眞一さんの「旅する巨人」での宮本さんと渋沢さんの友情に感動するのでした。

宮本さんは膨大な数の現地の人からの話を聞くことによってそれをまとめ上げているのです。

彼の功績は、民俗学の黎明期で柳田国男の「遠野物語」は有名でしたが柳田さんはお役人出身で少し固いところもありました。

ところが、宮本さんは庶民レベルでちゃんと性も語るし、肺結核を患いながらも渋沢さんの支援を仰ぎながら新境地を切り開いたことだと思います。

そして、今や失われてしまったその時代を「見事に切りとる」記録として功績があったと思うのです。

だから、沢山の人に受け入れられマカピーの様に「にわか民族学者きどり」を楽しませてくれたのだと感謝するんです。

だれでもが、初めて見聞きすることに驚きます。

その後に、何故こことあちらでは違う文化となったのかしら?って考えます。

すると、そこにいろいろな歴史的事実が介在していたりする事を考えることもできます。

後に全く別の機会に、たまたま読んだ文献で「つまりこの事って、以前疑問に思っていた事のヒントじゃないかな?」そんな思索をすることが出来ると、眠れなくなるほど面白い謎解きにもなるのでした。

宮本さんは1966年に近畿日本ツーリストの援助で日本観光文化研究所(現・旅の文化研究所)を開設その所長となったそうですが、不思議な縁でマカピーの友達が学生時代に友達二人でアフリカのキリマンジャロ登頂記をそこから出版した事があったのでした。

最初はガリ版刷りのとんでもない装丁の旅行記なのに、何で発行者に大袈裟な研究所の名前がついていたのか分かりませんでした。

今思えば、友達はそこからの旅行資金支援を頼んでいたのでその見返りとして旅行記を出すことを約束していたからだろうと想像できます。

春になるとタシケントにマルメロの花が咲くのでした

こうして、宮本さんは亡くなるまで若者が新しい文化に触れる機会を推進していたように思うのでした。

マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。どんな切り口でも良いから人生を楽しみましょう!



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