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不条理な死を前に

2005年に起きたJR福知山脱線事故をめぐり「事故の調査報告を有利にするための工作と情報漏洩が発覚した」とのニュースを受けて綴った旧ブログ記事(2009年10月2日)から再掲。


またも組織によって「真理」が犠牲となった。企業のうたう「安全」はもはや神話でさえない。JR福知山線の脱線事故で報告書の漏えいが明らかとなり、事故調査の中立性が改めて問われている。

9年前の営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線脱線事故が脳裏をよぎる。死亡した5人のうちの1人は、若くして長老(教会役員)に選ばれた同じ教派の敬愛する兄弟だった。突然の別れに、教会の葬儀へ駆けつけた多くの友人・知人らも悲嘆と動揺を隠せなかった。

当時の営団総裁は同じキリスト者として、教会発行の追悼文集に寄稿し、故人や遺族の信仰をたたえた。

「このたびの不幸な列車事故は、このように優れた若き信徒の命を奪ってしまいました。なぜ、神様がこのように早く○○さんを天に召されたのか、誰にもわかりません」「○○牧師が語られた『人の生死は神の定められるところであって、つらい事態ではあるが、そのように受け止めなければならない』というキリスト者の死生観に関するメッセージ、そして○○さんのご両親が語られる同趣旨のお言葉は、これを聞いた営団役職員の口を通して、尊敬の念をこめて語り広められています」(追悼文集「一粒の麦」より)

他方、事故後の営団側の対応に不満と憤りを覚えたある遺族は、慰霊碑への記銘すら拒否し続けている。

同じ事故で17歳の息子を失った父によるHP「17才の生涯」は、涙なしに読むことができない。やはり、誠意のない組織への怒りと愛息を突然奪われた遺族の慟哭がつづられている。

わたしたちキリスト者は、彼らに届く言葉を持っているだろうか。この世のどんな悲劇も「神のご計画」であることに変わりはないが、人命軽視、利潤・効率最優先の市場主義社会のもと、政官財の癒着、天下りの構図や大企業の無責任体質を不問に付すことが、果たして信仰者に求められる姿勢なのだろうか。

「空の安全」を求め、信念を貫く主人公の戦いを描いた映画「沈まぬ太陽」(山崎豊子原作)が、今月公開される。不条理な死、人間の「罪」から生まれる構造的な巨悪を前に、わたしたちはどこに立つべきか。


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