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持続可能なまちづくりとは・「商店街とSDGs」の関係性を考えるVOL.1(#2)


はじめに
先日、中部大学のSDGs国際関係論の連続講座で「商店街とSDGs」というテーマで講義をさせてもらいました。この講座は、中部大学教授の他、行政や企業の関係者がそれぞれの専門分野で講義を行います。この時の講義録を中心に商店街とSDGsの関係性を紐解いていこうと思います。

さて、商店街というと、かつてはイベントや売り出しなどの事業を行うことで来街者を増やせば個店の売り上げも維持できると考え、ごみ減量などの環境問題には「商店街が繁盛すればゴミが増えるのは当たり前」と冷ややかな対応をしていた時代がありました。しかし、最近は、経済的な発展良好な生活環境の維持福祉などの生活の質が密接な関係にあり「持続可能な地域」となるための重要な要素であると考えが変化しています。

特にそのための「まちづくり」は、そこを目指すための重要な手段と考え、行政や企業、各種団体が個別に行っている活動を地域全体の共通課題として捉え、単なる商店街の活性化という内向けの活動ではなくエリアマネジメントの活動に変化しています。ここでは、明治、大正、昭和の変遷から商店街振興組合法が施行された昭和30年代以降、国の法整備がどう変化してきた辺りを振り返りつつ話を進めて行きます。

明治から戦後まで 商店街を取り巻く環境


明治以降、急速な人口増加にともない都市化も進み、徐々に商業も発展してきます。大正に入ると、これらの商業者による組織化がされてきますが、昭和7年商業組合法が、百貨店の大衆化に対抗するため、施設の共同化整備や共同販促、共同仕入れ等を推進するため中小商業者の組織化を目的として制定されます。さらに、昭和12年中小零細商業者との紛争を調停するため第1次百貨店法が制定され、その後、戦時下の昭和18年に商工組合法が制定されると、これに統合され商業組合法は廃止されます。

しかし、大戦の影響で日本の大半の都市空間は廃墟となり、基幹産業は壊滅、大陸からの引揚者、物価秩序はインフレーション、配給制度、闇物資の流通により混乱を呈していました。都市には大勢のにわか商人が出現し小規模零細な事業者として商いを行いますが、粗悪品の流通は主婦による消費者運動を引き起こすことになります。

戦後、国の商業政策は、昭和22年にGHQにより第1次百貨店法が廃止、昭和24年に中小企業等協同組合法が制定、商店街の法人化が進みました。この制定の目的も戦前の商業組合法と同じでしたが、1つ異なったのが政策形成集団として力を付けたことでした。そして昭和31年第2次百貨店法が制定されます。

商店街振興組合法制定のきっかけは伊勢湾台風からの復興


昭和34年に発生した伊勢湾台風は、名古屋の沿岸部に甚大な被害をもたらします。この伊勢湾台風という災害からの復興を目的に昭和37年、商店街の単独法として振興組合法が公布されました。物資の流通が麻痺する混乱の中で、市民の日常生活に商店街の小売機能の迅速な復興が求められ、政府は復興のための補助金対象を法人と決めました。法人には事業協同組合がありましたが、同業種的協同組合では地域団体的商店街にはそぐわないため、愛知県商店街連盟を中心に振興組合法成立に動いて行きました。

その後、政策形成関係者として大きな力を付けていった商店街は、昭和48年の大規模小売店舗法(大店法)の制定へと向かい、同様に大きく成長してきたダイエーなどの大型店との商業調整の時代へと入っていきました。大勢の買物客でにぎわった商店街が地域の顔として大きな存在感を見せていた時代です。ある意味補助金の受け皿として組織化された振興組合は、利権団体として現在でもその性格は変わっていません。盟友のAIA代表木下斉君が「補助金は麻薬」もらい続けると止められなくなるという所以です。


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