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【芥川賞受賞作品研究①】

第167回芥川賞受賞 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』

 2022年上半期の芥川賞を受賞した高瀬隼子氏の『おいしいごはんが食べられますように』。
 2022年の夏と言えば、コロナウイルスのパンデミックが少し落ち着いてきた頃と記憶している。当作品では、コロナにまつわる「マスク」やそれによって普及した「リモートワーク」等の言葉は一切出てこない。2021年上半期に受賞した石沢麻依氏の『貝に続く場所にて』や同年下半期に選ばれた砂川文次氏の『ブラックボックス』では「マスクを付けている描写」が多くはないものの書かれており、コロナ禍の潮流も加味してマスクの描写がスタンダードになるのではないかと思ったりもしたが、そうはならなかった。「芥川賞作品は時代性を捉えた作品」とよく目にするが、当作品には「流行り」のキーワードみたいなものはなかったように思える。

作品の概要とそれに伴う批評

 それではまず、当作品単行本の帯に記載されたキャッチフレーズを見ていこうと思う。

「職場でそこそこうまくやっている二谷と、
 皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、
 仕事ができてがんばり屋の押尾。
 ままならない人間関係を、食べ物を通して描く傑作。」

 この帯の言葉を一目見ればわかる通り、この作品は「人間関係」が主題のようだ。(これ以降はネタバレを含みます故今後読む予定の方はそっとブラウザを閉じることを推奨します)

 主人公(純文学に「主人公」と呼べるようなポストがあるのかは少し疑問に思うが)は二谷である。しかし二谷の視点だけでは物語は進行しない。「がんばり屋」の押尾の視点も加わって物語は進行する、二視点による群像劇的な要素がある。視点がころころと変わる純文学作品は珍しいように思える。(これは完全に主観的な意見である。というのも純文学作品は私の読んできた限り「私小説」的要素を多分にある含んだ作品が多い故に、一人称もしくは三人称で語られ、視点は基本的に固定されていることが多いと思っているからである)私の固定概念が崩してくれたこの作品は、とても丁寧に視点移動を行い、それによって「人の不気味さ」を上手く表現している。

 人間誰しもが他人に言えない隠し事を持っているものだろう。当作品は「二視点」の運用によってその隠し事・嘘を読者に暴く。
 作品の舞台は職場である。上記の三人は同僚で同じオフィスで働いている。物語の序盤、「がんばり屋」の押尾は二谷に「皆が守りたくなる存在」である芦川をいじわるしないかと誘う。ここだけ見ると押尾が型に嵌めたような悪人に見えてしまうがそうではない。押尾は芦川のことが苦手と言っているが、それ以上に鬱憤が溜まっているのだ。というのも、芦川は他の社員が残業している中一人退社する。大事な顔合わせや研修の際に欠席する。頭痛を理由に休む……これらのせいで押尾は芦川の尻拭いをやっていたのだ。しかも芦川は上司から守られ特権的な立場になっている。これらの理由から押尾は芦川をいじわるしないかと二谷を誘ったのだ。「依怙贔屓」という言葉がぴったりと当てはまる状況に不満を募らせている押尾に対して、二谷ははっきりとした言葉を用いない。それは二谷と芦川が恋仲にあるからだ。

 二谷と芦川の説明をここでしておこう。二谷は帯にもある通り職場で「そこそこうまくやっている」。人間関係も良好で誰からも嫌われていない、一人暮らしで毎日昼も夜もカップラーメンを食べている男である。連日連夜カップラーメンで凌ぐ生活を私も学生時代に送っていたので、二谷のその生活態度には少なからず共感できるところがある。
 芦川は帯の言葉の通りなのだが、注目すべきは「職場に自作のお菓子を持ってくる」という行動である。彼女は週の中日でも帰宅後にお菓子を作り会社に持ってきて、社員やパートで働く人たちに平等に与えている。しかもそれが頭痛を理由に他の社員よりも早く退社した次の日でもそれをやるのだ。一般論から言わせれば「頭痛」で帰ったんじゃないの?と突っ込みたくところだが、芦川はしっかりと「薬を飲んだらよくなったので」と付け加える。なんとも用意周到である。それに対して押尾は机の中に痛み止めを忍ばせているのだからほとほと健気である。料理が得意な芦川は二谷と付き合って以降、土曜日に二谷の家に行き料理を振舞うようになる。昔の言葉を使えば「押しかけ女房」さながらの振る舞いである。

 二谷と芦川は三回目のデートの時に肉体関係を結び始めたと思われる。デートの最中、二谷は「そんなことより、今日はセックスできるんだろうな」と考えており、そのまま二人は二谷の住む部屋に入るところで描写は止まっている。次の描写では、二谷が押尾と二人で飲んだ日の次の日が描かれる。(その飲み会で押尾は二谷に芦川へのいじわるの共謀を誘っている)ここを読んでいると「浮気」の一言が頭によぎるのだが、実際、二谷は押尾と浮気寸前まで行っている。二谷と押尾はその後も何回か仕事終わりの飲み会を重ねて、ある日の飲み会後、押尾は二谷の部屋に遊びに行く。その際、二谷は「おれ、同僚とは寝ないよ」と宣言するのだ。これが上述した隠し事・嘘の暴露である。もう読者は二谷が芦川と寝ていると分かっているので、この主義主張が嘘であるということが容易にわかる。押尾視点では二谷の言葉が嘘だということに全く触れない。気付かない。

 しかし結局、二谷は部屋で押尾に「やっぱりやる?」と誘う。ここも作りが上手いと思う。嘘の理由でやらないと読者に思わせておいてやっぱりやる。男だから仕方ない、みたいな理由を考えさせられるが、ここでは二谷の言動によって、読者側の予期せぬ方向に物語が引っ張られていく。
 結局、二谷と押尾はベッドの上で裸になるまでに至ったが、最後まではしなかった。それでも読者が二谷の人物を把握するのにはこれ以上の描写は無いように思える。やれるからやる。やれないならやらなくても大丈夫。カップラーメンと同じである。おいしいから食べるのではなく、食べられるから食べる。この二谷の根幹がリアリスティックで、現代人の、食の飽和した時代に生きている人々の本質を捉えているからこそ、この作品は芥川賞に選ばれたのではないだろうか? 

 それでは二谷という人物が現代社会にいる普通の人間なのかと言われればそうではない。芥川賞作品に登場する人物は得てして特異性を持っている。御多分に漏れず二谷も物語の中盤でその特異性が見えてくる。
 芦川と寝た後、ぐっすりと眠る芦川を脇目に二谷はカップラーメンをすする。食べた気がしないという。違う日、芦川がご飯を作ったあとの帰宅後、カップラーメンをすする。異常としか言いようがないこの行動。二谷は「生きるために食べるのは面倒」と口にしているにもかかわらず食後にカップラーメンを食べてしまう。二谷は「不必要な食事」を嫌っていると思われる描写が幾度となく描かれるが、この不必要なカップラーメンの食事は、栄養のある、しっかりした食事への怒りと捉えることができるだろう。少し長いが本編終盤から一節引用する。

「ちゃんとしたごはんを食べるのは自分を大切にすることだって、カップ麺や出来合いの総菜しか食べないのは自分を虐待するようなことだって言われても、働いて、残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、ほんとうに自分を大切にするってことか。野菜を切って肉と一緒にだし汁で煮るだけでいいと言われても、おれはそんなものは食べたくないし、それだけじゃ満たされないし、そうすると米や麵も必要で鍋と、丼と、茶碗と、コップと、箸と、包丁とまな板を、最低でも洗わなきゃいけなくなる。作って食べて洗って、なんてしてたらあっという間に一時間が経つ。帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、俺が来ている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。」

 上記の言葉で二谷の怒りが読者にも伝わるだろう。「必要のある食事」しか許さない二谷の不寛容、拒絶が伝わってくる。
 物語終盤、社内である事件が起きる。芦川が会社に持ってきて皆に与えていたお菓子が何者かによってゴミ箱に捨てられていたのだ。犯人は二谷である。ある時は手で握りつぶし、ある時は革靴で踏みつけ、ゴミ箱に捨てる。二谷はそれを繰り返していた。一方、押尾は朝早く出勤した際に、ゴミ箱からそれを見つけ、袋に詰めて芦川のデスクに戻していた。押尾は二谷にそのことを相談すると、「それを捨てたのは、おれじゃないよ」と答える。「おれは捨てる時、ぐちゃぐちゃにつぶしてるから形が崩れてないなら、おれが捨てたものじゃない。押尾さんが捨てたんでもないなら、つまり、うんざりしてるやるは他にもいるってことだ」。この言葉にどれほどの真実味があるのかは定かではない。本当は二谷がそのまま、形を崩さないまま捨てていたのかもしれない。他に捨てている人間はいないのかもしれない。けれど、嘘の混ぜ方が上手いというか、真実も混ぜた嘘をつくとそれが真実のように思えるし、捨てたことは正直に言っている手前何とも言えない。この二谷の立ち回りがとても人間的で親しみやすく、展開で見てもヒリヒリする場面である。そして押尾なのだが、そっとデスクの上に置いておくのは一種の優しさにも見えてくる。本当に嫌いならば、自分も同じようにお菓子を捨てたり、見なかった振りをするものだろう。しかしそれをせずに律儀に芦川のデスクに戻すのだから、「真面目」としか言いようがない。

 この事件が社内で明るみになると押尾はその犯人として疑われ、結局退職することになる。細かい描写は省くが、その後、二谷は転勤することになり、その送別会で二谷は芦川との結婚を強く意識するようになって物語は終わる。最終的にこの物語は芦川の勝利に終わったように思えるが、その表面的・立場上の勝利によって「芦川の不気味さ」が際立ってくる。自分は何も手を汚さず、周りの人間に守られ、自分の得意なことで上手いこと周りからの信頼を勝ち取る彼女の姿は「普通」に見えて「普通」じゃない。打算的な部分が見え隠れしているから打算的でない人間、何かを我慢している人間の目に気持ち悪く映る。

芥川賞選評

 さて、色々と言葉を並べてみたものの「芥川賞に選ばれた一番の理由」というのは私にもまだ見えてこない。なので、芥川賞の選評を見ていこうと思う。(この選評は「芥川賞のすべて・のようなもの」から引用いたしました。詳しくはそちらをご覧ください。https://prizesworld.com/akutagawa/)

山田詠美:「私を含む多くの女性が天敵と恐れる「猛禽©瀧波ユカリさん」登場! 彼女のそら恐ろしさが、これでもか、と描かれる。思わず上手い! と唸った。でも、少しだけエッセイ漫画的既視感があるのが残念。」

島田雅彦:「人物設定を意図的に類型化しているのだが、可愛くて料理上手の、いわば特性のない女が総取りするという脱力の結末に向かう行程を面白がるか、首を傾げるかで評価は分かれた。」

小川洋子:「最も恐ろしいのは芦川さんだ。その恐ろしさが一つの壁を突き破り、狂気を帯びるところにまで至っていれば、と思う。」

松浦寿輝:「候補作五篇のうち(引用者中略)ずば抜けて面白い。閉じた小集団内部での人間関係の力学が繊細な筆致で活写され、どこか横光利一「機械」を思わせる。」「圧倒的に凄いのはいつもにこにこしている「芦川さん」の人物像の造型だ。」「打算的な女と煮え切らない男を突き放して見ている作者の視線は冷酷だが、同時にその距離感によって二人を優しく赦している気配もある。」

吉田修一:「誰も我慢しなくて済むようにとの思いから生まれたはずの多くのコンプライアンスの中で、誰が一番我慢を強いられているか? を競うコンテストのような物語として読んだ。」「全体的に少し冗長すぎるように思う。描写で読みたい場面の多くが会話文で処理されているのも不満が残る。」「とはいえ、前作に引き続きの筆力は確かである。」

平野啓一郎:「生のルーティンの懐疑という前作以来の主題は、より複雑化し、緻密になった分、インパクトはやや低下したが、作者の着実な歩みが評価されたことは喜ばしい。」

奥泉光:「自分もこの作品を推した。」「どこにでもありそうな職場の、珍しくもない人間模様を描いた本作は、一人称と三人称の二つの視点を導入することで、人物らの「関係」を立体的に描き出すことに成功している。」「一見は平凡に見えて、本作は野心的な作品といってよく、作者の方法への意識の高さをなにより評価した。」

川上弘美:「(引用者注:「N/A」と共に)○をつけました。」「わたしは読みながら、芦川と二谷に心を奪われてしまった。押尾も、もちろん好き。周囲のほかの同僚たちも面白い。やがてかれら全員が、簡単にはほぐれない一つの球体をなして、どんどん輝きを放ってくる。」「作られた人たちのはずなのに、作者の手をずいぶん離れて、作者も思っていなかった行動を、かれらはしていったのではないでしょうか。」

堀江敏幸:「会社内の群像劇に一対一の関係を入れ込むのではなく、一対一の関係が多対一に溶けて不気味に広がり出す過程を巧みに描きだす。」「芦川という女性の「使用不可」感の凄みが際立つのは事実だが、(引用者中略)他のどこからも「入手不可」で「ないがしろにできない」ものとして徹底されていくところに、あとをひく旨味があった。」

 山田詠美氏の選評だけぱっと見よくわからないが、とりあえず芦川について言及しているのではないかと予想している。それ以外にも芦川に触れている選評が多く見受けられる。
 吉田修一氏が「コンプライアンス」に言及しているが、これがこの作品の現代性についてもっとも的を射ているのではないだろうか。「誰が一番我慢を強いられているか? を競うコンテストのような物語」の表現は秀逸だと思う。
 また、二視点については奥泉光氏が言及しており、やはりこの作品の特異性、作りの巧さについて言及している。
 そして島田雅彦氏の批評については私も同意見である。「可愛くて料理上手の、いわば特性のない女が総取りするという脱力の結末に向かう行程を面白がるか、首を傾げるかで評価は分かれた。」普通の今を生きる女性、女性であることに何の躊躇いもなく、古くから言われている「女性らしさ」を体現したかのような人物が最終的にこの世の中で勝利を勝ち取るという結末は如何なものかということだろう。
 例えば「結局金持ちの家に生まれた人間が幸せ」とか「才能ある人間が勝利する」とか言った言説では道端に転がっている路傍の石も同然で文学の意味をなさないと思う。しかしながら、当作品はそれが主題ではない。弱きものを守るためのコンプライアンスがまかり通る現代でその守護に与かれない者たちの不満、苛立ちこそ、この物語の主題ではないだろうか? この世の中で守られず、世論に反発する人々の嘆きを「普通の女性」との対比によって表現したのではないだろうか?

個人的見解

 この作品のフックは押尾が二谷にいじわるの共謀を図るところだと思われる。普通「いじわるしないか」と誘ってくる同僚なんていない。その「非日常性」がこの作品に引き込まれる一つの要因となっていると思う。また二谷が芦川と付き合っているというのも、なんともこじれた関係性である。二谷は芦川と付き合っているが、本質的には押尾サイドに与しており、しかも押尾よりも余程酷い仕打ちを行っている。手作りのお菓子を捨てるという倫理的暴力性によって二谷の人間性が提示される。
 我慢コンテストと比喩されたこの作品だが、この作品の根幹となるテーマは我慢を強いられている人間、一般論や正論に押しつぶされそうになっている人間の叫びだと思われる。また、そういった叫びが、「普通」との対比によって色濃く浮かび上がるように作られている点がこの作品の最大の評価ポイントだと思う。現代性の観点から見れば、「コンプライアンスを盾にして早く帰る女性社員」を悪く言うことはできない。しかし、その尻ぬぐいを誰かがやっている。誰かがその分我慢しているということを浮き彫りにする作品だった。やはり「芥川賞受賞作品は現代性を捉えた作品」は間違っていないようだ。

最後に

今後も不定期ではありますが、芥川賞受賞作品の研究・批評・感想を書いていこうと思います。これを読んで作品作りの糧になった、作品をより深く読み込めたと思ってもらえると幸いです。引き続きよろしくお願いいたします。

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