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ハタチの最初の土日に

 晴れた冬の東京、2R未勝利戦にて。
 パドックの最前でビール片手にウマを見ていると、隣が小学6年生ぐらいの女の子であることに気付いた。身長が高かったので最初はわからなかったが、視界の隅に入るまるみを帯びた輪郭が子どものそれだった。物珍しさから声をかけてみた。
「馬が好きなの?」
「うん」
 少しの無言のあと、
「おねえさんも?」
 こんな寒い朝からビールを飲みながらウマを見ている悲しいオネーサンに返事をしてくれたのが嬉しくて、そうだよ、と終えるには勿体無いと思い、
「きみは乗馬でもやっているの?」
 と話を続けてみた。
「ううん、そこまでじゃない」
「そうか。私もね、騎手や馬を見るのがよくてね。このレースの一番人気の騎手が好きなんだ。勝ってほしいけど、どうかねえ」
 また無言になった。聞かれもしないことをベラベラと喋りすぎたな、と反省した。
 すると、
「ユッキーですね」
「そう!石川裕紀人くん」
 小学生ぐらいからしたら、ユッキーなんだな。とはいえ、石川裕紀人をユッキーと呼び親しむ小学生がこの世にどれほどいるだろうか。
「わたしはね、リュウちゃんが好き」
「リュウちゃん?」
「坂井リュウセイくん。リュウちゃんって呼んでるの。で、ゆきとくんは、ユッキー」
「坂井くん、確かにかっこいいよね。綺麗な顔立ちだよね。今日は関西から来てるんだね。うれしいね。でも、競馬ってさ、クラスのミンナとなかなか話合わないんじゃない?」
 女の子はそれには答えなかった。あ、聞かない方が良かったかな。でもきっと、わたしと同じようなものを持っているんじゃないかと思って、もう少し話してみたくなった。
「‥競馬好きって、サッカーや野球なんかと比べたらやっぱり珍しいみたいで。こないだ職場でね、飲み会の名簿かなんか見たらさ、私のこと、ウマって書かれてたんだよ。あだ名、ウマだぜ。笑っちゃうよなあ」
 女の子はふふっと笑った。よかった、笑った。
「いいよなあ、ウマ。楽しいよね」
 ウマを見たまま呟くと、
「ウン」
 と女の子は同じくウマを見つめながら頷いた。
 止まれの号令でウマたちが行儀良く立ち止まる。騎手が整列し、一礼ののち散り散りに駆け出す。ユッキーとリュウちゃんが同じ方向に駆けていく。女の子はスマホでリュウちゃんを精一杯拡大して撮っている。画質が悪く、画面の中のリュウちゃんの輪郭はボケて誰だかわからないほどになっているが、関西からやってきたリュウちゃんを見られる嬉しさが伝わってくる。
 すると女の子は「あっ」と小さな声を上げた。
「リュウちゃん、グラサンしちゃった」
 ゴーグルをかけたことでリュウちゃんの眼差しが隠れたのだ。女の子は口惜しそうにしている。ゴーグルをしたリュウちゃんが少しずつ女の子の方に近づいてくる。目の前を通るとき、女の子は一生懸命スマホのシャッターを切った。私は一歩下がって、スマホを掲げる女の子の背中と、リュウちゃんを撮ってみた。しあわせなツーショットスナップだ。
 この子もあと数年もしたらアルバイトでも始めて、せっせとお金を貯め、遠くの被写体の輪郭線もはっきり写るような一眼レフでも買い、クラスの男子なんかに脇目も振らず、一人でこそこそ毎週末競馬場に来て、リュウちゃんの写真ばっかり撮るのだろう。
 そして、ハタチになった最初の土日、リュウちゃんのはじめての応援馬券を買うのさ。坂井瑠星よ、その一戦はどんな重賞よりも、G1よりも、重大だからな。頼むぞ。その記念すべき応援馬券が的中したりなんかしたら、この子はリュウちゃんのことも、競馬のことももっと好きになるに違いないんだ。
 彼女にはそんな悲しい人生を、思いっきり楽しんで生きてほしい。そんなことを思いながら、前日までに考え抜いた一番人気のユッキー軸の予想をかなぐり捨て、ビールをグイッと飲み干し、坂井瑠星の応援馬券をしこたま買った。
 結果は、ユッキーの圧勝だった。



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