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ムード・インディゴ🫧〜うたかたの日々〜

恋愛物語、および恋愛について語るのはキケンだと常々思ってきた。なぜなら、この手の話題はあまりに個人的にすぎるうえ、夢占いと同じで、語る本人も知らない潜在意識が滲み出てしまい、しばらく後に一人で真っ赤になること必定だからだ。

しかしながら、こうした事態を恐れる以上に、今はこの物語について語る衝動の方が大きい。

🧀🐀…

フランス映画、原作はボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』。

この驚嘆する不思議な世界観を、映像でこれほど忠実に再現するのは骨を折っただろうと思う。そして、実写に至って改めて、原作者の(いい意味での)奇天烈な想像力に舌を巻いた。

クロエ役は好きな映画『アメリ』のオドレイ・トトゥ。愛くるしい黒眼も相まって、この人の喋るフランス語は小鳥のさえずりみたいだ。
コラン、コラン…
好きな人の名前を飴玉のように舌の上で転がすクロエ尊い。

(着ぐるみを着た男が扮するハツカネズミも、ちょっとした見もの…‼︎)

ニコラとシックは、青年というより中年ではあったが、それでも「恋」「女の子」という単語に反応する敏感な耳、ひそやかに輝く瞳は初々しく、好感を抱かずにはいられない。彼らの世界では、(そこに期待がある限り)恋と幸福とがほとんどイコールに結び付けられている。その対極にあるのが孤独、だ。

愛を知る前の孤独、と愛を失った後の孤独、とはどちらがより堪えるものだろうか。少なくとも本作では後者であり、クロエや親友を失った後のコランが幸福になる未来予想図を私は描くことができない。

もしかしたら私は、肺に睡蓮の花が咲き、日に日に弱っていくクロエの姿以上に、豊かで(そして素晴らしきカクテルピアノのある!)コランの家が廃屋と化していく様子の方に胸を締め付けられたかもしれない。

住人の前途に影が差すとともに、素晴らしく行き届いていた快適な家も、「人相が変わる」。これは、本当のことだと思う。私は、家にも表情があると思っている。

クロエの治療費を稼ぐため、初めて労働の必要に迫られたコランの憔悴しきった顔。
どうして何をやってもうまくいかないのか、彼にはわからないのだ。

私はここで思い出す。クロエの病は、二人がハネムーンで訪れた宿で芽吹いたのだということを。
コランが何気なく放り投げた小石が、宿の窓ガラスを割る。その時にできた窓の穴が、やがてクロエを殺すことになる睡蓮の種を呼び込んでしまうのだ。

クロエがコランの恋人として選ばれた瞬間に、彼女の運命は決まったのではないかとさえ、私には思われる。

実は、クロエを選んだのはコランではない。コランの親友であるシックの恋人・アリーズだ。

ロミオとジュリエットばりに、なぜ、なぜあなたはクロエなの、コランなのと問いたい。だがそこに理由はなく、悲しいことに偶然でもなく「必然」だった。となれば、クロエが病に倒れるのも「必然」なのだ。

映画にしようと舞台にしようと、この物語の終わりが絶望的だと(先に原作を読んでいた)私は知っている。それなのにどうして、求めてしまうのか、不思議だ。

眩い色彩と音楽が溢れるオープニングから始まり、幸福の頂点である結婚式を過ぎ、クロエの葬式の日には完全にモノクロと沈黙へと落ち込んでいく。

観終わってしばらく、彼らの不幸に沈んでいたと思うと、また「恋の落ちはじめ」から二人を追いたくなる。コランがクロエに、何度も恋をする未来予想図なら、私は喜んで何度でも描けると思う。

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