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しみじみ・シミジミ

(平成五年一月)

 近頃のテレビのコマーシャルを見てひとつ思いだすことがある。
「こうしていると手の気持ちがしみじみわかりますね」といっている。このときの「しみじみ」ということばの使いかたはまっとうであって、何ら反論の余地はない。しかしこれがこのあたりの人に限っていうならば、多少ニュアンスを違えて受け取る人がいないともいえない。
 現在ではほとんどテレビの影響で、地方でも方言を話す人が減ってきていて、とくに若い人たちは方言からは遠くなりやすい。方言は日常の生活の場でだけ適用するものであって、一旦路上でマイクなど向けられようものならたちまち東京人となる例が多い。
 このへんで「しみじみ」というと「心に深く染みこむように」という意味よりもむしろ 「気を入れて」とか「その気になってあるいは場合によっては「たくさん」(物の量や 物事の度合いをいうとき)ということを表現するのに使われることが多い。たとえばこうである。
「もっとしみじみやれ!」(もっと気合いをいれてしっかりやれ)
「いや、しみじみあんな」 (おやまあ、ずいぶんとたくさんのありますね)「しみじみ話せ」(もっとよくわかるようにはっきりと話しなさい)

 わたしがここへ嫁いできてしばらくしてから家を少し建て増ししたが、その工事のいく日目かに雪が降った。大工にタモさんと呼ばれている人がいて、その人が足を投げ出した格好で基礎の上に渡したねだにまたがり、「しみじみ降ってくれや」といった。むろん雪を人に見立てたいいかたである。わたしはこれを聞いて(まだお嫁にきて一カ月かそこいらであったので)こういう場面で雪にむかってしみじみというようなことばを使う人はなんとロマンティストなのであろうと感嘆した。
 しかし、それ以外のタモさんの言うことやすることを見てもとくにロマンティシズムが感じられるようなところはなく、よく言えば素朴、悪くいえば野暮な限りで、あの「しみじみ」の使いかたは誤ったものであるという結論に達した。
 ところがもっと時間がたつにつれてこのへんのことば使いがいくらかわかるようになるとタモさんは間違っていたわけではなく、ごくあたりまえに「(どうせ降るのであれば)うんと積もるほどに降ってくれ。(そうすれば自分たちは外の仕事に向けられることがなくて、この寒い時期に辛い思いをしなくてすむから)」と言ったということがわかった。
 髪をとかすブラシで、我が家だけで通用する「シミジミブラシ」というのが一時あった。どういうブラシかというと、歯が頭の地肌まで十分に届いて、まさにブラッシングしたという実感の強くもてる、そういうブラシのことである。つまり、しみじみ髪をとかすことができるブラシというのを縮めているのである。標準語しか知らない人に「シミジミブラシ」と言っても「感傷的なブラシ?」 ととんちんかんな結合しか思い浮かばないであろう。  標準語では「しみじみ」のあとに続く動詞はせいぜい「思う」 「感じる」「わかる」「思われる」「感じられる」など の自然的受動詞くらいである。
 このへんで使われる「しみじみ」はまるで見当違いのものではなく、「心に染みるほどに」という願いの気持ちがこめられていてそのあとに動詞が来るのである。 動詞の幅が標準的な使いかたよりもうんと広いのである。


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