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「神曲」のさしえ

 ドラクロアの絵に「ダンテの小舟」という絵がある。1969年に日本でドラクロア展がひらかれていて、わたしはこれを見にいったわけではなく、このときに発刊されているアサヒグラフの増刊号を見て、このドラクロアの処女作といわれている作品を知った。
 グラフには部分しか掲載されていない。左にダンテ、右にウェルギリュースが舟の上に立ち、そのさらに右にひざを折ってこちらに背を向けている男がいる。さして大きくない舟のまわりにはすさまじいようすの男たちが、このグラフで見る限りでは七人数えられる。 舟のへさきに歯を立てている男の表情も獣じみているが、ウェルギリュースのうしろにいて、その手を舟の中にさしいれている男の顔も恐ろしい。 目が赤く充血していて、これをみたときわたしはスサノオノミコトの退治したヤマタノオロチのほほずきのように赤い目というのはこんなものであろうかと思った。ダンテのすぐ下にいる男に強いハイライトが当たっている感じで、みごとな肉体をもっているにもかかわらずその表情は口をなかば開けていて、心をその肉のうちには持っていないもののように見える。
 ダンテの「神曲」は世界史の授業で、イタリアルネッサンスの口火を切った作品と習ったことは記憶しているが、その内容についてはまったく知らなかった。
 笠間の日動美術館で1、2年前にビュッフェ展があって、これはわたしも見に行っている。 かなり大きい画面に奇怪な風景が描かれていて(ほとんどモノトーンであったように思うが) いっしょに行った人が「ほら、好きそうなのがあるよ」といったものである。 わたしがボッシュの絵の好きなのを知っての上のことばである。
 それでなくてもビュッフェの描きかたは、黒く染めた割箸を乱暴に地面に突き立てたようなイメージがあるのに、このときの「神曲」の地獄篇にモチーフを得た作品は、背景の殺伐、荒涼たるを描くに最適ともいえるタッチで、地の中から出ている手や、とげのある木を地獄のものとしてあらわすにはこの筆づかい以上にぴったりしているものはないのではないか、と思えた。 
 しかし、わたしはまだこの時点では「神曲」を読んではいなかった。もし読んでいたら、もっと詳しくみて、もっとその全体をこの頭の中に叩き込んでおいたのに、と返すがえすも残念である。

Dante's Inferno, Man at the Head Coupée, 1976 Bernard Buffet



 それからずいぶん経ってからドラクロアの「神曲」をモチーフにした前述の絵に出会うのであるが、これとてわたしの本棚にそれこそ二十年も眠っていたもので、なぜもっと早くこの本をよく見なかったのかと悔やまれる。このほかにボッチチェルリも「神曲」を題材にして絵を描いている。

Chart of Hell Sandro Botticelli


 山川丙三郎の文語訳の「神曲」を、もうこうなったら読むしかない、と思って求めた。何よりもまずドラクロアが描いたのはどの文章によるものかと、本が届くとすぐにページを追った。第7曲、8曲。ビュッフェのは第13曲。さらにボッチチェルリのあらわした地獄篇は第31曲。
 わたしが手にいれたこの文語訳の本は、少なからずむずかしいもので、ひととおりの読みでは意を捕えるのは困難ではあったが、何度か読んで文体に慣れるとだんだんに書いてあることが、よくわかるようになって、しかも、案外他愛のないと思われる部分もあることがわかって、いくらか読みやすくなった。
 しかし、この本を完全に読みこなすには、まずダンテが敬愛したウェルギリュースの「アエネイス」を知らなくてはならないし、聖者の知識ももちろん必要である。ほかにギリシャ神話にも精通していなければならないし、 この当時のイタリアの政治、文化事情、さらにもう少し遡った時代のイタリアのことも知っていなければならない。いやはや、大変なものをダンテさん書いてくれましたこと。
 今のところ、膨大な資料、下敷きになっている文献に取組むだけの技量がないので、これについては諦める。
 しかし、先人に倣ってこの「神曲」にイメ ージを得て、わたしなりの絵を描くことはできるのではないか、という考えに至ることができた。
 クロッキー・ノートに軟らかい芯の筆を使って、わたしが一番先に描いたのは「第19曲」の22節。横わった膝から下ばかりが、いくつもある穴から見えているいう異常な景色である。しかもこの足の裏にはみな火がついている。この46節には「杭の如くさされて逆さなる者よ」とあって、わたしはこれを左の画面に、穴の中の足をの右の画面に描き、左よりの下にウェルギリュースに背負われたダンテの後ろ姿を描いた。 思いのほかイメージに近いものができたので、わたしは力をえて、第20、21、32曲」も描いてみた。だんだん出来が悪くなる。版画も試みてみた。「第28曲」 の118節から終わりまでに描かれているベルトラム・ダル・ボルニオなる者。註釈によると、彼は宗教政治の上に不和紛争の種を蒔ける者のひとりである。自分の切り取られた首を差し上げている胴体など見たこともないのに描くというのだからどだい無謀なことではあるが、これがオリジナリティ。

ダンテ「神曲」ベルトラム・ダル・ボルニオ 首を掲げ… machiko


「絵のある本の歴史」(平凡社)の中で荒俣宏氏がこういっている。
 著者と同じ教養レベルにある読者が文章を読む場合、学者や文学者のように知識や思索が深くない絵師が呈示してくれる「イメージ」など、おかしくて見られたものではない思われてもしかたがない。しかしながらイラストレーションのラストレの部分がもともと「光り輝かせる」という意味を持つラテン語に由来することを考慮に入れるとき、その文章には付加価値が付き、パワーアップする。
 これは挿絵のはいっている本についての彼の考え方なので、「神曲」にモチーフを得て絵を描くのとは若干ニュアンスが異なって来るかも知れない。しかし、ミルトンの「失楽園」にジョン・マーティンが挿絵をかいている例がこの本にもあるので(実をいうと、ミルトンのこの本を読んだときもわたしの頭の中には大勢の悪魔たちと重要な会議を開いているルキフェールの姿が描かれたのであるが、まだ「描いてみよう」というには至らなかった) 「神曲」に挿絵がないのがむしろ不自然であるように思える。
 後になってやはり挿絵画家のウィリアム・ ブレイクが「神曲」の絵を描いていることがわかったが、わたしはまだこれを見てはいない。チャンスを探してぜひとも見ようと思っている。
 ところで、 わたしが描きたいのは「地獄篇だけで、ほかのふたつの篇に対してはそういう意欲はまるで起こらない。
 これは奇怪な絵を好むわたしの性癖で、憧れているのが地獄のようなぞっとしない場所であるのかも知れないし、また、その正反対の潜在意識というメディアを介して恐れを形成しているのかも知れない。
 「神曲」はその名ばかりが知られていて、どんなことが書かれているのかがほとんど知られていないのは残念なことである。わたしにはダンテがどういう意図でこれを書いたのか、まるでわからないが、地獄を円錐形で表し、わたしたちの住んでいる地球のどこかにこれがあるように錯覚させる筆は、わたしの手に入れた文語体の訳本の力もおおいに手伝って、わたしに自由に想像する力をも与えてくれる。ダンテの知識もさることながら、その宇宙的な構想力は卓越している。
アインシュタインのことば「構想力は知識に勝る」。

(平成元年五月)


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