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にせのゆるし

(平成六年四月)

 すべてをゆるせたはずであった。確かに昨年の暮れにはそういう気持ちでいたはずであった。それがどうだろう。たかだか四ヶ月あまりしか経っていないのに、わたしの心の中にまた憎しみがもどって来てしまった。わたしはそれほど心狭い人間なのであろうか。
 すべてをゆるすことができたのは、わたしの努力によるものではなくて、「あってある者」の力によるものだとクリスチャンの友達には話してしまった。一度口から出たことばはもう口の中にはもどらない。わたしの力でなかった結果に疑いをもつのは、どう考えても信仰くらいのことばでは補えない不遜なことである。しかし、これが現在のわたしに起こっている現実である。
 よく考えてみると、ゆるしたことそれ自体という過去の事実に疑いの余地はない。自分でもまったくわけのわからないままに北極の氷の海が一瞬にして溶解したような心境になったのである。これはわたしの努力によるものではなく、別の次元でずっとその芽を伸ばし続けてきたことがらであって、わたしのためではあるけれどもわたしは関与していないことである。それがどこかわたしの心の中で一致して成就したことである。確固たるものであると自分では思っていた。それがいつから「ゆるせなく」なってきているか。それはわたしが明らかに変わった、その大きた変化を肉体的な交わりだけに見出だしている夫にたいする嫌悪感から発生している。この一点にだけわたしの変化を認め、わたしが夫のわたしにたいしてきた多くの過ちをゆるしているということをまったく認めていない、ということに、言いようのない悲しみを覚える。彼はそれほど情けない人間で、その彼を見切ることもできずにいっしょに生活せざるを得ないわたし自身はもっと情けない人間ではないか。つまり、この新しく起こった憎しみは夫にたいする具体的な原因と、それに基づいている自分自身への嫌悪から発生したものであるといえる。
 ごく些細なことであるが、彼がわたしがいかに多くをゆるしているかをまったく知らずに心ない発言や行為を重ねている。これはわたしにとってはひどい痛手である。また、わたしの側に「ゆるしてやっている」という意識のある証拠であり、これは真のゆるしではない。にせのゆるしである。真のゆるしは神のゆるしのように無条件でなければならない。しかし、わたしは神ではなく人間であるので無条件でゆるすことができない。
「あってある者」はこういう場合にどのようにわたしに教えてくれるか、それは「そういう『ゆるせない』おまえでもいいんだよ」 という大きなゆるしの心以外のなにものでもないはずである。もしこれをわたしが知らなければ、わたしは以前にもまして自己を受容することができずに悩まなくてはならなかったであろう。辛くもこのことを最大の力としてわたしに与えられたものであることを知っているので、この二度目の憎しみ、ある意味では前にも増して大きいかも知れない憎しみから逃れるすべを持っている。
 日常の生活の中でしょっちゅう起こる葛藤について、ここでいちいち書きつらねるのはどうもおとなげないような気がしてならない。物の言いかたがどうだとか、当然するべきことをしないとか、足の痛いのを知っていてそれを「ここでこそカバーしてほしい」と思うような細かいところに気がついていないとかそういうことを、いついつのどういう場合に思ったなどと書くと、書いているうちにバカバカしくなってきそうな気がする。それこそ情けなくなってきそうな気がする。だからそういうことは書かない。残るのは多くの不満と憎しみであるが、それらが増えた分だけわたしの心の中からゆるしの感情がどんどん失われていく。心の中の容量はやはり一定なのであろうか。


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