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ビョーキになる、ビョーキに勝つ

(平成五年三月)

 ひところ「ほとんどビョーキ」ということばが流行った。「病気」ではなく「ビョーキ」 と書いて、いわゆるシックでなくマニアックという状態を言い表す。わたしの編み物はこの「ビョーキ」の症状がもう五カ月も続いていて、手に編み針がないと不安なほどで大袈裟でなく一種精神病である。
 何かから逃れるために手に編み物を馴れさせているという言いかたが正しいようである。 何から逃れるのか、というとそれは生活そのものの不安定な基盤(経済的、精神的に)ということになる。深刻な不況ということが話題になるよりずっと以前からお店の経営状態は下降の一途をたどっていて、それが単にお店に魅力がないからというようなものではなく、いろいろな複合的な原因が重なって悪循環をつくりだしている。その悪循環から目をそむけるためには単純作業の繰り返しですむ物はまたとない材料である。人にもよるであろうが、わたしの場合は編み物をしている間は頭の中はそのことだけでいっぱいになり、ほかのことを考える余裕はまったくない。手から編み物が離れるとたちまち悪循環のことに頭がいって自責の念にかられることになる。それがいやだからまた次の編物を始める。お金にゆとりがあるわけではないから、次々に新しい毛糸を買うわけにはいかず、ずっと前に編んだものをほどいてもう一度編み直すということになる。何か着られる物を作ること が目的ではなく、編むことそのものが目的になっている。これは考えてみると非常に情けないことで、自責の念と同じほど目をそむけたくなる現象なのであるが、とりあえずは手が動いているからどこかで自分を慰められる部分がある。それだけが救いでその救いを求めて、まるで中毒患者のように編物に執着している。これがビョーキの実態である。悪循環が、具体的にどういうものかを書くにはまだ時期が適当ではないと判断するので今は控えるが、そろそろ五十才に手が届こうというこの頃になって、過去の自分の歩いてきた道を冷静に振り返ることができるようになったと思える。
 ビョーキは決して不治のものではなく、必ず治るものである。 精神状態が安定すれば自然になくなるはずであるし、わたしの場合、編物に依存しなくてもいい状態にもどれるはずである。
 カウンセリングの本を読むと「気づき」(アウェアネス)ということばがしばしば出てくる。わたしが、「自分が何から逃れるために編物をしているのか」ということを考えて 「自責の念」の正体をつかむにいたるその過程がつまり気づきである。これがみつかって根本的に処理できれば申し分ないが、世の中はわたしひとりで解決できる問題などなにひとつないというほど複雑であるから、処理するにはどうすれば最も安全で確かかまでを考えれば、 実行しないまでも自分の中での解決にはなる。これがビョーキに勝つということである。
 ほかの人のことはよく見えるのに自分のこととなるとまるで盲目的になるのは、なにもわたしひとりに限ったことではあるまいと思うが、とくに自分で○○さんはクライエントだと断言するようなことを何度か書いたわたしとしては気恥かしい限りで、「紺屋の白袴」 を文字どおりにいっているような感じである。しかし、一般のお医者さんが人間であり、彼もまたいつかはなんらかの原因で死ぬという事実から逃れられないとまったく同じに、 他人にたいして冷静な判断の目を向けて適当な助言をするカウンセラーもまた人間である以上、生きている間にさまざまの盲目状態に陥ることは当然であり、その過程を経るからこそ他人にたいしてより冷静に、やさしくなれるのだと思いたい。別の考えかたをすれば、わたしの編物は逃げ道であり、これがなければわたしの精神のバランスはいっそう崩れてしまっていたかも知れない。 編物をしているとほかのことはいっさい頭にないと書いたが、この「ほかのことをまるで考えない」状態をつくり出すことこそたいせつで、編物をしながら悪循環や自責について考えていたのではかえって重症になってしまう。たいていの物に打ち込む人にはこういう精神のバランスを無意識のうちに求めている場合が多いのではないだろうか。物に打ち込まなくとも、何かに形を借りて逃避するというのは、それが病気そのものでも、あるいは考えようによっては命全体のバランスを保つことにつながっていると考えられる。生命は「ゆらぎ」の連続したものであると言われているが、精神的にも肉体的にも常に移り変わっていく「ゆらぎ」があるからこそ維持されているのであるという説はまことにもっともであると思える。 これについては宗教的な観点から見ればもっと違った見方ができることは明白であるが、今はこれを離れて考えたことを綴ってみた。

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