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さよなら、「コミュ障のわたし」

わたしは会話するのが苦手だ。
自信がなくて自身がない。
だから、相手の求めている「正解」であろう言葉を探す。
つまり、わたしにとっての会話は意思疎通の手段でなく、気持ちとしては、国語の「筆者の気持ちを答えよ」という問題に近かった。
マルがついたら嬉しい。ペケがつくのが怖い。
そしてわたしは、ある時期、そのペケを異常に恐れていた。

入社1年目のころ、ある人と一緒に仕事をするようになった。以下Aさんとする。
Aさんはベテランで他の社員からの信頼も厚く、とても仕事のできる人だった。
Aさんの下に後輩がつくのは、わたしが初めて。一緒にランチを食べにいったり、ネイルをしに行ったり、Aさんはいろいろ気を遣ってくれていた。
しかし、そんな状態は長くは続かなかった。
わたしが全く仕事のできない人間だったから。
当時担当していた仕事は、ミスをしたからといって致命傷になるというものではなかったが、とても細かく気を配らなければできないものだった。
初め苦手意識は全くなかったのだが、来る日も来る日もミスを指摘される状態だった。
もちろん、仕事のできないわたしが悪い。
しかし、いつからか、わたしはAさんと会話することを恐れるようになってしまった。
仕事の話も雑談も。
毎日言う「確認お願いします」の言葉さえも、何度も心の中で繰り返してからでないと言えなかった。
簡単なこともできない自分を責めて、どんどん落ち込んでいった。
結局、Aさんと仕事は、10ヶ月ほどしか続けられなかった。

その後別のところで仕事をするようになって、少しずつ気持ちを持ち直していった。
しかし、未だに会話は苦手だ。
「町間さんはもっと人とコミュニケーションをとったほうがいいよ」とリーダーに言われると、つい、Aさんとの過去の話をしてしまう(リーダーはAさんとの話を知っている)。
こういう出来事があったから、わたしは会話が苦手なのだと。

しかし、ふと気づいてしまった。わたしのコレはただの言い訳だってことに。

「この話してる今の自分、くそダサぇな」

そう思った。

恥ずかしさが込み上げてきた。

もう自分が「過去の出来事」と割り切って、大して気にしていないくせに、自分が苦手なことを避けるために、それっぽく理由づけしているだけ。

めっちゃダサくないか!?

なので、今日で「コミュ障のわたし」とはおさらばすることにした。

することにしたからといって、会話が得意になるはずもなく苦手なのは変わらないんだけれど、「コミュ障だから」と逃げるのはやめようと思う。

コミュ障のわたし、さようなら。今までありがとう。

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