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補助機関≠ただの歯車


首長ガチャ

様々な首長

多くの自治体に関わっていると、改めて「まちのリーダー」としての首長の存在の大きさに気付かされる。

常総市・宮崎市などこれまでnote、拙著「PPP/PFIに取り組むときに最初に読む本」「実践!PPP/PFIを成功させる本」等でも記したような言動一致、強烈なモチベーションとスキル、補助機関としての職員を含む人々を惹きつける人間力を持ち合わせた「まちのリーダー」たる方も多い。

一方で若くして首長となり、当初は先進的な政策を打ち出し執行機関としての職員と一丸となり、議会や市民の理解を得ながら確実にまちを発展させて(全国的な評価を得てきた)きたものの、時間経過とともにマンネリ化・アイディアの枯渇・しがらみ等で硬直化してしまった首長。
その場だけの市民へのバラマキ、既得権益との「お約束」を無数に掲げて僅差で市民派の前市長に勝ったもの、政策実現に向けた具体的な方法論・ノウハウ・財源・覚悟等が全く伴わず何も実現できない首長。
前市長時代の先進的なプロジェクトに当時議員として異を唱えたものの、議会の総意として否決できなかったにも関わらず、(多選や年齢などの他の要因もあったが)次の市長選挙で勝利し、全面見直しを掲げたもののかなり事業が進捗していたため大混乱を招き、執行権を有する首長として巨額の訴訟合戦を含む特大のブーメランを浴びた首長。
前市長時代の中核にいたスタッフを全員「島流し」に近い形で異動させ、イエスマンの税金泥棒に近いスタッフを近くに置き、更に外部から得体の知れないブレーンを招聘したことで様々な政策の停滞を招き、職員のモチベーションをダダ下げしてしまった首長。

「民意」による首長

ただ、これらの首長を選んでいるのはそのまちの市民であり、首長は「そのまちの民意」で選ばれているので、本人が悪いわけではないが、首長によってまちは大きく変わっていくことも事実である。
そして、民意の風向きはあっという間に変わるし、残念ながら最近は「直近の表面的な有権者が喜ぶこと」を掲げた候補者がポピュリズム選挙で当選することが多い。(もちろんそれも民意である)

そして、「民意」で選んだまちのリーダーとしての首長による政策で(二元代表制なので意思決定機関としての議会のマネジメントが働くことが前提だが、)変化していくまちの結果責任はそのまちの市民(≒有権者)が負うことになる。そういう意味では自業自得であるのだが。

フィクサー

最近行われたあるまちの首長選挙で勝利した首長と面会する時間があったが、(まだそのまちの詳細を把握しきれていない面もあるだろうが、)何をやりたいのか意図が全く掴めなかったし、公約で掲げていたいくつかの政策についてもそれほどの熱意を感じるものではなかった。
悪い人ではなさそうな印象を持ったが、様々な方面の話を聞くとどうやら(表舞台には決して姿を表さないが、そのまちでは名の知れた)フィクサーに「担がれて」立候補をしたらしい。
選挙公約や既得権益を中心とした票集めもこのフィクサーが担っているとのことで、当の本人も「市長」という立場が欲しかったようなので悪い意味で両者の思惑は一致してしまっている。

政策のブレ

自分も15年間公務員生活はもちろん、現在のようなそれぞれの自治体に深く入り込む業務を行なっていると、どうしてもこうした政治リスク、今の言葉で言えば「首長ガチャ」は避けて通ることができない。
(即効性のある政策ももちろんあるが、)総合力としてのまちは何十年・何百年と長いスパンをかけて少しずつ多様な政策を展開し、築き上げていくものである。
文化・歴史・風土などの文脈や地域プレーヤーとの対等・信頼の関係を構築しながら試行錯誤していくことが求められるのに、首長ガチャで「それはそれ、これはこれ」の短絡的な思考回路・行動原理で「民意だから」とガラガラポンされてしまうことが各地で簡単に起こってしまう。
もちろん民意によって選ばれたその時々の首長によって、まちのベクトルは振れ幅を持つことが健全であり、その振れ幅のなかでそのまちらしい姿が形成されていくのだが、なかには(上記のような本質的ではない理由で)「反対向きor長さゼロ」にしてしまう首長もいる。

地方自治法の扱い

ここで、地方自治法上の首長や職員の役割を整理しておく。

総務省_地方自治法について
総務省_地方自治法について
総務省_長とその組織

まちのリーダーとしての首長

長は「普通地方公共団体を統括し、これを代表」すること、「事務を管理し執行」することが役割で、一人ではまち全体に対してサービスを提供することができないので副市町村長を含む補助機関が位置付けられている。

首長は「普通地方公共団体を統括し、代表」するのだからリーダーであるし、「事務を管理し執行」するのだから権限(と同時に責任)も有している。
具体的には条例の提案権・予算の編成権などの他に「公の施設を設置し、管理し、および廃止すること」と、まさに公共施設マネジメントの権限を有している。これがいわゆる財産の総合調整権である。こうした意味でも補助機関としての職員は、権限と責任を有する首長をこちらに振り向かせることが必要である。

首長の補助機関としての職員

ここまで書いてくれば気づいている人も多いと思うが、「職員のクライアントは市民ではなく、首長である。」
マジメな職員に限って「市民のために」とよく口にするが、間違っている。
(最終的にはまちや市民のためにクリエイティブな覚悟・決断・行動することとなることは間違いないが、)一義的には市民の負託を受けて「普通地方公共団体を統括し代表」し「事務を管理し執行」する首長のポテンシャルを最大限に発揮させることが補助機関としての職員の役割である。
誤解を恐れず言えば、時には「まちのためになんとかしなければいけないこと」に対して、補助機関としての職員は(権限を有しない)直接市民に対してアプローチができないので、首長をうまくコントロール・マネジメントしていかなければならない。
そして、市民の選挙によって選ばられた(≒負託を受けた)首長と異なり、補助機関としての職員は市民に選出されたわけではなく、自分のまちの普通地方公共団体に雇われている。

補助機関としてできること

職員はクライアント(首長)を選べない

民間と異なり、補助機関としての職員は「クライアント(首長)を選ぶこと」だけでなく、「クライアントとの関係を断ち切ること」や「サービスを提供しないこと」もできない。
先日のあるセミナーで参加者から「首長がダメなので、この期間をどう耐えれば良いのか」といった質問があったが、それは職務専念義務違反であり別の言葉で言えば税金泥棒に他ならない。
首長がどのような状況であろうが、まさに「首長ガチャ」でハズレを引いてしまったと割り切ってやることをやらなければいけない。

何もしなければ「まちの新陳代謝」が停滞するため、あっという間・加速度的にまちは衰退していく。

首長を通じて政策を実現すること

繰り返しとなるが、補助機関としての職員の役割は「首長を通じて政策を実現していくこと」である。
「指示待ち」であったり「居酒屋でグチっている」ことは、クライアントに対して適正なサービスを提供していないことと同義である。「受動的に動く(動かされる)ただの歯車」ではいけない。

補助機関としての職員には「政策立案」という武器がある。やりたいことがあれば起案したり、会議で問題提起することもできる。庁内(ときには他自治体やそのまちの地域プレーヤー)から仲間を募ってゲリラ的に試行していくこともできる。
かなり昔の話になるが、(首長の公約には全く書かれていなかったが、)自分も公共施設マネジメントの必要性を感じた際は上司と連携して副市長をトップとする検討委員会を立ち上げた。このときに根拠となったのは、市長が「1円まで生かす市政」を掲げて当選していたことである。
これを具現化する政策の一つとしての公共施設マネジメントという位置付けに持っていったのである。

阿南市でも職員研修で「3日以内に何ができるかが勝負」と説明したことを真剣に受け止め、職員有志からなるワーキンググループを組織し、庁舎等のトライアル・サウンディングからスタートした。これも当時の市長が行財政改革だけでなく公共施設マネジメントにも非常に強い関心と理解を持っていたことが大きい。この流れを受けてESCOもあっという間に3件(5施設)で事業化している。

首長のやりたいことを叶えること

国土交通省_スモールコンセッションの コンセプトについて

津山市では、(内閣府や国土交通省が普通財産の貸付なども含んで呼称するようになったが)「リアル」スモールコンセッションを2件実施している。
そもそも、コンセッション(公共施設等運営権)は空港の赤字解消等を図るためにPFI法の枠組みにビルトインされた仕組みであり、大規模な事業を対象にしていたはずである。
津山市では当時、寄付を受けた町屋を宿泊施設として活用することを検討しており、(指定管理者制度や普通財産の貸付などでも似たようなことはできたが)庁内検討の過程でコンセッションが諸条件にハマりそうなことが見えてきた。これを市長にプレゼンしたところ、偶然にも市長が公約にコンセッションを掲げていたことから「首長と補助機関としての職員の思惑・方向性が一致」したのである。

この事例は偶然の要素もあったが、首長のやりたいこと(≒公約や市政方針で掲げたこと、首長のバックボーンから推測されること)に寄せていくことも有効な手段の一つとなる。
違う言い方をすれば、「首長のやりたいこと」を「補助機関として必ず・迅速に事業化」することを蓄積してくことで信頼してもらえるようになってくる。

リアルさ

綺麗事だけではいかない

行政は残念ながら驚くほど非合理的な組織・風土・体制であり、民間事業者のように「社としての売上・利益」といった経営者から一般社員までの共通言語となるものも存在しない。更に今回のnoteで記してきたように、4年に1度の選挙で大きく変わっていく不確実性も持っている。
(国の議院内閣制とは異なり)首長と議員を直接選挙で選ぶ二元代表制を採用しているため、(特に首長と議員の選挙日程がずれているまちで多く見られるが、)執行権や予算編成権を持つ首長(執行部)と予算・条例等の議決権を持つ議会がねじれ現象を起こすこともある。

本来は執行部と議会で是々非々の議論が健全になされることを期待した仕組みだろうが、悪い意味でねじれてしまうと議会は「やることなすこと全部反対」、執行部は「どうせ議会が通らないから何もしない」状況に陥ってしまう。この状況がしばらく続くと、政権が変わってもその空気感が残ってしまう。

あるまちでは市民派・誠実で高いスキルを持った首長が、過去の既得権益・しがらみ等を一つずつ、そしてかなりのペースで整理することで風通しが良く前向きな行政に4年間弱で変わっていった。しかし、その反作用として各所に小さな不満分子が発生・蓄積していった結果、次の選挙ではそうした不満分子が対立候補を媒介に「現政権憎し」と結束してネガティブキャンペーンを展開し、(それだけが要因ではないが)この対立候補が勝利した。

行政の世界のなかでは、要求水準書まででトンズラするコンサル・生々しい世界に触ることのない学識経験者・結果だけから見る薄っぺらな評論家ではわからないだろうが、100%理想的な形・綺麗な形でのプロジェクト組成は(特にまちへ与えるインパクトが大きいものほど)現実的ではない。ネガティブ・非生産的・非合理的なものであると分かりながら、何かを受け入れたり削ぎ落としたりしながら、三次元の世界になんとかやりたいこと・やるべきことを補助機関として確実に置換していくしかない。

バーター

前述のように、自分のやりたいプロジェクトがあるのならバーターとして首長のやりたいことを形にしていくことも一つのバーターであるが、議会や市民からの(時には意味がないと思うことでも)「要望」を受け入れることでもっと重要なプロジェクトを刺し違えてでも手にいれることも補助機関としてできることである。
公務員時代に、あるプロジェクトが議会で否決されそうな状況に陥ってしまい、理屈ではどうにもならないレベルになってしまっていた。そこで何年も前から「議会要望」として出されていた議長車を購入することを執行部として提示し、懸案だった議案も無事に議決されたことがある。
この案件は補助機関として何か自分から仕掛けたわけではないが、このような「手玉」を職員はいくつか準備しておくことで、長が政策立案・予算編成等に自信を持って臨めるようになってくる。こうしたバーターができるスキルも補助機関の職員には求められる。

爪痕を残す

「政治的な理由」で、財産の総合調整権を持つ首長が譲ることができない場合、検討段階からうまくいかないことが明らかな「竣工前から負債」案件であっても、ゼロベースの見直しが選択肢となり得ないこともありうる。

ステプロジェクトについては、首長も「形ができていればいい」ことが多い。(悪い場合には「誰か」に「特定の仕事」がいっていれば良い。)

こうしたことから、例えばまちからスケールアウトした庁舎・図書館等の建設が進んでしまうのであれば、そのなかで電気工作物・消防用設備等の総合管理を行い、せめて適正な管理を行う、うまくいけばその施設整備を起点として学校等も含む包括施設管理業務にもっていくこともできるかもしれない。

小さなことで言えば自動販売機を貸付(入札)で設置することでちょっとした歳入確保を図ることもできる。あるいはmamaroの個室授乳室を導入して利用者へのサービスを提供することもできるだろう。

こうしたことも「補助機関としてできること」であると同時に「首長のやりたいことを叶えること」である。

落としていいところに落とす

「政治的にどうにも止まらない」事業(≠プロジェクト)の恐ろしさは、(首長に近い)既得権益・外郭団体・議員等の思惑が入りやすく、「止まらないから」と傍観していると雪だるま式に規模・事業費が膨れ上がっていく。全国各地に発生する「墓標」も、出発点を探っていけばこうした政治案件である場合が多い。
ゲームとは異なり、まちにリセットボタンは存在しない。強烈な墓標は、イニシャルコストだけはなく、その後数十年にわたってイニシャルの何倍ものランニングコストがかかっていく。点としてだけはなく、墓標がまちなかの一等地に存在することによって、エリアの価値も下落してまちを衰退させてしまう。

首長・補助機関がそれぞれ有効に機能してこなかったまちに、こうした巨大な墓標に立ち向かえるだけの覚悟・決断・行動は難しい。そもそも、立ち向かうための財源・マンパワー・ノウハウ等のリソースは墓標のイニシャルに消えてしまっているのでどこにも残っていない。

だからこそ、「政治的に止まらないもの」に対しても、補助機関は「まちに致命傷を与えない」ようマネジメントしていくことが必要である。
首長にLCC(Life Cycle Cost)を理解してもらうだけでなく、当該事業の基本計画等ではLCCベースの総コストや収支計画を明記して市民も含めて客観的に計画段階で少しでもコントロールすること、また早い段階からコンストラクション・マネジメントを導入して事業全体をマネジメントすることで「取り返しのつかない事態」に陥らないようにしていかなければいけない。

政治との距離

職員は首長の補助機関として動く以上、どうしても政治との関係は避けて通れないが、忘れてはいけないのは「職員は政治家ではない」ことである。首長はまちの経営者でもあるので、ときには様々な事象を勘案して非合理的であっても孤独な決断をしなければいけない。
首長が「誤った経営判断をしないよう」徹底的に支え、個々のプロジェクトを企画・執行するうえで「そのまちらしい規模」で実現していくことが求められる。

どうしても首長と意見が合わないこともあるだろうが、上記のような視点で議論はプロとして真剣に尽くしたうえで着地点が見出せない・平行線となってしまう場合は、「政治的理由なのか」を確認してYESであればそれ以上は口出しをせず、粛々と(取り返しのつかない事態に陥らない範囲で)事務を進めるしかない。
どうしても「政治的な理由」に納得できない場合は、補助機関でなくなったうえで然るべき立場になるしかない。つまりそのまちの公務員を辞職して選挙に出て自らが首長になるしかない。実際にそのような決断をした公務員もいる。

うまく使い・使われる

職員は首長の補助機関なので、一人ひとりの職員はそれぞれ個別の「歯車」の位置付けとなるが、ギアを磨くこと・回転数を上げること・組み換えてよりパワフルに回すこと等は補助機関のなかでできることである。

クライアントである首長をうまく使い、そして使われることでまちを良くしていく、それが補助期間に課せられた使命でありできることである。
受動的な歯車としてしか自分の価値を見出せないようなら、まちのために他の人に譲るべきである。市民は錆びた・機能しない歯車を支えるために必死になって働き納税しているわけではない。

補助機関がクリエイティブになっていけば、まちは必ず良くなっていくはずだ。

お知らせ

実践!PPP/PFIを成功させる本

2023年11月17日に2冊目の単著「実践!PPP/PFIを成功させる本」が出版されました。「実践に特化した内容・コラム形式・読み切れるボリューム」の書籍となっています。ぜひご購入ください。

PPP/PFIに取り組むときに最初に読む本

2021年に発売した初の単著。2023年11月現在5刷となっており多くの方に読んでいただいています。「実践!PPP/PFIを成功させる本」と合わせて読んでいただくとより理解が深まります。

まちみらい案内

まちみらいでは現場重視・実践至上主義を掲げ自治体の公共施設マネジメント、PPP/PFI、自治体経営、まちづくりのサポートや民間事業者のプロジェクト構築支援などを行っています。
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