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【詩論】それでも見たまま感じたままで

「文学」と「作家」への道(33)

◇李白と杜甫から学ぶこと

先日あった現代詩実作講座。
テーマのひとつとして、先生が例に引いたのは唐詩の巨星ともいうべき李白と杜甫。
詩について考えて3年余りたつが、李白も杜甫も高校の漢文教科書その他でちらりと読んだ記憶以上のものがない。
先生曰く、「中国文学者の吉川幸次郎は『李白は無から有を生み出す詩人で彼以上のものはない。杜甫は有から有を生み出す』と指摘している」とおっしゃった。
なるほど…。でも、そうと言われても、その違いなどは分からない。

受講者が提出した詩について、李白的か杜甫的か――という切り口での講評がなされた。

◇ドラマ「ブギウギ」にインスパイアされた詩

僕が提出したのは、14日にnoteにアップした「名前」という詩だ。

NHK朝ドラ「ブギウギ」で歌われた、実際に笠置シヅ子が歌った「大空の弟」という彼女の弟の戦死を悼んだ歌からヒントをもらい、今回の能登半島地震につなげた詩である。

先生の評は、「単調。順当ではあっても書いている自分が入っていない。それを入れるのは難しいが、もう少し突き詰めることだ。目の前に有るものを見て、目に見えない高みを目指す杜甫に学んでほしい」というものだった。

7連目の「燃える旅客機の中で助からなかった」の部分は、提出時には「炎の中で助からなかった」と書いていて、地震とは違う話だ。今回は、JAL機の事故で話題になったことと分かるように書き換えた。

いずれにせよ、先生からは厳しめの評。受講者からもこれを推す声はまったくなかった(いつもだいたいそうだが)。

◇氏名公表はしたほうがいいと思う

ただ、現実世界では、その後石川県(県庁、知事)も名前を公表(遺族の了解を得た分だけ)した。

僕は、新聞記者として働いてきた経験から、赤の他人のプライバシーを暴くようなこともさんざんしてきた。今の、世間の感覚として「個人情報」を出したがらないのは理解できるが、この詩に書いたように、事故、天災…亡くなった人の存在を記す、残すのは名前でしかない――ということを言いたいのである。

自分が仮に、少しでも世間の注目を浴びる形で死んだとしても、名前も写真も出してもらって結構である。当然だ。
しかし、記者の中でも、名前、顔を紙面に載せていても、年齢を書かなかったり、過去の所属先(支局など)を載せない連中がいるのは、おかしい…と思っている。

詩の話から離れてしまったが、腐ってもマスコミにいた人間である以上、他人の個人情報に踏み込みながら、自分のそれはさらさない、というのはいけない、と思うのである。

詩を書くにしても、杜甫がそういうタイプなら、見たことを見たまま、感じたままに買い続けたい、と思うのだ。

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