見出し画像

■僕は、書きたい詩を書いていけるか

「文学」と「作家」への道(9)「詩人の独り言」改

◇「自作」を振り返りながら…

前回(「文学」と「作家」への道(8)■先生は見抜いている
で書いたが、2年通う現代詩実作講座の先生に、「(詩作の際)考えていない」という指摘を受けた。
27回講座に通い、27編の詩を提出しているのだから、だいたいの僕の詩の傾向を先生はご存じだろう。
それを受けての、指摘、批評である。

それ以来、詩を書く際に、どうにも躊躇する自分がいる。
自由に書いていない…かといって、よく「考え」て言葉にしているわけでもない。
書く際に、迷いが生じている。

先生(カルチャーセンター講師の現代詩作家=詩壇の大物)は、「良い詩を読みなさい。良い詩人、作家のことを学びなさい」とおっしゃる。
それは確かにそのとおり。読まないよりは読んだ方が、「良い詩」には近づけられるだろう。

だが、詩はそんな「良い」詩に近づこうとすることで良くなれるのだろうか。

2020年12月から詩を書き始め、翌年2月からnoteに順次投稿してきた。
改めて、書き始めたころの詩を読むと、今より勢いがあって、自分にとっての「よい詩」もあるように感じる。

たった2年と1と月前の自作詩「詩人宣言Ⅳ
これなんか読むと、今よりずっと気持ちが熱かったように感じる。

「良い詩」「良い文学」に接し、学び考えることは、自作詩が良い作品に近づけられることにはなるかもしれない。
だが、それでいいのか―ギモンが消えない。

和合亮一氏の「詩の教室へようこそ
「詩の教室」を探して、このサイトを見た。

文中にある「作者自身が自分の言葉で現在進行形である今と向き合い、少しもごまかさずに鋭く何かをとらえようとした時に、一篇が書きあげられた瞬間がたとえ何歳であろうとも、全ての世代へと訴える力と読み手を人生の先へと導こうとする言葉の灯火が内在する」ということで、いいんじゃないのか、と思うのだ。

僕に言わせれば、言葉のサラダのような現代詩が、どれほど良い詩なのか…と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?