まきまき

青森県出身、明大卒、物流系契約社員、 母は高知県安芸郡の人 尊敬する人:坂本龍馬…

まきまき

青森県出身、明大卒、物流系契約社員、 母は高知県安芸郡の人 尊敬する人:坂本龍馬、寺山修司、高田純次

マガジン

  • 「竜馬がゆく」をゆく

    たった一人で日本を動かした青年の物語。よい言葉がたくさんあります。 私の人生のバイブルです。

  • 団塊ジュニアな私

    バブル期に学生時代を送り、卒業後、バブル崩壊した典型的団塊ジュニアの私のブログのような…

  • 寺山修司と文学

    寺山修司の文学的魅力について語りたいと思います。

最近の記事

4 お田鶴さまとの出会い

1853年(嘉永6年)春、剣術修行の旅に出た竜馬は阿波(徳島県)の岡崎ノ浦に投宿、阿波女に足を丁寧に洗ってもらった後、ある部屋に入り込み、先約部屋なのに 「わしは、海と船が見える部屋がええがじゃ」と、その部屋に決めてしまう。 しかし、予約者が土佐藩家老福岡宮内の妹、お田鶴さま一行とわかると 「相手が悪い、おれは今夜、浜辺で寝る」と言い出す。 お田鶴さまというのは、福岡宮内の妹君だが、竜馬の坂本家(才谷屋)はその福岡宮内のお預り郷士である。 だから、竜馬は「姫御前(ひめごぜ)

    • 少子化対策で思うこと

      私は現在52才、独身の非正規労働者である。 見てくれは普通だし、大変おこがましいが昔は「彼女いそう(笑)」などと言われたこともある。 しかし、すでにオールドミスならぬ、オールドミスターである。結婚できる見込みはほとんどない。できたとしても子供が20才になるころは私は72才!である。 悲しいものだ。 大学を出たにもかかわらず、田舎に帰り手取り10数万の安い企業ばかりの転職活動に翻弄され、彼女を作っても仕事が続かなくて別れたり、無職になれば社保も未来もない短期間の人材派遣で糊

      • 3 竜馬とよさこい節

        はるか三百里!(約1200km)離れた江戸へ剣術修行に向かうべく、坂本家を出発した竜馬は、長宗我部元親が身をおこしたと伝説のある「領石」という、城下より三里(約12km)離れた山村まで、多くの仲間に見送りを受ける。 立身出世をみんなで応援するという、土佐の気風がよく表れている段である。 途中で一人一人交代で唄を歌いながら歩くという習慣は、しばしの別れとはいえ、明るく楽しそうである。 その中の一人、日根野道場師範代、土井揚五郎が竜馬に言う。 この唄、「いかけ屋お馬」とは、

        • 2 門出の花

          全八巻にも及ぶ司馬先生の大作「竜馬がゆく」の書き出しは、二人とも竜馬を愛してやまない姉乙女と源爺ちゃんのやりとりから始まる。 坂本竜馬十九才の、江戸剣術修行出立の場面である。1853年(嘉永六年)三月十七日。 竜馬の小さいころというのは、イジメに遭っても言いかえせないほど泣き虫で、おねしょも治らず、楠山塾の先生にサジを投げられるほど頭もそれほどよくなかった。 また、竜馬が十二才のとき、母幸子が病死した。少年竜馬の絶望はいかばかりであったろう。 その後、乙女は母代わりになっ

        4 お田鶴さまとの出会い

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          4本
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          8本
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        記事

          初めてのMRI

          頭痛は癒えていたが、この前の脳神経クリニックに一応MRIを撮りに行った。 午前中にもかかわらず、病院ロビーは混んでいてビビったが、時間予約していたので、すぐMRIの待合に呼ばれた。 MRIは磁力撮影なので(放射線ではない)、腕時計、車のカギ、メガネ、財布、それにベルトも外すように言われ、ロッカーに入れ、10分ほど待った。 ネットの予備知識では、撮影音が大きいので耳栓をしてBGMを選べる病院もあるらしかったのだが、果たして、アーティスト名が書いたホワイトボードが待合にあった。

          初めてのMRI

          緊張型頭痛を治す

          私は51才だが、割と楽観的であまり細かいことは気にしないタイプである。 仕事も外廻りでほとんど一人で動き、「いつものことを、いつものように」という姿勢でやるので身体にストレスがかからないように気をつけている。 一回り以上若い上司に細かいことを言われることはあるが、彼も仕事だから仕方がない、そんなスタンスである。 緊張があるとすれば、中間管理職で私以上にストレスを溜めているある彼自身が原因なのである。だから普段はあまり近づかない(笑) 身分は一番下で給料も低いが、ストレスフリー

          緊張型頭痛を治す

          震災復興と違和感

          写真は2011年3月11日の岩手県宮古市である。 真っ黒な津波が宮古湾に侵入し、堤防を壊した。この間わずか30分程度だったというから恐ろしい。 宮古は平地が少なく、リアス式海岸だから高台は近いのだが、V字湾は急激に波高が上がるから訓練してないと間に合わないだろう。 南三陸町のものと並んで、You Tubeでトラウマになりそうなほど何度も動画を観た。それまで我が国では津波の一部始終を記録したものはほとんど無かったから、世界的にも貴重な映像かと思う。 小学2年の誕生日に私は「海

          震災復興と違和感

          1「竜馬がゆく」エピローグ

          これから司馬遼太郎「竜馬がゆく」(昭和38年、文藝春秋社)の良い箇所を僭越ながら私なりに紹介、解説してゆきたい。まずはエピローグ。 「薩長連合、大政奉還、あれァ、全部龍馬一人でやったことサ!」 幕府軍艦奉行ながら、浪人の親玉龍馬を神戸海軍操練所の塾頭に抜擢し、共に日本海軍の創設を夢みた勝海舟は言った。 「差別とか国籍とか人種問題とか、ウジウジしてはいられん、自分はなんちゅう小さい人間かと気づかされた」 佐賀県の在日部落に生まれ、アメリカの大学でITを学び、ミカン箱に立って

          1「竜馬がゆく」エピローグ

          私がパチンコを辞めた理由

          大学時代(30年前) 南新宿の裏通りのパチンコ屋にふらっと入り、麻雀物語のデジパチで千円が一万円になった。それが私とパチンコの出会いだった。 怖くなって、幡ヶ谷の小さなパチンコ屋で、卒業まで「たぬ吉くん」という羽根物ばかりやってたが、勝っても10,000円くらいで、生活費の足しになるくらいだった。 大学のある中央線御茶ノ水駅のとなりは、後楽園球場や場外馬券場など、レジャー施設の多い水道橋なので、私たち大学生は授業が終わると意味もなくブラついていた。 水道橋近いパチンコ屋

          私がパチンコを辞めた理由

          コロナワクチンというもの

          2021年9月(1年3ヶ月前)とあるsnsに私のが書いた記事を抜粋する。以下。 「ワクチン」 外の仕事をしていて、体感だが、県外ナンバーの車を青森でもちらほら見るようになった。自治体の指示に反した逆現象だ。 ストレスMAXなのはわかるが… 岩手、仙台、札幌、多摩、遠くは松本、なにわ…。 非常に迷惑だが、人間の心理というのはこんなものかもしれない。 北風と太陽のように。 彼らはワクチンを打って「ウェーイ(笑)」の若者と思いきや、意外とリタイアとおぼしき年配者も多い。 青

          コロナワクチンというもの

          成人式と住民票と二十歳の原点

          1990年、国立私立大学とも志望校を全落ちした19才の私は、浪人と相成った。 地方とはいえ、有名大学に続々と進む高校だったから、悔しさは一入(ひとしお)だった センターでも数学が絶望的だった私は、国立はムリと悟り、私立三教科(英語、国語、地理)に絞ることにした。 赤本で大学毎に出題傾向が違うことも知った。 ウチは金がないので、予備校には行けなかった。温かく支えてくれた、親への感謝は計り知れない。 一浪後、どうにか希望する大学に合格できた私は20才を迎え、東京の初台の43,

          成人式と住民票と二十歳の原点

          テレビは衰退したのか?

          子供のころ、メインで観ていたものと言えば、ドリフ、ドラえもん、ザ・ベストテンだった。特に土曜は「日本昔ばなし」「クイズダービー」「全員集合」のゴールデンタイムは釘付けだった。 いじめにあっても、一人で寂しくても、「テレビは友達」だった。 友達の付き合いでガンダムや西部警察も観たが、私は理解力がなかったのかあまり面白いとは思わなかった。 のちにネット社会になり、青森に限らず、全国の我々の世代が同じようなものを観ていたと知ったときは、なぜか嬉しかったものだ。 東京にいたころ

          テレビは衰退したのか?

          競馬と寺山修司

          高校時代、寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」など、彼の随筆を読むと、よく競馬の話が出てきた。彼は詩人、歌人、劇作家など様々な肩書に競馬評論家の顔もあった。 まあ、青森の偉人の一人である。 メジロボサツ、クモワカ、テンポイントなどの話がドラマチック、ときに悲劇的に描かれており、惹き込まれたものだった。 しかし、その頃は寺山修司はもういなかった(1983年 敗血症にて47才没) 親には苦労かけるが、私は東京の大学に行きたいと思っていた。寺山のように早稲田には行けなかったが、一

          競馬と寺山修司

          就職氷河期世代に捧ぐ

          私たちの親は戦後の「生めよ増やせよ」による「団塊世代」である。飯にイモを混ぜて食っていた世代だ。 その子である私たちも「団塊ジュニア」と呼ばれ、第二の多産世代となった。 私自身は母子家庭で塾にも通わず、地元ではマンモスだった中学から地元進学校に行き、六大学の一角に滑り込んだまではよかった。 現在、閉鎖が相次ぐ代ゼミも冬季講習だけ使ったが、我々の時期は最盛期だったらしい。 ネットによると受験競争率も戦後最高だっとのこと。確かに当時10倍以上あった。 ザックリ言えば、明治の

          就職氷河期世代に捧ぐ

          noteを始める理由

          私は現在51才、師走の寒風の音を聴きながら、反射ストーブで温めたコーヒーを啜り、煙草をくゆらせつつ、これを書いている。 東京の大学は出たものの、地元に戻り、さまざまな職を経て、今はとある輸送業の契約社員である。慣れてるとはいえ、この時期は雨雪がきつい。 まあ、典型的な団塊ジュニア失敗組である。 いや、すでにシニアか(笑)独身。 クリエイターだの、起業家だの、プログラマーだの、名のある職ではない。 何でこうなったんだろう(笑)仕事あるだけマシか。 昔、ブログが流行り始めた

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