見出し画像

花を染める、あなたを彩る

  4月の晴天好日。突如春めいた空の下を歩きたくなって、私と友人は花見へ出かけた。真っ直ぐに伸びる目黒川のそばでは「あぁ性急な春」とでも云わんばかりに、染井吉野がその花を眠たそうに開いている。
  (無理もない。つい先日まであの寒さだったのだ。)
  満開の桜の枝と、蕾のままの枝と。
  同じ桜の木でも咲き具合はばらばらだ。

  近くのベンチに腰掛けた私と彼女は、川の流れをぼんやりと眺めつつ、互いの近況や最近読んだ本の感想なんかを語り合っていた。


  少し風の強い日だった。
  目黒川にはさざ波が立ち、水面の上をざわめいては消え、ざわめいては消えていく。波が堤防にぶつかり砕け散る時、「ぽしゃ、ぽしゃ、」とちいさな音が立つ、その響きに耳を澄ませる。

  波は波だけで顕れることは出来ない。
  水面というかたちを借りて顕れるしか術はない。
  わたしの笑顔は私の顔にしか表せないのと同じ。
  ゆえにわたしは波なのだ。

  万物は増えることも減ることも無く静寂の裡に循環していく。
  ある書物は世界の在りようを静止した水面になぞらえた。
  ひとの心の本来の在りようを静止した水面になぞらえた。
  されど私は波。
  水面をさざめくかたちとそこに宿る心こそが私でしかない。
  わたしは歪み。わたしは(相対的な)誤り。
  わたしは真如の瑕疵。玉の瑕。

  腑に落ちないことがある。
  「感情は"わたし"では無い」のではなく、そもそも感情のような頼りないものに"私"の根拠を置かざるを得ないほど、元来わたしとは儚い概念なのだ。そしてその儚さを受諾した上で、私というかたちを生きていくべきではないのか、と・・。

  知識やお金や病や地位はわたしではない。
  けれど何もかもを「それはわたしでは無い」と云い切ってしまったら?

  笑顔は世界中に溢れている。けれどわたしの笑顔はここにしかない。
  チェシャ猫でなければ、この肉体にも意義がある筈。

  腑に落ちないことがある。
  何故怒りをコントロールしたり遠ざけることが大切なのか。感情に振り回されて過剰なストレスを溜め込んだり人生を壊してしまうリスクを排除するためだろうか。
  何かが違う思う。
 
  (怒りとは寧ろ豊かな感情を蝕むものではないか?)
  (怒りとは寧ろ感情と敵対する別の現象ではないか?)

  私が怒りを消し去りたいと強く思うのは、感情を喰い潰されたくないから。心を暗闇に奪われたくないから。
  何もかもを見過ごしたくない。
  絶えず目覚めていたい。

  怒りから自身を守るのは、感情(かんせい)という彩りを失くさないため。

  宇宙の静寂を揺れるさざ波。
  水面なしには生きられぬ儚い小波。
  まさに、わたしは歪み。わたしは相対的な誤り。わたしは瑕疵。
  明鏡止水を通り過ぎるひとすじの夢。


  『・・わたし、自分の顔が好きじゃないから、こうやってわたしの顔を見て話してくれることが嬉しいんだ。』
  彼女は云った。

  すかさず答える。
  『私は嘘のつけないあなたの素直な顔が好き。』

  まさに私はこの為にいるのだ。

  あなたの美しさは私が決める。
  何故ならあなたは、今のあなた自身を、今ここにいる私に贈ってくれたから。
  あなたの翳りは私が彩る。
  空の青は何色なのか。桜がどんな色で咲いているのか。
  まっさらのままでなんていさせない。
  

  (ねえ。私もあなたも名前さえ奪われたらもう"誰"でもなくなるんだよ。だからこそ心のままに互いを彩り合うの。言葉を交わしながら、すぐに枯れてしまう花を贈り合うの。)

  虫媒花、風媒花、水媒花。
  花粉を運ぶ術がこんなに豊かなのも、目立たない花にさえ花言葉が与えられているのも、その儚さゆえのこと。
  さざれ石もやがて巌となろうけど、花のようには続くまい。

  だからこそ死にも意義が宿るというもの。