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京都の縁

 それまで広島県は尾道市にて、古い日本家屋を改修していた。その予定を切り上げて、京都へと向かう。

 目的は、徳正寺というお寺にて開かれる写真家、石川直樹のトークイベントに参加するためだ。石川さんの写真は、写真と対峙したものをそこに立っているのではないか、と思えるほどに迫るものがありその風の輪郭をかすかに感じさせてくれる。今回は「地上に星座をつくる」という文章がほとんどの新刊に伴うイベントだ。

 知り合いから、主催者とお寺の住職と知り合いだから、と今回誘っていただいた。少し時間があるので、京都駅からお寺まで歩く。汗ばんだ体を銭湯の湯船に浸し、身を整える。徳正寺に向かうと、本堂に向かってすでに列ができていた。受付をして、椅子に座る。コロナウイルスの影響もあって、石川さんも会場も久しぶりの対面での開催だそうだ。オンラインによる配信もなく、この空間はここにしか存在しない。座って右手には、重層感のある光り輝くお釈迦さまが控える。

 風呂上がりの心地よさに、夢現つ。お寺という場所が、特別であると感じるのは何故だろう。日本人の美意識の根底には、こうした場所が深く住み着いてるように感じる。話しが始まると、周りの照明は絶たれ、プロジェクターで投影される写真が浮かび上がる。夜空に浮かぶ星を見たければ、周りの光を絞るほかない。新刊に記載されているここ七年間の旅の話と、石川さんの少し眠ったいがはっきりと意志を内包している低い声に身を委ねる。なんとも言い難い豊かさに浸る。ネズミの話、面白かったな。

 隣の人のクスッと笑うその声が、またその隣の人の笑い声を誘発してる。人が集う。そんな当たり前のことが、叶わない。オンライン化に移行する中で抜け落ちたものとは、そこに吹く風や匂いであり、人々の体温だ。また偶然性も否応なしに、無き者とされてしまうだろう。言葉で伝わること以上に、声色でしか伝わらないことがあるはずだし、同じ空間を共有しない限り本質にたどり着けない気さえする。

 会の終わりに、住職さんから話しかけてもらう。サイン会の最後尾に並ぶ。僕は自分の名前を書いた紙切れと、新刊を差し出す。

かぜさん?

ふうです。

いい名前だね。

それだけの会話。それだけでいい。いくつかの共通項を有する同じ一人の人間として、出会いたい。少し先を歩く先人として、慕いたい。

 そのあと誰もいなくなった本堂から、奥の中庭にある建築家藤森照信さんが設計した茶室を見せて頂く。そのあと住職さんと立ち話してまたザックを背負う。石川さんは後片付けをしている。別の女性に挨拶をすると、石川さんが反射的に頭を下げ会釈する。

 石川直樹とはそういう人だ。多く話さなかったが、それでいい。言葉にするよりも伝わるものはある。またいつかどこか旅の空で会えるだろうか、とその日に思いを馳せ眠りにつく。

 翌々日は新刊を片手に、京都市内を歩く。夕刻日が落ちた頃、子どもの本の専門店メリーゴーランドに行く。開催中の展示は、流木を組み合わせた動物の彫刻。流木と生命の重なる本質を貫いたような作品に出会う。

 会場を後にし建物から出ると、坂口恭平がいた。彼のことは確か、TOKYOゼロ円生活という本で知った。存在を知ったのは、お恥ずかしいことにここ一年くらいのことだ。彼は存在自体が一つの主張であり表現だ。何を隠そう僕が絵を始めたきっかけは、この人のパステル画に心踊らされたからだ。パステルの前の抽象画や細密画もいいし、奇を衒わない歌も土着的でまたいい。さらに興味深いのは、彼の思考の部分である。

 僕は

坂口恭平さんですか?

と声をかけた。馬鹿である、本人であることは分かり切っているのに。適当な言葉が見つからなかった。そこには、坂口恭平が居た。歌やラジオから聞いていたあの声色。通りすがりの僕にも同じスタンスで、話す。

いのっちの電話は今でも、何件もくるんですか?

くるよ、ほら

 そういって彼の手元を見ると、バイブで携帯が揺れていた。彼の10年、2万人にも及ぶいのっちの電話活動には、敬意を表する。なぜこの世界は、真面目なほどに苦しくなるのだろうか。そんな社会に組み込まれるくらいなら、こっちから願い下げである。何にも属さず、生き方を一つに断定させようと迫る世間に対し、行動で示している彼を、生き方のモデルにしたい。まとまらない人。彼が実在している人だと分かっただけで、僕は十分だった。

別れ際に、

まあ頑張れよ少年たち

と。僕は、背中を押される気持ちで、京都の街へと帰っていった。坂口さんとはまたどこかで巡り会える気がする。そう遠くない未来に。

翌日、満月。近くの禅寺にて座禅会が開かれるというので、向かった。禅には興味こそあったものの何なのか未だ分からず仕舞いだった。

禅とは 何もしない ということ

何もしないを すること

そう住職は言った。

ただあるがままを見て 聴く

六昆を解放し 身を委ねること

そこにあらゆる判断を入れてはいけない

と。これ僕が昔書いた詩と同じ感覚だ。1時間ほど座禅をし、帰路につく。何が何だか分からぬが、来た時とは違う風景。京都の夜は、身震いするほど冷え込んでいた。でも芯にうっすら暖かい感触が残った。最後お経を読み上げた時、最高に気持ちよかった。その一瞬だけ、空間と声と一体になった、気がした。生活の中に、座禅する(何もしない)ことを持つこと。心にお寺を持つことって新鮮だ。今回の旅は宗派は違えど、お寺にも縁があった。清々しい心意気で翌日、絵を描く。ただ見たままに、自分の判断を入れないずに。

尾道で見た朝焼けを描く。尾道に別れを告げ、また訪れるために。自分なりの落とし込みかた。そして今自宅にて京都の出来事を、ここに記している。京都の街角でまた縁が生まれ、良き旅になるようにと。




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