歩くこと 雪山にて

 2020年はあまり上手に歩くことはできなかった。自分の歩み方、リズムが整わず混沌としている時間が多くあった。

 そんな年の瀬、雪が多くある長野県は北安曇野郡小谷村へと向かう。目的地は、車道から山道を歩いた先にある真木集落だ。車道が途切れるところで長靴の上から、かんじきを履く。かんじきは、日本で古くから使われている雪の上を滑らず、埋もれずに歩くための道具だ。

 真木集落には、ここ2週間ほど人が入っておらず、山道は雪の中に消えている。膝上くらいに積もった雪を、太ももあたりでかき分けて進む。まるでトレーニングのようで足に負荷がかかり続ける。だから汗をかき過ぎない程度で隊列の最後尾に回り、歩きながら休む。先頭の人はラッセルをし、2人目、3人目は、前の人が歩いていない場所を選びながら、道をつくる。先頭に立つのは、ひどく疲れる。だが前には一面の雪景色があり、それを遮るものが何もないのは快感だ。まるで自分が自分自身の操縦桿を握り、海原を航海しているような錯覚に陥る。道は前に広がっているのではなく、一歩を出したそこから発生していた。この日はひどい吹雪で、僕は目的地がどのくらいの距離にあるのか掴めぬまま、慣れないかんじきを履いて歩いた。雪がなければ1時間と少しで歩ける山道を、こ5時間ほどかけて歩いた。重いザックが肩に食い込み、寒さは身を奮い立たせた。たどり着いたとき日は既に沈みかけ、あたりには闇が迫っていた。


 またここに滞在中、この山道に人の往来が少しあった。雪が多く降った日には、一度作った道が消えぬよう、峠まで歩いた。ここでは薪割りや雪かきと並んで、道つけも一つの立派な仕事だ。そしてここでの生活の最中に痛感したのは、「歩かされている」という感覚。僕がここを歩いているのではなく、自然が僕を歩かせている。次の足を置く場所は、自然の側に選ばされているような気がしてならない。生きているのではなく、生かされているのだと。

 

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