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手紙

  前略失礼いたします
  貴方とお顔を合わせては どうしてもうまくお話しできないので
  お手紙を差し上げました その後お身体の調子は如何でしょうか
  近頃はお月様の動きも頓に甚だしくなりまして 
  貴方の太陰機巧が心配でなりません
  こちらは大丈夫です どうかお気になさらず

  いまの貴方には双星文字を追うことのさぞやお辛いことと存じますので
  今朝も神酒の海を思い返しては お庭に水碧砂を引きました
  夢想を厭うて止まない貴方はきっとお笑いになるでしょうね
  先生のアトリエに御一緒したときのことを覚えてらっしゃいますか
  故郷の聖堂よりも高い天井の作業場で
  先生は朱熊守護像の制作の真最中でした
  完成された像はメシエターミナルの大広場に竣工されました
  貴方といつも待ち合わせたあの場所です

  ごめんなさい
  やはり巧く言葉に出来そうにありません
  長らく連絡もせず 返さずに
  貴方は何を今更と怒っているでしょうね
  こうやって弁解しようとしているのも ただの我儘なのかもしれません
  貴方のためでなく私は 私のために謝りたいだけなのかもしれない
  でも貴方には分かってほしくて 私のことを理解してほしくて
  なんて烏滸がましい と自分でも思います

  貴方に触れられたときから私の色は消えてしまいました
  会う度に私は剥がされていくのです
  貴方が入ってくる度に私は押し出されてしまう
  逃げ出して 何処かへ往ってしまうから 私が

  私は私を捜しに行きます 私が残っているうちに
  この御空の裏側まで旅立つことになるでしょう
  何時帰るのか 抑々戻れるのか私には判りません
  お別れを告げたい訳ではないのです
  願わくばまた貴方と御逢いしたい
  私が再び地上を歩けた時には 六十四夜のお月様が綺麗に見える夜に
  また御一緒したく存じます

  それ迄は貴方の記憶は私がお預かりしましょう
  貴方の胸中で煩わせているもの 傷ませているものすべて 私が

  これでよいのです こうするほかになにも
  ええ ここに記したことを貴方は忘れる
  私が 私だけが貴方を責め苛んでいるのですから

  何故ここまで書き連ねたのか 正直 私にもよく判りません
  きっと読まれることのない手紙よりも
  読んで忘れられる手紙のほうが ずっと悲しいものなのに


  どうぞ穏やかに 
  暖かな貴方に祝福の在りますよう
  心からの敬意と昵懇をもって

 * * *

 読み終えると忽ち、雪華紙の便箋は俺の掌中に融けた。最後に記されていたであろう彼女の名はもう思い出せない。


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