見出し画像

たゆたう髪【小説 #美しい髪】

たっぷりとした水気をふくんだ、黒い髪。
それはまるで、夜半にたゆたう湖のよう。水面ちかくを泳いでいる魚が、月明りを受けてきらりと光を放つ。
自分の身体の一部である黒くて長い髪が大好きで、誇らしくもある。

けれど一度だけ、その黒髪を茶色く染めたことがある。
名前も知らない、あの女のせいで。

「なんていうか、あなたの髪、海苔みたい。真っ黒だよね」
どうにも笑いを堪えきれないらしいその女は、いい終わった瞬間に笑いをごまかすかのように、ぐすぐすと咳ばらいをした。

「ちょっと」と、失礼でしょうお客様に対して、といったような怒りをすこし含んだ短い言葉。藤原さんはそばにいたアシスタントの女をちらりとにらんだ。
「ごめんなさーい」髪の毛一本ほども反省の色がない様子で、謝罪の言葉を口に出す女。それでも鏡に映る私の姿、とくに髪の色をじろじろと見ていた。

いまどき真っ黒い髪の色なんて、ありえない。アカヌケナイ、ダサイオンナ。

ひとことも声を発していないけれど、鏡越しに見える女の表情から、そう考えていることが伝わってくる。

わたしも負けるもんかと、ちろっとにらんでみる。けれど、その女と鏡越しですら目を合わすことができない。なんだって、髪の色くらいでバカにされなくちゃいけないのだろう。なんだか、とても悔しい。

初めて見るその女は、肩に少し触れるくらいの長さの髪で、栗色というのか、単なる茶髪とは違う、複雑な茶色い髪の色をしていた。けれど、髪が痛んでいる様子もなく動くたびにさらさらという効果音がなりそうなほどに滑らかだった。

駅前にある美容院「フルムーン」にくるのは、これで二度目だった。

大学に進学するために上京が決まり、何もかもが目新しかった。校則が厳しめの高校に通っていたので、長い髪も二つに分けて三つ編みにしていたし、前髪も目にかからないくらいで切りそろえていた。髪を染めるなんて、もってのほかだった。毛先が伸びたら、近所のおばちゃんがやってるパーマ屋さんで切ってもらっていた。

どこで髪を切っていいかわからなくて、とりあえず最寄り駅前のこじんまりとした美容院に足を踏み入れた。

その美容院では、お店の奥でおおきな熱帯魚を飼っていた。ゆらゆらと水中を優雅に泳いでいる姿を見るだけで、なんだか気持ちが落ち着いた。
「そういえば、あの魚はなんていう種類ですか?」カットが終わり、会計をしているときに担当してくれた男の人に聞いてみたら「あの子はシルバーアロワナっていうんです。カッコいいでしょう?」と、嬉しそうに答えてくれた。

その三か月後に、また毛先と伸びたぶんの髪を切ってもらいに「フルムーン」へと訪れたのだ。

ゆらゆらと優雅に泳ぐシルバーアロワナを見ながら髪を切るなんて、なんだか都会っぽい。シルバーアロワナが長い身体をゆらりとくねらせて水槽の中を反転するときに、蛍光灯の光を受けてキラッときらめくのもかっこよかった。

担当してくれる藤原さんと話すのも楽しみだった。私よりも十歳年上で、とても優しい声で話してくれる。昨年の秋にオープンしたばかりで、まだ一年も経過していないとか、共同経営者がいるんだけど、今日は来ていないとか。熱帯魚が好きで、自分の店を開けるときに大きな水槽を置くのが夢だったこと。

色々な話をしてくれたおかげで、私も初めて訪れた美容院なのにずいぶんとリラックスできた。こうして自分の住む町に少しずつ慣れていくんだと思うとちょっと嬉しかった。

それなのに。

「えっと、清水さん、今日はヘアカットでいいんだよね?」スタイリストの藤原さんはわざと明るい声を出したけれど、その声は美容院の中をカラカラと音を立てて転がっていった。

「あー、はい。毛先がすこし傷んでるのと、ちょっと伸びたので三センチくらいお願いします」私は胸元まで伸びた黒い髪の先をすこしつまんで、ごにょごにょと小さな声で藤原さんに伝えた。大きな雨合羽のようなケープがこすれてシャラッと小さく音を立てた。

藤原さんの「はーい了解しました」という声を上書きするように、女が「えー! やっぱりカラーリングしないんだぁ。ふうーん」と、明らかにバカにした大きな声をだす。物珍しい生物でも見るような目つきをしながら「いまどきねえ」と繰り返した。

バカにされ続けているのに腹がたって「じゃあ、カラーもすればいいんですか?」私は思わずそう言ってしまった。トゲを含んだ強めの口調で。
「べつにあなたが気にしてないなら、黒い髪のままでもいいと思うけど。でも、黒くて長い髪って、なんだっけ? いまどきホラー映画のお化けくらいだもんねえ。はじめくん、ほら、なんだっけ? あの映画。名前ど忘れしちゃった」
藤原さんに親しげに顔を近づけながら、ねえ? と甘えた声をだす女を見ていると、ふつふつと身体中に怒りが満ちてくる。
「いや、カラーもします。あ、でも、急に変更しても大丈夫ですか?」
「いや、それは大丈夫だけど。清水さん本当にいいの? 黒い髪が好きだって前言ってたから」藤原さんは鏡越しに心配そうな顔を見せて私に確認する。「うん、大丈夫です。その人にバカにされたからじゃ、ありません。ずっと黒髪だったし、一回変えてみようかと思います」私は冷静にそういって、ちいさく頷いた。女の声がへえーと聞こえたけれど、鏡越しでは見えないところに立っていた。

私が髪を染める決意を変えそうもないとがわかると、藤原さんはヘアカラーチャートと呼ばれる見本となる髪の束を持ってきてくれた。「今の髪の色はこの辺りかな。一度も染めたことがないし、ちょっと黒味が強いかな」
髪色をちょっと明るくする、とひとことで言ってもこんなにたくさんのヘアカラーがあるのかと人生初の決断にとまどってしまう。つい、あの女の人の髪の色はどれに近いだろう……? なんて気になってしまう。

「急に明るくしすぎると、慣れないかもしれないから。清水さんには、このくらいかな?」藤原さんが指してくれたのは私からすればずいぶん明るい髪の色だった。女もぐいっとのぞき込んできて「あー、そうだね。このくらいからじゃないと、違和感あるかも」などとアドバイスをかぶせてくる。あなたのアドバイスを受けたい訳じゃないんだけど……と心でのなかで毒づいても口に出すことはできず、「じゃあ、この髪の色でお願いします」と、頷いた。

じゃあ、色作ってきまーすと女はその場を離れた。藤原さんはちらりと女の後ろ姿に目線を動かした。「じゃあ、支度するので、清水さんはちょっと待っててくださいね」と私の肩に優しく手を置いたのち、女の後を追うようにバックヤードに消えていった。

ふたりで何か話す声がもそもそと私の耳に届く。水槽のモーター音が響いているのではっきりとは聞き取れない。私もあまり聞きたくないし、鏡の前に置かれていた雑誌を無造作につかんで、ぺらぺらとめくったり、水槽で我関せずと泳いでいるアロワナを見たりした。突然女の「そんなこと言ったってさあ」という高い声が鼓膜にとどき、私はびくっと肩をふるわせた。
そうしてまた、水槽のモーター音だけが、しんとしたフロアに響いていた。

お待たせしました、と女は手に小さなボウルをもってバックヤードからでてきた。藤原さんも続けてでてくるが、二人ともどこか困ったような、それでいて怒っているかのように見える表情だった。
「髪に、カラーのせていきますね」と、藤原さんと女のふたりがかりで、私の髪にペタペタとヘアカラーリング剤を塗りたくり始めた。なんだか私は壁にでもなった気分でぺたぺたとペンキを塗られているようだった。女に私の髪を触って欲しくなかったけれど、効率を考えてふたりで塗っているんだろう。そう思って静かに壁になりすましていた。私の髪を触るふたりは作業中ひとことも話すことなく、ただ手だけが機械的に作業を続けていた。

少し時間を置いた後、シャンプーをした。シャンプーをしながら藤原さんは「鏡を見たら、びっくりするかもね。髪を染めるの初めてでしょう?」と、優しい声でいってくれたが、顔にうすいガーゼを乗せているためにどんな表情で言っているのか、わたしには分からなかった。

シャンプーが終わり髪をタオルでまとめてもらってから、鏡の前の席に移動した。女がすでにドライヤーのセットをして待っていたけれど、女の顔は無表情だった。余計なことは言うなとでも叱られたのだろうか。それとも、ただ単にわたしに対する興味がなくなっただけかもしれない。

「どうですか? 髪の色は?」
タオルをほどいて現れた髪の色は落ち着いた茶色で、周りの人が見たら「髪、染めました!」とは言われなくちゃ気が付かないほどだろう。これまでが海苔だとしたら、今はブラックコーヒーくらい。けれど、私にとっては初めて染めた髪の色で、黒くなくて、こそばゆい感じがした。
「……なんだか見慣れないですね」そういってすこし、私は笑った。売られたケンカを買うようにして髪を染めてみたけれど。自分の髪がほんのりとはいえ茶色くなるのもなんだかオシャレになったような気がした。かんたんな自分が少し恥ずかしい。

「あ、いいじゃなーい。ちょっとは、あか抜けて見えるかもね」女はそう言って、意味ありげにニッと口元だけを動かした。どう考えても本心じゃなさそうだけれど。少なくとも「海苔みたい」だなんて、言わせるもんか。

髪を乾かしてもらうと、私の顔まわりにある色がそれまでとは違っていてなんだかいつまでも見慣れなかった。それでも、その髪の色には嫌悪感は無くて、すこし浮ついた気分にもなった。
「ありがとうございましたー」
お会計を済ませ美容院の扉をあけた。女は床に散らばった髪の毛を掃除しているらしく、見送りには出てこなかった。私は藤原さんに向かってちいさくお辞儀をして歩き出した。自宅までの道のりをすこし遠回りした。ときおり窓ガラスに映る自分の姿ににんまりとして、すこしだけ弾んだ足取りだった。

髪を染めてすこし経つと、頭の頭頂部から黒い髪の毛がによによと伸びてくる。初めのうちは気にしていなかったけれど、黒い髪がどんどん攻めてくると、それにもまた違和感をおぼえてしまった。何度も鏡をみるたびに、「ああ、この黒い髪のところ、ちょっと気になるな」とため息をついた。けれど海苔みたいな黒い髪に戻りたくない、というわけでもなかった。
染めたばかりだと髪の色が変わったということだけで満足していた。けれど、日がたつにつれ以前よりもごわごわとしたような手触りの髪がすこし気に入らなかった。

勢いで染めた髪はそれほど気に入らないものでもなかった。けれど、「ずっとこの髪の色を維持したい」とも思えなかった。

海苔みたいだといわれて、むっとしたけれど、海苔だって、ワカメだって大好物だ。そう思うとなんだかバカらしくなった。髪を染めたくなればまた染めればいいけど。私はそのままの、自然な黒髪が好きなんだとようやく腑に落ちたのだ。

美容院「フルムーン」にも、その後足を運ぶことはなくなった。藤原さんとアロワナに会いたい気持ちはあった。けれど、あの女にだけは二度と会いたくもなかった。

そうして、私はその後二度と髪を染めることはしなくなった。
今はまだたっぷりと黒々とした光を放っている。けれど、それはいつしか白く変わっていくだろう。そうして、その髪の色はあの日見たシルバーアロワナのように、光を受けてきらりと輝きを放つに違いない。

最後まで読んでいただきまして、ありがとうござます。 スキやフォローしてくださると、とてもうれしいです。