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狐ノ倉町奇譚 その1 彼岸の残香【小説】

「乾さんから怪談話を取材することになるなんて。思ってもみなかったです」

辰巳悦子はアイスコーヒーのグラスを手にとって、ストローに口をつける。背筋にはぞくりと寒気が走っていた。本当なら、ホットココアでも飲んで気持ちを落ち着かせたかった。けれど、とにかく話を聞かなければという気持ちから、新しい飲み物を注文する気にはなれなかった。悦子はテーブルの上に置いたICレコーダの録音ボタンをぎゅっと強く押した。

「これまで誰にも話したことなかったんだけど……。えっちゃんのお役に立つかどうかは、聞いてから判断してね? わたしが体験したって言えるかどうか……」

喫茶店「タイムズ」のオーナーママ、乾時子は少し困ったようにほほえむ。そうして、「もう15年も前のことなんだけど……」と、ぽつりぽつり語り出した。

「他に面白そうな案出ない? 今までに取り上げてない企画で」

編集部長の石井がボールペンをカチカチ言わせながらため息交じりにこぼす。企画会議ではおなじみの光景だ。「͡コノク・ライフ」は地域の情報や求人を掲載する、いわゆるタウン誌として毎月発行されている。部数が右肩下がりではあるものの、いまだに根強い人気もある。

これまでは求人ページや、不動産情報などの掲載広告費で「コノク・ライフ」は成り立っていた。しかし、近年の雑誌離れもあり、存続自体が危うくなってきている。ネット版に切り替える話も出ているなかで、編集部としては「何かおもしろい企画で盛り返したい!」と、躍起になっているところだった。

「今までに取り上げてない、っていうのが難しいんですよねえ……。グルメ記事はテッパンで人気アリ。でも結局おんなじお店ばっかり取り上げることになるしぃ。クーポン付けるってのも、ありきたりだしぃ」

普段は前向きな発言が多い松下真弓ですら口をとがらして悩んでいる。積極的に取材をこなし、小さな町でも流行りそうなことを敏感にキャッチする真弓ですら、これまでにない面白い企画を打ち出すのは至難の業のようだ。

「えっと。これまでに人気があったのは、真弓ちゃんも言った通りのグルメ企画。『見つけよう! お気に入りのケーキ&パン屋さん』とか『全店制覇・ラーメン屋』かな。美容院での変身企画は、最初は評判良かったんですけどね」

辰巳悦子は過去のアンケートデータとにらめっこしながら、うーんと唸る。

「……これまでに特集を組んでないって言えば、怪談系かなあ? 取材でいろんな話を聞いてるんだけど、なんか奇妙な話にたどり着くことも多いんだよねえ」

真弓は少し神妙な口調でつぶやいた。しかし、石井は真弓の言葉を最後まで言わせないかのごとく、頭の上で手を交差しながら「だめだめだめ!」と叫ぶ。真弓の発言をかき消さんばかりの勢いだ。

「怪談は、好みが分かれる! 広告が取れない!」そう言って渋い顔をするが、真弓はにやにやと笑いながら「石井さんが怖い話、苦手なだけじゃあん」とつつく。

「確かに怪談企画は今までやってないですね。万人受けとはいかないけれど、怖いもの見たさっていう気持ちもあるし。見開きの特集ページじゃなくて、ミニコーナで様子見る感じならいけるんじゃないですか?」

悦子はそう言って、雑誌のミニコーナーにどんなものがあるかを検索しはじめた。タウン誌のミニスペースには、地域の人から手紙などを募ることも多い。自宅で買っているペットの自慢、老人ホームのサークルで作られている絵手紙の紹介、お誕生日を迎える3歳までの子供の写真を募集していたこともある。

「スポーツ新聞だって、エロ記事を読むことだけが生きがいのおじいちゃんもいるんだし。怪談だって、ぴりっとアクセントを利かせる程度なら受けるかも。止めてくれーって声が多ければ、数回で止めちゃえばいいし」

あっけらかんと話す真弓にたいして、石井はそれでもまだ首を縦に振ろうとはしなかった。

「とりあえず話集めてきますからって、結局真弓さんが押し切る形になったんですよ」

悦子は小さくため息をつき、アイスコーヒーのストローに口をつける。石井部長が怪談の企画を快く感じていないことはわかる。けれど、真弓がいうとおりちょっと試してみる価値もあるんじゃないだろうか。石井がそこまで頑なに嫌がるのはなぜだろう? 何か理由でもあるのだろうか……?

「えっちゃん大変ねえ。二人の板挟みじゃない」

喫茶店「タイムズ」のオーナーママ、乾時子は、悦子に向かって気の毒そうな目線をカウンター越しに投げかけた。

仕事の帰りや、ちょっと本や資料を読みたいとき、悦子は「タイムズ」に足を運ぶようにしていた。昔ながらの喫茶店で、おしゃれなカフェというわけでもないし、wifiが接続されているわけでもない。それでも、木目調の家具と、隅々まできれいに整えられた店内は悦子にとって落ち着ける場所だった。乾とのちょっとした会話も、仕事のアイデアに結びつくこともあった。

「ここに長く住んでると、ねえ……。ひとつくらいは不思議な出来事に遭遇してるかもしれないね。石井さん、ずっとこの町にいらっしゃるでしょう?」

「えっ? どういうことですか?」

乾が何事もないように放った言葉に、悦子は耳を疑った。乾は「何かおかしなこと言った?」とでも言わんばかりの不思議そうな表情で悦子を見返していた。

「えっちゃんは、引っ越してきてどのくらい経つの?」

「最近ってほどでもないですけど、もうすぐ5年かな?」

「そっか、もう5年のお付き合いかあ。早いわねえ」乾は目を細めながら笑う。

5年前に狐ノ倉で暮らしていた祖母が亡くなった。祖母が暮らしていた家を悦子の両親が相続することになり、「」にちょうど就職が決まった悦子が住むことになったのだ。悦子は幼い頃から春休みや夏休みのたびに祖母の家に泊まりがけで遊びにきていた。両親とも忙しく、祖母に預けられるようなことも多かった。祖母の家を引き継いで、この街に引っ越してくることがとても自然なことのように感じていた。

しかし、乾が言った言葉に、悦子は引っかかるものがあった。

「この町に長く住んでいると、不思議なことに遭うんですか……?」

「あら、えっちゃん気になる? 狐ノ倉に古くから伝わるおとぎ話みたいなものよ。昔、ここには狐がたくさん暮らしていてね、人間を化かす練習をしていたっていうの。その名残みたいなものが、時々起こってるんじゃないかって。噂話だけど、おもしろいでしょう?」

乾は少し笑いながら教えてくれた。お客さんが話していることが、聞こえてしまうこともある。喫茶店という場所がら、町の噂話が耳に入ることもあるのだろう。

「おばあちゃんは、全然そんなこと言ってなかったけどなあ」

悦子は首を少し右にかたむけ、思い出すようにつぶやいた。

「えっちゃんを怖がらせちゃいけないって、思ってたのかもね。ほら、偲辺山登山口の手前に、大きなお稲荷さんがあるでしょ? 御狐様たちにいたずらしないでくださいって、今でもお祀りしているって聞くわよ」

乾は少し神妙な口調だったけれど、悦子はそれに気がつかずにいた。

「へぇえ。町にはいろんな歴史があるもんですねえ。幼いころお祭りの度にお稲荷さんには行ってたけど、全然知りませんでした。乾さんは、ずっとこの街にお住まいですか?」

「生まれは狐ノ倉じゃないけどね。21歳で結婚してからは、ずっとこの町。もう、40年近くになるねえ」洗い物の食器を片付けながら、ため息交じりでつぶやいた。乾は15年前、夫に先立たれたと話していたことがあった。何か思い出しているのか、少し寂しそうな目をしていた。

悦子はその場を取り繕うように、「乾さんは、何か、不思議な体験したりって、ないですよねえ?」と質問した。あるわけないじゃない、と二人で笑ってしんみりした空気を変えてしまおうと。

しかし、乾は少し考えるような仕草をしたのち、「狐に化かされたっていう類ではないんだけど……」と切り出した。

「えっ? もしかして怖い話ですか……」

「何で、おどろいてるのよ。えっちゃんが聞いてきたんじゃない」

「そうです、けど……。ないないって笑って終わるかと思って……」悦子は少し背中がぞくりとした。まさかこんなにも早く今度の企画の取材をすることになろうとは。

「乾さん、レコーダー回してもいいですか? もしかしたら、記事にするかもしれないので……」悦子はカバンの中をもぞもぞと探り、ICレコーダーを取り出す。

乾はちらっとレコーダーを見て、「ひとつだけ、お願いできる?」と静かな、けれどしっかりとした声で悦子に投げかける。

「この話は、これまでに誰にも話したことがなくてね。えっちゃんだから話す、っていうのもあるし、もうずいぶん昔の話だから、いいかなっていうのもあるの」そこまでいうと、乾は少し言葉を区切りった。悦子は「はい」とうなずきながら、その先の言葉を待った。

「記事にしてもらっても構わないけれど、場所とか、名前とかはぼかして書いてもらいたいの。イニシャルとかで構わないから。あんまりはっきり書かれちゃうと、客商売だし、ね」

乾は、「気にしすぎかもしれないけど」と続けて、小さく微笑んだ。悦子は首を横に振り「いえ、気にしすぎだなんて。そんなことないです。お話を聞いて、もしタウン誌に掲載することになったら、掲載前に乾さんにも読んでもらうようにします」と、ていねいに答えた。

乾は小さくうなずくと「もう15年も前の話なんだけどね……」と静かに話し始めた。

「気味が悪いったらありゃしねえ。おい時子、塩撒いてくれ」

珍しく大声で不満を撒き散らす和夫に、時子は「まあまあ、お茶でも飲んで落ち着きなさいな」と、なだめるほかなかった。

乾和夫と時子は、もうすぐ銀婚式を迎えることになる。和夫は客商売をしているにも関わらず、声を荒げて不満を漏らすようなこともない。ふだんは「みんな、いろいろあるからな。しょうがないよ」と怒ることもなく柳に風なのに。今日はどうしたんだろうと、時子は胸の内が穏やかでなかった。

10月の終わりにしては汗ばむような陽気で、古書店巡りにうってつけだと嬉しそうに出かけて行ったのに。

「帰りにな、駅からタクシーに乗ろうとしたんだよ。思ったよりほら、買い込んじまったからさ」

ちらりと紙袋に目線をやり、和夫は時子が入れてくれたお茶を一口飲むと、ようやく気持ちが落ち着いたようだった。そうして、自分の身に起きたことを一気に話出した。


「いやあ、思いのほか掘り出し物があったなあ」

古書店からの帰り道、紙袋にたっぷりと古本を買い求めて和夫の両手はふさがっていた。ふだんならば健康のためにと歩いて帰ることもある。しかし、今日は日も暮れかかっているし、さすがにこの荷物を抱えていると歩くのは厳しい。自宅近くまではバスに乗ろうと、バスの時刻表を見る。次のバスがくるまでにはまだ時間がありそうだ。

和夫は駅前に新しくできたケーキ屋をのぞいてみることにした。喫茶店に来る客の間でも「あの店のケーキはうまいよ。今度行ってみなよ」と評判が良かった。話題のタネにもなる。時間はまだあるし、ちょっとのぞいてやろうかとケーキ屋に入った。ガラスケースに並んでいる見慣れない洋菓子はどれもぴかぴかと光って見えてうまそうだ。時子にお土産として買って帰ろうと、三つ四つと注文した。

ケーキを買い、箱を受け取ってから、ようやく「しまった」と和夫は気がついた。ケーキの箱は何よりもバランスよく持ち帰らねばいけない。適当にぶら下げて持つと、箱を開けた時には大惨事だ。

「こりゃあ仕方ねえか」和夫はバスを待つのをやめ、タクシーに乗って帰ることにした。バスで帰れば数百円なのに痛い出費だ。けれど、箱を開けた時にがっかりする時子の顔が頭の中でちらつくと、悲しませるためにお土産を買ったわけじゃねんだからと踏ん切りもついた。

タクシー乗り場はなんだかガランとして誰もいなかった。いつもならば乗り待ちのタクシーがずらりと並んでいるはずなのに。

少し待っていると、ターミナルを回ってするりと一台の黒いタクシーがやってきた。和夫の前でピタリと止まり、ギギッと軋んだ音を立てながら後部座席の扉が開いた。

和夫はタクシーに乗り込んで、「狐ノ倉5丁目の交差点にあるセブンズって喫茶店までお願い」と運転手に告げた。運転手は「……はい」と、小さな声で返事をし、後部座席の扉を閉めた。自動制御されているはずなのに、誰かが思い切りバタンッと押し閉めたような強い音がした。

タクシーが走り出してすぐ、和夫は車内の違和感に気がついた。線香のような香りが車内に充満している。お香と呼べるほど良い香りではない。もしかしたら運転手がめずらしいタバコでも吸っていて匂いが染み付いているのかもしれない。和夫はそう思いながら、ひとつ咳払いをした。煙が満ちているわけじゃないけれど、なんとなく喉がいがらっぽい。

すると、運転手から「すみません、お客さん」と声をかけられた。蜘蛛の巣にでも引っかかっているような、くぐもった声だ。

「今日は、タクシーが出払ってまして。……私も臨時で呼ばれたものですから」

和夫はちらりと運転手の様子を探った。喋り方も独特だし、どことなく奇妙な雰囲気がしたからだ。運転手の名前は、ラミネートされているが曇っていてよく見えない。貼り付けられた証明写真には頰がこけて、青白い顔つきの男が映し出されていた。

「よかったら、おひとつどうぞ」

そういって運転手は小さな箱に入ったのど飴を差し出してきた。和夫は見たことのないパッケージだったが「どうも」と言ってひとつもらうことにした。包みを開くと炭のように黒く軽い飴がおさまっている。ぽいっと口に放り込み、セロファンの包装はクシャッと丸めてジャケットのポケットにしまった。特別変わった味ではないが、黒糖とは違うが甘ったるく感じられた。

「たしかに、駅前にタクシーが全然いなかったね。なんかあったの?」

和夫がそう聞くと、運転手は「お客さん、知らないんですか?」と鏡ごしに目線を配ってきた。証明写真よりも、不健康そうな青白い顔だ。

「今日は、あちこちで大きな葬式がありましてね。もう何回も葬儀場と火葬場を行ったり来たり。今お客さんが座っているとこに、さっきは骨壷が載ってました」そういって運転手はニタリと笑ってまた鏡ごしに和夫の様子を見ているようだった。

「おい、気味の悪いことを言わないでくれ。でも、冠婚葬祭ってのは重なるっていうからね」背筋がぞくりと震えながらも、和夫はひとつ合点がいった。この匂いは、やっぱり線香だったか。薫きしめられた線香の匂いは髪や服が吸い込んでしまう。それにしても乗客の残り香ってのは、結構強いもんなんだな。和夫は自分自身を納得させるために、そう考えていた。

その時、いつもは曲がらない交差点で、タクシーは左折した。まだこの道は直進のはずだ。抜け道なんてない。家に着くには右折することはあるけれど、左に曲がることはあり得ないのに。

「運転手さん、道間違えてる。今左折したでしょ。もしかして5丁目の交差点知らないの?」

和夫は少し強い口調で運転手に申し出た。タクシーのメーターも動いているままだし、このままじゃあ遠回りさせられるだけじゃないか。

「ああ、すみません。今日は、この道ばあっかり走っていたもので……。ただ、この道は一方通行でして。戻りたくても戻れません。少しの間辛抱願います。メーターは、止めておきますので」

運転手はべったりした愛想笑いを浮かべたのち、そのまま車を走らせ続けた。

「どっかで適当に曲がれないの?」和夫はなんだか嫌な汗をかきはじめていた。むせ返るような線香の香りのせいで、車酔いしているのかもしれない。タクシーに乗った時よりも、においが強くなっているようにすら感じられる。ポケットに入れていたハンカチで鼻と口を押さえ、窓を少し開けてくれないかと運転手に頼む。しかし運転手は「すみません」と肩をすくめただけで窓を開けようとはしなかった。

和夫は外の様子でもみて、気持ちを紛らわせようとした。しかし、窓の外は薄暗く石で積まれた壁がずっと続いていた。タクシー一台がぎりぎりで通れるくらいの道幅のせいか、誰も歩いていない。うら寂しい雰囲気が続く道で和夫の気が晴れることはなかった。

「この橋さえ渡れば、曲がれますんで」運転手はそういうと、小さな石橋を渡った。いつの間にかずいぶん細い道を通っている。こんなところに川なんか流れていたかな? いや、ずいぶん車を走らせているから、知らない場所まで来たんだろう……。

どこをどう走ったのかわからない。けれど、ようやく大通りに戻り、するすると車は狐ノ倉5丁目の交差点までやってきた。車窓から見える風景が見慣れた場所に変わり、和夫もようやく一安心だった。

喫茶店の真ん前にタクシーをつけるものなんだからと、和夫は少し手前で止めてもらうことにした。

「料金は結構ですから」運転手はそう言って、和夫の支払いを受け取ろうとしない。

「いや、たしかに回り道した分は払えないけどさ。普通なら2千円もあればおつりがくる距離だ。あんただって商売でやってんだから」和夫はそう言って、運転手にお札を渡そうとする。

しかし、運転手は首を横に振り続ける。「また、近いうちにお会いすることになるでしょうから……」

そう言って運転手は後部座席に身を乗り出し、お札を渡そうとする和夫の手をぐいっと引っ込めさせた。運転手はにったりと笑い、その手は驚くほど冷たく、和夫はぶるっと身震いし、運転手の手を振り払った。そうして、逃げるように慌ててタクシーを降りたのだった。

「とにかく気味が悪くてな。運転手の顔を思い出しただけでも……。あぁ寒気がする」和夫はそう言って身震いするような仕草を見せた。話を聞いた時子は「いやあねえ。どこのタクシー会社だったの? これからタクシー使うの、よそうかしら」と眉をしかめた。確かに気味の悪い運転手だ。代金を受け取らないのも、なんだか引っかかる。

「時子、ちょっと悪いが風呂入れてくれないか? 真冬でもねえのに体が震えちまう」そういう和夫は、確かにかたかたと小刻みに震えているようだった。時子は「風邪でも引いちゃったんじゃないの?」と言いながら、風呂に湯をためにいった。

しかし、時子には気になることがひとつあった。和夫の体から線香のにおいがする。和夫が話し始める前から「おや?」と感じていた。古書店巡りと言いながら、墓参りにでもいってきたのだろうか? はじめはそう思っていた。しかし、和夫の話が進んでいくうちに、時子は落ち着いていられなくなった。

きている服や髪に匂いが染み込んでしまっているのかもしれない。時子はそう思おうとした。風呂に入ってさっぱりと洗い流しさえすれば、においは消えてなくなるはずだと。和夫の口から漏れる息ですら、線香のにおいがする。何か、おかしなものでも食べたのだろうか?

和夫自身は、風呂に入ってしまうとさっぱりしたらしい。お土産に買ってきたケーキを食べようかと、コーヒーを淹れる準備をし始めていた。

和夫はいつもどおり丁寧にコーヒー豆を挽いて、ペーパーフィルターでドリップしてくれた。普段ならコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込むのに。コーヒーの香りに負けじと線香臭さが時子の鼻について仕方がない。ただ、時子は和夫に言い出せなかった。せっかく和夫がすっきりしているのだから、何も嫌がっていた話を再びすることもない。

和夫がお土産にと買ってきてくれたケーキは、想像していたよりも美味しかった。お客様の間で話題になっていただけのことはある。

「このケーキがうまくて良かったよ。気味の悪いタクシーに乗った甲斐があったてもんだ」そう言いながら和夫は最後の一口を平らげ、コーヒーを飲み干した。ああうまかった、という言葉と一緒に、和夫の口からはもわんとした煙が吐き出された。

煙? 時子は目を疑った。煙草を吸っているなら、煙を吐き出すこともあるだろう。けれど、和夫は時子との結婚を境に禁煙を決意し、それ以来一度だって口にしていない。もしかしたらコーヒーの湯気が煙に見えたのかもしれない。

ーー気のせいだ、きっと。時子はそう思うことにした。

しかし、その日を境に、和夫のそばに立つと線香をたきしめたような香りが漂うようになった。口からもわりとした煙が吐き出されている。時子は目を疑った。時子に見つからないように、こっそり煙草でも吸い始めたのだろうか? それだとしたら、煙草特有のにおいがするはずなのに……。ただ、それ以外はいつもと変わらないように見える。てきぱきと仕事をこなし、お客とだって楽しそうに会話している。喫茶店に来る客にしても、和夫の様子がおかしいと指摘する人は誰もいない。

三日も過ぎると和夫の体の周りは、ぼんやりとした煙が覆うようになっていた。霧がかかっているようで、和夫の近くにいるのに姿がはっきりと見えないのだ。

時子は自身の目に問題があるのかも知れないと思い、眼科に診察してもらったが、眼病らしいものも、視力が落ちているとも言われなかった。

おかしな煙が見え始めてからもうすぐ一週間が経とうとしていた。誰かに相談してみようかと時子は考えていた。しかし誰に相談することなく、その悩みは突如消え去った。

和夫の命とともに。

和夫は食材の買い出しの途中、知り合いの店先で具合が悪いと倒れ込んだ。慌てて救急車を呼び、病院に運ばれたが、すでに息を引き取っていた。

最近太り気味だと気にしていたものの、何か特別な持病があったわけでもない。電話を受けた時子は、突然すぎる知らせに気持ちがついて行かなかったが、慌てて病院へと向かうことにした。

駆け付けた病院で、和夫はすでに呼吸をしておらず、静かに横たわっていた。苦しそうな様子もなく、ただ眠っているように時子には見えた。

ただ、医師による死因確認の際、妙なことが告げられた。

「脳低酸素症でお亡くなりになられた可能性が高いですね。ただ一酸化炭素中毒に近い症状がみられまして。煙をたくさん吸いこんでおられる。ただ倒れられた場所も屋外ですし、ガス漏れや火災は発生していないとの報告ですので……。はっきりしませんが……」

それを聞いて、時子はぞっとした。やはり和夫は煙に覆われていたのだ。こんなことになる前に、誰かに相談すればよかった……。でも、誰に? 体の周りに煙がまとわりついてるなんてバカげた話を誰が信じてくれただろう? 時子は自問自答ながらも、ただ後悔を重ねるよりほかなかった。

「そのあと、何度か警察の方に事情を聴かれたりしてけどね……。結局死因もなんだかよく分からず葬儀をあげたのよ」時子はそこまで言うと、深いため息をついた。

「タクシーの運転手が妙だった、という話は警察にされたんですか?」悦子は少し震えた声でたずねた。時子は首を左右に振って、視線を落とした。

「お葬式のときにね、たくさんお線香をあげるでしょう? その時に、ああ、和夫さんの匂いがする、いるのかなって周りを見回したのよね……」

時子は何か思い出しているのだろう。線香の煙の先に何か見えたのか、それ以上何も発することはなかった。
















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