見出し画像

【短編小説】カンパ・カンパニー

「わたくし、こういうものでして」

そういって差し出された名刺には「カンパ・カンパニー 代表取締役社長 氷室 雪緒」と書かれている。

受け取った名刺は冷凍庫から取り出したばかりのアイスクリームのように、ひんやりとつめたかった。

「ひむろ ゆきお、だなんて、いかにも冷たそうな名前でしょう? ちょっと雰囲気を出したいなあなんてね、思いましてね。まあ、いわゆるビジネスネームってやつですな。ははははは」

氷室と名乗ったその老人は、可笑しそうにひとりで笑っている。わたしはなんだか、気味が悪かった。そもそもなんで氷室さんと向き合って話すことになってるのか、そのあたりの記憶すら、定かではなかった。

不審な目つきを察知したらしく、氷室は「いやいや、あなた様がですね。さきほどわたくしに依頼されましたでしょう?」と、すこし慌てた様子で説明しはじめた。

「え? ちょっと待ってくださいよ。わたし、あなたに向かって何にも言ってないですよ。あ、もしかして他の方の声を聞いたんじゃないですか?」わたしは氷室を否定するように、まくし立てた。けれども氷室は「いやいや」と首を左右に振って、こう続けた。

「あなた様、さきほど『あと数日、寒い日が続いてくれますように』って、お願いされましたでしょう? ちょうどわたくし、その声を耳にしましてね。ええ、ええ。わたくしの出番だと。つい、お声がけしてしまったんじゃあないですか」

そう言って、氷室と名乗る老人はニヤリと笑ってわたしをみた。笑ってはいるものの、その目線はひんやりして、わたしの背中はひやりと冷たい感じをとらえていた。

やばい。
なんだか、へんなおじいちゃんに捕まっちゃったな。たぶんこころの声が漏れてしまったのを、聞かれちゃったんだろう。遅延した電車をまっていたら、ついイライラして声が漏れちゃったんだ。

「あれ? なにやら疑っていらっしゃる。カンパ・カンパニーのカンパは、寒い波と書く、まぎれもない寒波でございますよ」
氷室はわたしの心を読んだかのように、そういった。

「ええーっと、氷室さん」
「はい、なんでございましょ?」
「すみません、もしかしたらひとりごとを言ってしまったかも知れないですけど。あなたに何かをお願いすることなんて、ありません」
わたしは、すこしばかり怒った口調で、そう言った。なんだかややこしい、ちょっと頭のおかしな老人につきあっている時間はないのだ。

「……ですけれど。あなた様、桜が咲くのを、もうすこし遅らせたいんでしょう? このままですと、この季節はずれの寒さは、今日でおしまいですよ?」

え? ……なんでこのおじいさん、わたしが考えてること、わかるんだろう。
やっぱり、ちょっと、気味が悪い。適当にあしらって、どこか行ってもらおう。それでもダメなら、走って交番まで逃げよう。

「おやおや。これほど気味悪がられるとは。心外ですねぇ。最近の人間たちは、うたぐり深いですねぇ」

そう言って、氷室は「まあ、よござんす。みてなさい」と言って、腕時計をちらりとみた。「そうですね、四月の二週目に、強烈な寒波を送りこみましょ。桜は少しばかり、散るには時間稼ぎ、できますでしょう」

それだけ言って、氷室はわたしにくるりと背中を向けた。
「あなた様が、ご満足いただけたましたなら、のちほどお代をいただけると、ありがたいことでございますねえ」そういって、氷室老人は駅のホームを去っていった。

なんだったんだろう? あの人は。そもそも、電車に乗るつもりじゃなかったんだろうか?

わたしは不思議に思って、辺りを見回したけれど、氷室老人の姿はもうどこにも見つけられなかった。

そうして、平成最後の寒波がやってきた。東京でも一部地域では雪が降り、桜の花に積もる雪がワイドショーで取り上げられていた。

「まさかね。……偶然よね」

わたしはそう思いながらも、急ぎ足で病院へ向かった。

「次の外出の日には、桜の花の下を通りたい」あの人の最後の願いを、守ることができそうだ。

最後まで読んでいただきまして、ありがとうござます。 スキやフォローしてくださると、とてもうれしいです。