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しみじみ、悲しみ

有料マガジン「&JOY」を廃刊します。

もともと創刊してすぐに思うところがあってマガジン自体を非公開にしていました。購読者もおらず、存在自体がずっと宙ぶらりん。

かたずけなくっちゃな、と思いつつ、ズルズルとほったらかしにしていましたが、ようやく重い腰を上げることにしました、

2018年に書いたものなので、いろいろと書き直したいところもあるのですが、一応移しておきます。(年齢等、一部加筆修正しています)

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悲しみとの付き合いかたって、すごく難しい。たぶん、正解はないだろう。

うっすらと悲しいことがあるとき、人はうれしくもない大食に走る。

Twitterで、ふと気になった言葉。糸井重里さんが2018年2月22日につぶやかれたものだ。

この発言のあと、さらにほぼ日刊イトイ新聞でも、このテーマについて書いていらっしゃった。(その記事は日替わりコンテンツ「今日のダーリン」ですので、ふりかえって見ることはできません)

そう、その通り。

なにか、気持ちを紛らわしたいときに、人はつい食べてしまう。ちょっとした悲しい気持ちや、急に降り掛かってきた寂しさ。それを何かしら、別の形で構わないから簡単な欲求を満たそうする。そうして、食べたいと思ってもいないようなものまでも、食べてしまうのだ。

私もそうだった。

私は15歳のときに摂食障害になった。そのきっかけは、ほんの些細なもの。ダイエットしてかわいくなりたいとか、そのレベルから始まった。しかし、些細なきっかけではじまったその病気は、ほんの少し気持ちを切り替えることができたおかげで、おさまった。

しかし、本格的に「治った」という訳ではなかった。拒食状態からは一時期脱出したのだけれど、その次は「過食」そして「過食嘔吐」へとつながっていく。断ち切れない負の連鎖だけれど、自分ではとめられようもなかった。

ただ、それらの病状を発症したのも、いま振り返ってみると、うっすらとした悲しい気持ちを抑えることができず、食べる、という行為に逃げたのだと思う。

そうして、地中にうもれて、ずっとねむっていた種が、「ねえねえ、また、動きだしてみない?」と、揺り動かされて、摂食障害を発症してしまったのだろう。

過食に走った原因は、大学受験のストレス。半年で10キロ以上太ってしまったような記憶がある。ただ、実際にはどのくらい太ったのかはおぼろげにしかない。体持っていた洋服もどんどん着られなくなっていくのが辛くて、重計に乗り、自分の現状をと見つめられそうになかった。

だけど、食べているときは、勉強に対する苦しみが薄らいでいた。睡眠欲が満たされない以上、食欲だけでも満たしたいという、どこかしら本能的な作用があったように思う。過食自体は、わりと早く落ち着いた。本当に単純な理由で、受験勉強が終わったためだ。

過食嘔吐がはじまったのは、やるせなさというか疎外感を感じたところからだった。

大学1年の冬。冬休みが始まる前日だった。

当時、付き合いはじめた彼氏がいた。けれど彼はスノーボードに夢中で、冬休みの間中、ほとんど雪山か、バイトに明け暮れていた。私はスノーボードにいくつもりもなくて、電話口から聞こえてくるはしゃぎ声をきいて、妙に寂しさが込み上げてきた。

ひとりで、寂しい。

実家に帰れば良かったけれど、バイトもあるし。シフトが入っている以上、勝手に休むのはできなかった。ひとりでぽつんと部屋にいることができなくなった。ぼんやりとテレビを見つめていても疎外感ばかりが私の身体にベタベタとまとわりついて、離れてくれようとしない。

いても立ってもいられなくなって、気分転換にコンビニにでもいこうと思い立った。そうして、雑誌などと共に、大量のお菓子やジュースを買い込んだ。両手で持つ手のひらには、ぎゅうっとビニール袋が食い込んできて痛みすら感じた。大量にものを買ったことで、帰り道はすこし気持ちは落ち着いていた。けれど、また薄ら寒い部屋にひとりでいると、何をして過ごしていいのか分からなくなってしまった。気がつけば、さっき買ってきたお菓子をむさぼり食べて、食べて、食べて……。食べ過ぎて、苦しくなり、そうしてトイレに駆け込んだのだ。

ただ、そのときは、食べたものを吐き出すことの罪悪感なんかはまったく沸いてこなかった。いま、胃の中から吐き出しているものこそ、悲しみの感情そのものなんだと、むしろスッキリとしてしまった。

なあんだ。こんな簡単なストレス解消法があったんだ。小さじ一杯程度の悲しみなんて、食べて吐き出してしまえばいいんだ。

そんな風にしか、考えられなくなった。

そうして、悲しみや、やるせない気持ちが心にうっすら溜まるたびに「食べて、吐き出す」という手っ取り早い手段を身に付けてしまった。

39歳のいまは、摂食障害の症状は落ち着いている。悲しみや寂しさを感じることが減ったわけではないし、むしろ増えているようにも思う。

ただ、生理学的にというか、わたし自身の身体が、それほどたくさんの食べ物を取りたい、やけ食いしたい、というような思いに駆られなくなった。何が原因かは分からない。

結婚をして落ち着いたから、というわけでもない。28歳のときに結婚したけれど、新婚のころでも、家にひとりでいると寂しさがいつもそばにいて寄りかかってきた。そうして私は食べては吐き出すことを繰り返していた。

しかし、引っ越しや夫の病気や転職、わたし自身勤めはじめたり、ネコを家族の一員として招き入れたことなど、暮らしに慌ただしさにまきこまれるかたちで「食べて吐く」行為をしなくなった。

単純に、加齢によって図太くなってきた、というのも事実だ。

けれど、悲しみはいつだって影のようにぴったりとそばにいて離れることはない。いままではその悲しみを受け入れられず、悲しい状態は不幸せだと考えてしまっていた。けれど、悲しみとともに歩むことも、そう悪い選択じゃない、と思えるようになってきたのとおもう。

また、悲しみや寂しさに飲み込まれる日がくるかもしれない。けれど、嬉しさの中にも、ほんのひとつまみ程度の悲しさは含まれている。打ちひしがれるような悲しさの中でも、ぽたりと垂れた涙の一滴の美しさに、心がほんのりと暖まることだって、あるはずなのだから。


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