始まる前から始まっている

 授業のことです。
 世の中にはどうしても「始まる前から始まっている」ものがたくさんあるように思えるのですが、授業もそのうちの一つだということです。
 「授業」なる営みをかたち作っているものをどれだけの要素に分解できるか、どの段階まで細分化するかを考えていますが、あまりやりすぎると収拾がつかなくなると思われるのでほどほどで考えないといけません。あまり細切れにしすぎると、それこそ授業論の類型化につながりそうな予感があります。
 「内容/方法」というざっくりした二分法でもよかろうなのですが、この二分法だって様々な前提の上に成り立っている場合が多いので、それをすっ飛ばして「授業とは」に取り掛かっていくのは少し難しい。
 そもそも「内容/方法」の二つは授業の実際の場面でどちらの側面もバランス良く顕現することが少ないように感じます。あくまで参観者の感覚としての話ですが。それはいいとして。

 私たちが「児童生徒の実態把握」と呼んでいるもの。
 特別支援学級で授業をするとなると、これは外すことのできない要素として意識されなければなりませんが、別に特別支援学級でなくても、ここは外せません。把握した実態がどのようなものであるか、もっと言うと、どのようなものとして解釈したかによって、内容と方法の表れ方が決まってくるように思います。
 「こういう実態があるので、こういう授業でいきます。」となったときに、方法や内容はほとんど同時に構想されるのだろうと考えられます。どちらかに偏って授業を構想するとなると、それはもはや「最初からそういうことをやりたかった」としかならない。
 経験年数にもよるところですが、「自分のやりたいことに授業や児童生徒を『置きにいく』」というのが問題で、こうなってしまうと授業がコケる割合は高くなっていきます。

 そういうわけで、自分なりに把握して解釈した実態があって、そこから授業を構想していく、授業構想の険しい道のりを歩いていくことになります。ここで、大まかな道のりを示してくれるのが『学習指導要領解説』だったり、「教師用教科書」とか「指導書」とか「赤刷り」と呼んでいるいろいろの書籍です。
 ここで考えるべきは何か、というのはやはりその先生のそれまでの手癖であったり、日頃から考えていることが如実に出てくるので一概には言い切れないのですが、どうも最近は「児童生徒にどのような資質能力を身につけさせることを狙うか」という一点に集約されているように思います。つまり、内容とか方法とか以前の話です。これに照らすと、内容/方法先行で考えると結構厳しいんじゃないかという最近の潮流を感じます。

 年間1000時間、授業をやったとしても毎度毎度、本当に難しいなあ、という実感が残ります。もっと上手くやれたんじゃないか、もっといい方法があったんじゃないか、と。
 そんなことを思いながら、令和5年度が終わっていきます。そして令和6年度は、始まる前から始まっているのです。
 また、頑張ります。