百人一首と蝉丸と渋谷と人生と

我が国で義務教育を受けた人ならば、誰しも一度は百人一首に触れたことがあるだろう。わたしは小学校時代ピュアピュアだったので、「好きな人の苗字が入ってる句の札はぜったい取るぞ!」と、一枚の札に命を懸けていた。この情報だけで、だいぶ好きな人の苗字が絞られてしまいそうだ。

ところで、わたしには昔から、「何でこの人が百人一首に入ってるんだ?」と疑問に思う存在がいた。

かの有名な蝉丸である。

「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」
(これがあの、京から出ていく人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、そしてここで出会うという有名な逢坂の関なのだなあ)

わたしが蝉丸反対派だった理由は二つ。

一つ目に、「そりゃそうだろ」という当たり前のことしか言っていないからだ。

新宿駅を想定しよう。わたしは新宿の路上でライブをする、駆け出しストリートミュージシャンだ。愛用のアコースティックギターのチューニングをしていると、ちらほらと人が集まってくる。色々と準備を済ませ、路上ライブ開始だ。わたしはマイクに口を近づけ、万感の思いを込めて曲名を告げる。「聴いてください、新宿駅」

じゃんっじゃんっじゃんっじゃん(アコースティックギター)

「これがあの新宿駅なのだなあ~行く人も帰る人も~知り合いも知らない他人も~みんなここで別れて出会うっていう有名な新宿駅なのだなあ~」

一曲目でオーディエンスが散り散りになるだろう。「なんやこいつ、かっこつけて当たり前のことしか歌ってないじゃないか」と。

蝉丸も似たり寄ったりだ。琵琶を片手に、和歌というかっこいい体裁で、「人が行き交ってるね!」と言っているだけだ。実際に蝉丸が逢坂の関で、琵琶かき鳴らしながら歌詠んだかは知らんけど。

その至極当たり前のことを詠んでいるだけの蝉丸は、百人一首の中で明らかに異質な存在だ。みんな暇なんか?と思うほど恋愛の歌を詠みまくっているのに、蝉丸は逢坂の関に人が多いことしか詠んでいない。蝉丸の歌は当たり前すぎて、逆に目立っている。

わたしが蝉丸反対派だった理由二つ目。

掛詞などの、わかりやすくすごい技法が歌に入っていないからだ。

百人一首の人たちは駄洒落のセンスがある。「澪標」と「身を尽くし」、「京」と「今日」、「生野」と「行く野」とか。

とりわけ小式部内侍はすごい。本当にあの和歌を即興で詠んでいたのだとしたら、頭の回転速すぎる(小式部内侍の和歌のエピソード、知らない人は見てみてね。超面白いから)。

対して蝉丸。掛詞とかいうひねりはほぼなし。一応、逢坂は「逢う」の掛詞だけど、なんか固有名詞にもともとその字が入っているからか、インパクトがない。

実は蝉丸の「これやこの~」の歌、百人一首の中で濁音が入っていない唯一の歌らしい。小学生の頃、『まんがで読む百人一首』で知った(おすすめ)。

それが面白すぎた。他の人はここに掛詞が使われてるよ、とか、本歌取りだよ、とか技法についての説明がされてるのに。蝉丸のセールスポイント濁音入ってないだけかい。誰なんだろう最初に一文字一文字カウントした人。さぞかし骨の折れる作業だったろうに。

まあこんな感じで、わたしは今まで蝉丸アンチだった(蝉丸ファンごめん)。

でも昨日、わたしは突然蝉丸ファンへと立場を翻した。

昨日はサークルの追いコンだった。わたしは参加できなかったのだが、ちょっと顔を見せに行こうと思い、渋谷駅に繰り出した。

もう人がめちゃくちゃ。祝日だったから余計に人が湧いている。夜の8時くらいでも渋谷から出てくる人渋谷に向かう人、ハチ公前はぐちゃぐちゃに入り乱れ、、、入り乱れている、

これは、逢坂の関では?

こんなに人がいて至近距離を人が通りすがってくのに、多分わたしはこの人たちと一生話さない。みんな示し合わせたようにハチ公前で待ち合わせしているのに、今後のわたしの人生にこの人たちが関わることはない。もう出会っているのに。それはさながら逢坂の関だ。

蝉丸が生きた時を1000年以上超えて、令和でも逢坂の関を感じられる、実はこれめちゃくちゃすごいことなんじゃないだろうか。蝉丸アンチ理由1つ目の「蝉丸は当たり前のことしか言ってない」というのは、裏を返せば、蝉丸の歌には時代を超えた不変性があるということなんじゃないだろうか。

加えて、蝉丸は人が行き交う事実だけを詠っていたわけではなかったと気づいた。サークルの先輩たちとは、今まではそこそこの頻度で会っていたのに、もう全然会わなくなる。この渋谷を最後に、見知った人と別れることになるわけだ。そして入れ替わるように新入生が入ってくる。春からは怒涛の新歓祭りだ。

つまり蝉丸は出会いと別れの連続、人生そのものを詠っていたのだ。逢坂の関は、出会いと別れの比喩でもあったのだろう。そして人生という壮大なことを詠うのには、かっこつけた掛詞なんて要らなかったのだ。

蝉丸よ、蝉丸を理解していなかったのはわたしが浅はかだったからだ。蝉丸への陳謝が止まらない。どうか、この文で許してほしい。

出会いと別れの春、蝉丸の歌が一層心に沁みる。

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