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ゲームを通して現世と夜の夢は転倒する(試論)

ゲームとは何だろうか。
宮内悠介『盤上の夜』に収められている短編小説「象を飛ばした王子」という物語には(※この先同書のネタバレを含みます)、現在の将棋やチェスの元祖といわれているインドの遊戯「チャトランガ」を考案したとされる人物が描かれる(無論、これが史実であるかどうかは定かではない)。彼は、父であるシッダールタ(仏教の祖であるブッダ)からラーフラという名を与えられる。シッダールタは彼を捨て、自らの修行の道へと歩む。ラーフラ、ラーフ(触)とは太陽を覆い隠す月食であり、陰であり、そして神話の上では忌むべき存在として描かれる。彼の脳裏には、駒を用いたゲームの発想があったが、その価値を、その意味を他の者と共有することができない。しかし、修行から戻ったシッダールタはその意味を理解するが、同時に哀れみの目を向ける。ラーフラによって描かれた世界のその先はどこまでいっても、盤上の上の出来事にすぎない。ブッダが外界に目を向けるのに対して、ラーフラは自らの内側の世界たるゲームの世界を見ているのにすぎない。ラーフラはここにおいて、シッダールタを認め、帰依する姿が描かれる。

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 ラーフラという呪われた名を与えられ、父にも捨てられた孤高の王の脳裏に、ゲームという一つの自己完結した世界が現れる。このプログラムが、僕には、たまらない。
 可能ならば、ゲームは夜の夢へと開かれていて欲しい。夜の夢。僕たちが見ている世界は僕たちの身体(或いは言語)によって意味づけられた世界として現前している。ならば、夜の夢とは、僕たちの無意識の世界の投影である。そうであるならば、夢は、僕たちの身体において意味づけられた世界以上に、より自らにとって意味づけられ、より自らの本質に近いもののはずである。一方、夢は確かにより現実的なものではあるが、同時に僕たちの過去の反照にすぎない。だからこそ、ゲームという存在は、夜の夢を切り開く、即ち未来へと指向するものであってほしいと僕は願う。
 ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ』は文化人類学の書籍である。同書ではシベリア・ユカギールと呼ばれる民の数々の事例が紹介されている。キーワードとなるのは、「模倣」である。ユカギールの人々が、獲物を狩る時、彼はその対象を模倣する、即ち、鹿であればその鹿になる。この時、彼は「彼であり、且つ彼ではないもの」となる。「彼であり、且つ彼ではないもの」とはなんだろうか。「Aであり且つ、Aではない」。このレンマ(論理)に見いだせるものは何か。

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 ライプニッツの根拠律「いかなるものも根拠なしにあるのではない」に対し、ハイデガーは強く惹かれていたようだ。なぜ「いかなるものも根拠はある」ではいと繋辞に閉じず、「ある」のなかに「ない」を含ませたのだろうか。
 話をゲームに戻そう。ゲームと一言で呼んでも、その内実は多様である。が、多くの場合それは常に現実の「模倣」を含んでいる。現実ではないが、しかし現実でなくもない。子どもの遊びであるおままごとがそうであるのと同じように、プレイヤーがそれをそうだと共有しさえすれば、それは「現実ではないが、しかし現実でなくもない」世界へと導かれる。そしておそらくそれは、時に現実以上に現実的な(夜の夢のような)ものとして現前する瞬間があるだろう。
 僕たちは、世界を模倣するゲームをプレイする。しかしそのゲームは「現実ではないが、現実でなくもない」ものである。その先に、プレイヤーが手にするものは何か。
 それは、アニミズムの息づいた新しい世界ではないだろうか。ゲームに没頭して、その中で何かを成し遂げた時に、ゲームから目を離して見た世界。それは、きっとこれまでの世界とは違うように、確かな息づかいと彩りを獲得して、僕たちの前に現れていた筈なのだ。ゲームは、僕たちの世界を単に仮想現実として拡張するのみならず、この世界自体が、実はゲームの模倣であることを無意識の内に囁く。ゲームを通して、現世と、夜の夢は、転倒する。
 世界を転倒させよう。そうして、夜の夢の覇王を、僕たちの目前に仰ぎ見ることができる。

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