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人気の世界遺産、モン・サン・ミシェル環境復元や修道院修復、観光客も復調の兆し

 1157件を数え、増え続ける世界遺産(2023年現在)。その中でも人気の高いフランス の「モン・サン・ミシェルとその湾」(1979年登録)は、環境復

01 海に浮かぶ世界遺産の「モンサンミッシェルとその湾」(現地のポストカードより)

元計画で橋が架けられ、修道院では現在、修道院などの修復作業が行われている。ここ数年、新型コロナ禍で観光客数は低迷していたが、やっと復調の兆し。海に浮かんでいるように見える岩山に聳える驚異の建造物を見て、その美しさと同時に、先人たちが築いてきた数奇な歴史に思いをはせ、大いに感動を覚えた。私が訪れたのは2010年5月になり、現地の様子も一部変わっているが、最新情報も踏まえリポートする。
 

シャルトル大聖堂など世界遺産をめぐる

 モン・サン・ミシェルは、やはり遠かった。関西空港から飛行時間で約15時間、上海乗り継ぎもあって約20時間かけて早朝のパリ着。睡眠もほどほど

パリのへの機内から見た日の出世界遺産のシャルトル大聖堂

に早速バスに乗り込み、一日目は途中の観光名所めぐりで日が暮れた。いずれも世界遺産で、それなりに見ごたえ十分だった。まずは南西方面88キロにあるシャトル大聖堂へ。
 

世界遺産のシャルトル大聖堂

 シャルトル大聖堂は、上から見ると東西南北が正確な十字架形をしている。全長は130メートル、幅は南北32メートル、東西46メートルもある。2つの尖塔があり、左右で建築様式が違う。右の塔は1140年に建設されて105メートル、左の方は16世紀に建てられたもので、113メートルの高さだ。内部は、173のステンドグラスで飾られ、総面積は2000平方メートルにも及ぶ

ステンドグラスで飾られた大聖堂内部
円形の中央にイエスを、首位に天使や動物を配したバラ窓

そうだ。フランス王家の紋章である黄色い百合の意匠や、「シャルトル・ブルー」と呼ばれる鮮やかな青が特徴だ。

シャトルの街並みと西洋庭園


 シャルトル大聖堂から、さらに約125キロ、ロワールに点在する古城のシャンボール城、シュノンソー城も観光した。シャンボール城は1519年、フラ

世界遺産のシャンポール城

ンソワ1世の命により建設が始まった。その死後、1539年に後を継いだアンリ2世によって増築され、ルイ14世の命で再度改修され、1685年にようやく完成した。屋上からは、広大な庭園とフランソワ1世が狩猟場として好んだソローニュの森を見渡すことができた。

ルイ⒕世の部屋
レオナルド・ダ・ヴィンチ設計とされる「二重螺旋階段」

 総敷地面積5500万平方メートル、建物の規模は幅156メートル、奥行き117メートルあり、440以上の部屋と365の煙突を持つロワール川流域の城の中で最大のもの。見どころといえば、城の中央にあるランタン塔の「二重螺旋階段」だ。上る人と下りる人が、すれ違うことがないように設計されており、当時フランスに滞在していたレオナルド・ダ・ヴィンチによるものではないかと推測されている。

シュノンソーへ向かうバスの車窓に広がる草原と並木
 
世界遺産のシュノンソー城

 同じロワール川流域といってもシュノンソー城は、さらに約54キロを走行。ロワール河の支流シェール川にまたがるように佇む優美な姿は、「シェール川の宝石」と称えられている。16世紀に宮廷の財務長官トマ・ボイエと、その夫人カトリーヌ・プリソネが、マルク家の城塞と水車を取り壊して造ったことに始まる。このカトリーヌ夫人が不在の夫に代わって城建築の指揮を執ったのを皮切りに、19世紀までの間、6人の女性が城主の座に君臨したという。
 

平原の先に突如現われた姿は、幻想的な城砦


 ローマ時代から長い歴史の街、トゥールに一泊して一路264キロ。お目当てのモン・サン・ミシェルは、ノルマンディー地方の平原を走るバスの車窓に、突如現れた。幻想的な城砦のような姿だ。近づくにつれ、その威容に目

平原の彼方に姿を現したモン・サン・ミシェル(2010年5月)

を見はるが、そこは海岸西端1キロ沖合の小島にそびえ建つ修道院だった。
 

昼のモン・サン・ミシェル(2010年5月)
夕方のモン・サン・ミシェル(2010年5月)
朝のモン・サン・ミシェルと、放牧されている羊の群れ(2010年5月)

島のある湾は潮の干満の差が約15メートルもあり、ヨーロッパでも有数の激しい所として知られている。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩で出来た小島は、かつて満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる砂洲で陸と繋がっていたのだ。
 ガイドの説明だと、最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後とされ、引き潮によって沖合18キロまで引いた潮が、今度は猛烈な速度で押し寄せてくるそうだ。過去に多くの巡礼者が満ち潮が始まる時間を間違って、2.5キロもある砂洲の途中で海水にのみ込まれて命を落としたとのことで、「モン・サン・ミシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあったほど、と話していた。
 ガイドブックによると、1877年に地続きの道路が設けられ、潮の干満に関係なく島へ渡れるようになった。しかし、これに伴い潮流をせき止めることとなり、100年間で2メートルもの砂が堆積してしまった。この急速な陸地化が島の周囲で進行し、島の間際まで潮がくることはほとんどなくなり、海に浮かぶ城砦のような奇観が失われることになったのだ。

モン・サン・ミシェル手前の砂洲の駐車場(2010年5月)

 昼食後、バスは防波堤の道路を通り、修道院を目前にした駐車場へ。何台ものバスや車が押しかけていた。いよいよモン・サン・ミシェル観光だ。堅牢な三つの門がある。入り口にイギリス製の大砲と、石の弾が残っていた。後述する有名な「百年戦争」の名残とか。
 

修道院への道の入り口に設けられた堅牢な門
大通りとは名ばかりの細い路地

 門をくぐると、一切車道はない。昔も今も自分の足で歩くしかないのだ。しかもグランド・リュ(大通り)とは名ばかりの細い路地で、修道院入り口まで急な上りが続く。道の両側には土産物屋がずらり並んでいた。坂を上りはじめたところに、人気のプラーおばさんのクッキーのお店や、オムレツのレストランがあり観光客でにぎわっていた。
 

オムレツなどのメニューのあるレストラン
名物のオムレツ

 名物のオムレツは、見た目に大きいが、口の中でふわっと溶けるような食味。口当たりが良く、味はあっさりしていた。その昔、遠い地から巡礼でやってきた人のお腹を満足させる為に考案された、栄養満点の料理だったそうだ。
 

城壁に囲まれた三層の修道院、屋上に庭園

 登り道を迂回しながら三層からなる修道院へ。90段の階段は高い壁に囲まれ、頭上には侵入者を狙い撃ちするため仕掛けられた橋が架かっていた。 ここまでの道筋は修道院のかけらもなく、砦そのものだ。

高台から見渡す眼下に広がる湾

 階段を上り直進するとテラスに出る。海抜80メートルの高さにあり、眼下に湾が見渡せ砂州と海へ川が蛇行している。湾に浮かぶ島を実感し、修道院にたどり着いた。高い天井の内陣には装飾がないものの、ゴシック様式の柱と差し込む光線は美しい。
 

仰ぎ見る修道院の外観。尖塔にミカエル像
修道院内にあるミカエル像
アーチ形の天井のある騎士の間

 修道院を出ると、北面に位置する3層のゴシック様式の建築棟の部分は、修道院の居住スペースとして13世紀に増築された建造物がある。その装飾の美しさから、「ラ・メルヴェイユ」(驚嘆)と呼ばれている。
 

「ラ・メルヴェイユ」(驚嘆)と呼ばれている建造物
緑の美しい空中庭園

 大理石の列柱回廊がぐるり二重に配置された空中庭園が現れる。柱の上部はアーチ状で調和がとれていて、回廊に囲まれた庭は緑の芝生と植え込みになっていた。かつて修道士たちの瞑想の場だとされた回廊と庭園は、現代人にとっては癒しの場であり、すばらしい空間だ。さらに進み、広い食堂や葉飾りの円柱に囲まれた貴賓室などを見学した。
 

囚人用の食料などを引き上げる鎖
地上から引き上げる車輪

 礼拝堂を出た所に巨大な車輪があった。ガイドによると、修道院の一部が牢獄として使われていた時代に囚人用の食料などを引き揚げるために作られたとのことだ。
 このほか修道士たちが写本などをした作業室や遊歩場、騎士の間など数多くの部屋があり、あっという間に2時間が過ぎていた。修道院を出て、入り口にジャンヌ・ダルクの像があるサンピエール教会ものぞいてみた。小さな教会だけど、内部の祭壇も整えられ、落ち着いた雰囲気だった。
 帰りはグランド・リュを逸れ、城壁の石畳を下りた。途中、足を止め修道院の尖塔を仰ぎ見ると、長い剣を振りかざすミカエル像が輝いていた。金メッキを施した高さ約4メートル銅像で、ヘリコプターに吊るし取り付けたという。

モン・サン・ミシェル近くにある宿泊ホテル

 私が宿泊したのは島から1キロほど離れたホテルだった。3ユーローで自転車を借りることができたが、日没までに返却することが条件だ。というのも数年前、島へ向かう道路で日本人観光客が車にはねられ死亡する事故があったためだ。とにかくトラックや自家用車が速度制限を無視したスピードで走り、車道を走る自転車は危険なのだ。日没前に引き返すことになり、残念ながらライトアップは見ることが出来なかった。歩いて島へ行く観光客には蛍光チョッキ着用が義務付けられていた。

モン・サン・ミシェルを背景に見納めの記念写真(2010年5月)

「海のピラミッド」を「島」に戻すプロジェクト

 帰国後、現地で求めたガイドブックで、あらためてモン・サン・ミシェルの歴史をひもといた。708年に司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受け、ここに礼拝堂を作ったのが始まりとのこと。966年にノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建てた後、増改築を重ねて13世紀にほぼ現在のような形になったそうだ。そして中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。
 その後、14世紀の「百年戦争」の間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目を果たした。18世紀末のフランス革命時には修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用された時期もあったが、1865年に再び修道院として復元されたのだ。
 その頃のサン・マロ湾は、満潮と干潮の潮位差が実に15メートルもあって、干潮時には沖合18~20キロまで広大な砂洲が広がり、満ち潮ともなると、20キロ沖合から凄い勢いで海水が押し寄せて来たという。
 文豪ヴィクトル・ユゴーをして、「海のピラミッド」と讃えられたモン・サン・ミシェルは、修道院から要塞、一時は監獄として利用されるなど、歴史の波にもまれ、様々な時代に建築を積み上げてきた。神に祈りを捧げながら生きてきた中世の人々は、スペインのサンティアゴ・コンポステーラに至る主要な巡礼路として崇め、今に伝承しているのだ。
 巡礼者や観光客の増加から、19世紀には島と陸との間に堤防を造成する。道路と鉄道も敷かれ陸続きになったが、鉄道は後に撤去されている。そして世界遺産に登録されてからは、観光客が飛躍的に増加したのはうなずける。
 

モン・サン・ミシェルの俯瞰写真(『ウィキペディア』より)

 一方、進む砂洲化に歯止めをかけるため、堤防道路を取り壊し、橋を渡して陸側からシャトルバスで「島」の手前まで移動できるようにする環境整備の国家事業が2015年には完了した。

環境復元プロジェクト の架橋プラン(フランスの2012年パンフレットより)
環境復元プロジェクト による架橋(フランスの2012年パンフレットより)

 この工事は単に砂を取り除くだけでなく、陸とモン・サン・ミッシェルを結ぶシャトルバスの設置や、新たな駐車場の建設などかなり大掛かりなもの。この工事によって、モン・サン・ミッシェルは「孤立した島」に戻ることになる。
 

モンサンミッシェルへ架けられた橋(2022年、観光パンフレットより)

 シャトルバスだと、これまでのように大型観光バスが砂洲へ乗り付けていたのに比べ大量輸送というわけにもいかないと思われる。世界遺産は人類共有の宝として保存し次世代に伝えていくべきものだ。単に観光客増に躍起にならず、かつての「島」に戻すプロジェクトの英断には拍手を送りたいと思う。いつの日か、海に浮かぶモン・サン・ミシェルを再訪したい。

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