あれもこれも、ほんとの自分

※誰かに送るために書く方がなんだか書きやすいということに気がついたので、誰かに向けて書くテイでメモを残していくことにしました。


最近、会う人や場所によってそこにいる自分の像が全然違うなぁとより強く感じるんです。

でもどれもほんとの自分なんですよ。
真面目なことを考えて文字を打ってるのも、いざ面と向かって話してると「なんかこういう話する雰囲気じゃないなぁ」と思うのもほんとの自分なんです。
外で真面目そうに振る舞ってるのも、家ではだらしないのも、です。

まあそういうのをペルソナとか分人とか言うんでしょうけど、なんか「これがほんとの自分だ!」みたいなのを求めなくなってきたんですよね。

180度違うけど、どっちも自分だしなぁと思うようになった。

「自分の原石」みたいなものはそれぞれみんな持ってるんだろうけど、結局は目の前にいる人に引き出されるんですよねぇ。
それは自分の意志とは無関係なこともある。引き出されてから気がつくこともあるんだなぁと今まさに思ってるところです!

それは、人だけじゃなくて、モノや言葉でもそうなんでしょうね。
何か興味が勝手に生まれてくれるのではなくて、本を読んだり映画見たり人と話したりしてたら外側から照らされてやっと存在に気がついたりするんでしょうね。

なんかBUMPがすでにどこかで歌ってそう!笑
全く意識してなかったけど、ちょうど「『あなた』の哲学」という本を電子書籍で読んでるところでした。(『図書館の電子書籍ページに飛ぶショートカット作ったら最強になった』)
何かこれと関係あること書いてるかもしれないですね。

この本は、私(一人称)や他者(三人称)はこれまでたくさん考えられてきたけど、あなた(二人称)についてはあまり考えられてないよね!というところから出発するんです。
最終的には結構大きなところまでいっちゃうんですけど、僕はこの「あなた」という二人称についてもう少し立ち止まって考えてみるというのは面白そうだなぁと思ってます。

本の中たびたび引用される森崎和江さんの『いのち、響きあう』という本がとてもおもしろそうで近いうちに読んでみようと思います。

例えばこんなことが書いてあるんですよ。

ある日、友人と雑談をしていました。私は妊娠五か月目に入っていました。笑いながら話していた私は、ふいに、『わたしはね……』と、いいかけて、『わたし』という一人称がいえなくなったのです。いえ、ことばは一呼吸おいて発音しました。でも、それは、もう一瞬前の『わたし』ではありませんでした。
森崎和江『いのち、響きあう』<藤原書店、1998>

このあと森崎さんは「わたし」という一個人、一代の考え方は非常に男性的で、女性の視点が抜け落ちていると考えられたようで、生まれ・生み・死ぬというサイクルで人生を、言葉を、捉え直そうとしたらしいんです。これは、ちょっと読まないとなぁと思ってます。課題が落ち着いたら読もうかな。

あとは、やっぱり、二人で話してると、特に「あなた」によって自分が存在できる感じがあるんですよね。まさに立ち現れる感じ。
言葉のニュアンスだけですが、ちょうど年始に買った大森荘蔵という人の『新視覚新論』という本がもしかしたらこの感じと関係するかもしれなくて、その辺にいま関心があります。

そういえば、西田幾多郎のこういう話も引用されてました。

私と汝とは絶対に他なるモノである。私と汝とを包摂する何らの一般者もいない、しかし私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である、私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へと結合するのである、絶対に他なるが故に結合するのである。
西田幾多郎『私と汝』

こういう話おもしろいなぁと思いながら生活してます。笑

(おわり)

最後まで読んでいただきありがとうございます。
ウェブサイトと、Podcastをやっているので覗いてみてください。


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