大衆文学と純文学の違いを考察する
先日、動画のサムネで「純文学と大衆文学は何が違うのか?」みたいなのを見て、私も考えてみたいと思った。
分類をするなら、大衆文学は娯楽で、純文学は芸術。
芸術は、教養でもある。
似たようなもので言えば、イラストと絵画がある。
娯楽要素の強いイラストは、個人が個展をだすイメージがある。
そして芸術要素の強い絵画は、作者をごちゃまぜにして美術館などに飾られる。
その違いはと言えば、感情に訴えかけるだけの余白があるかどうか。
純文学
読みにくいと感じる人も多いと思う。
なんだかすっきりしない終わり方をするものも多いし。
この純文学とか絵画って言うのは、作者だけではなくて見ている人もその作品の一部に加わっているのがポイントなのだと思う。
読む人の感性に任せて余白を作る分、その隙間を読み手が心の内側で埋める形になるから。
その隙間を埋められない人は、何のこと……?ってなるし、それを妄想でも何でもいいから埋める事が出来る人は、自分自身が地盤から揺れる様な感覚を味わう事が出来る。
最後まで読んだ後、ほんの少し整理して、それからもう一度読んで今持っている感覚との答え合わせをしたくなる。
解釈が多くある分、狭いようで広い世界。それが純文学。
大衆文学
その名の通り、〝たくさんの人に向けて〟発信しているものを大衆文学という。
だからたくさんの人に共感してもらえるようになっている。
感想を言い合えたり、同じ気持ちを味わえるように作ってあると思う。
現代の平均近くを狙っているから、感情が大きく揺れて堪らない気持ちになったりする。
最後まで読んだ後、核となる事実がポツンとある周りに、自分の感情が絡んで大きくなっているような感覚。
解釈に限りがあるから、広いようで狭い世界。というのが私の見解。
純文学を〝教養〟と言ったのは、自分で考える必要があるから。
自分で余白を埋める必要がある分、感性が鍛えられる。
だから〝芸術〟と呼ばれる絵画や純文学は、時代も人も選ばずに楽しむことが出来るため、世に残りやすいのかも。
早速我慢していたその動画を見て、私との違いを楽しんでくる。
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