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2024年年間テーマ評論「時事詠を考える」①

「厨」から   
   後藤由紀恵

 「時事」を広辞苑で引くと「①その時に起こった事。当時の出来ごと。②昨今の出来ごと。現代の社会事象。」とある。「事」を引くと「①意識・思考の対象のうち、具象的・空間的でなく、抽象的に考えられるもの。「もの」に対する。②文末にそえて、終助詞的に用いる。」とある。(「事」は①の中にも、①世に現れる現象。②言ったり考えたり行ったりする中身。の意味がある。私の広辞苑は古い版なので最新版とは違うかもしれないが、そう大差は無いだろう。)何となく言葉の意味として「時事」は②をイメージしていたが、過去形の①が先に来るのかと少し意外な気がした。確かに「時」の「事」なのだから、その「時」はいつでも良いし、「事」だって大きくとらえられるだろう。「時事詠を考える」というテーマは漠然として気が遠くなりそうなので、「二〇二三年の現在から読む」ことを背骨としてみることにする。
 先日、小島ゆかりと穂村弘の対談を聞いたときのこと。「(歌に)厨という言葉を使わなくなった」という話題があった。「今は台所かキッチンかしら」と話は続いたのだが、私の歌にはわりと「厨」が登場するので意外であった。調べた訳ではないけれど「台所」や「キッチン」はほとんど無いような気がする。単純に「くりや」という語の優しい響きが好きなのと、「厨」とすると何だか少し現実から離れてゆくような感じがするのだ。実際に私は台所が好きで、今の部屋の台所はガスコンロが置けて大変に気に入っているが、ここが「厨」だとは思っていない。「厨」は私にとって日常の言葉ではなく、歌の言葉として気に入っているのだ。ためしに『岩波現代短歌辞典』を引くと、

 かつて、女性の歌に対する悪口的な意味合いが、「くりやうた」という言葉にはこめられていた。現在、そのような意味合いで「くりやうた」ということもなくなったが、くりやという語が、台所やキッチンといった語よりもやわらかい感覚があり、和歌として歴史を背負っているため、まだまだくりやと女性のイメージ的なつながりは強い。

 エプロンのかわりにぼくの長そでのシャツを巻きつつ厨に立てり
       吉野裕之
 
 たとえば引用歌、明るい感覚の青春歌であるが、読者はエプロン、厨、女性というイメージのつながりを前提として読むであろう。男性が台所に立つ歌も現代には多いが、それらも本来女性が立つところという意識が読みの前提となってしまう。果たして今後はどうだろうか。


 とある。この辞典は一九九九年刊なので、今から二十四年前の「厨」だ。確かに揶揄する意味で「くりやうた」という言葉があったなと思い出した。私自身は言われたことはない(もしくはどうでもよいと思って覚えていない)が、「くりやうた」に込められた女性蔑視の気配はわかる。男女ともに生涯未婚率が急上昇中の現在ではむしろ夢のようだが、かつて大人になったら結婚して男は働き女は子供を産んで家事をする、ことが一般的な時代が確かにあったのだ。(そしてそれは現在でもある一定の需要がある。)翻って現在、作者の性別が何であれ歌の評でこの言葉を使ったら確実に批判の対象になる。今年(二〇二三年)の「短歌研究」四月号で「短歌の場でのハラスメントを考える」という特集が組まれたことは記憶に新しい。

 レイプされたかつたんだろ?と言はれたり かも知れないがあなたにではない         黒木三千代「短歌研究四月号」

 この歌は「別の人に」という詞書を持つ。黒木の「侵攻はレイプに似つつ八月の涸(ワ)谷(ジ)越えてきし砂にまみるる」を所収した歌集『クウェート』が刊行されたのは一九九四年。私は純粋にこの一首の力強さに惹かれるが、作者としての黒木の周辺はこのような嫌がらせが往々にしてあったのだろう。そしてそれを言うには時間が必要だったのだろうと想像する。一体に「ハラスメント」という語が身近になったのはいつからなのか。体感的にはここ五年ぐらいで加速している気がして、手元の広辞苑(第五版)を引くとやはり掲載されていない。第五版の出版は一九九八年だから、『クウェート』刊行の頃にはまだ一般的ではなかったのだ。下の句は飄々としておりユーモアさえ感じるが、これは現在だから言えることであって、当時はきっと精神的な苦痛の方が大きかったのではないだろうか。歌を批評されることは良い。発表した以上、批評であればどのような意見も受け入れるべきだと思う。だが作者の人格を否定するような言葉は許されることではない。作者の人間性が気に入らなければ、歌を読まなければいいだけだ。

 手を挙げて意見を言えば晩秋の墓場のように静まりかえる
 千年をずっと女であるような悔しいすすき野原の風だ
 「無駄だよ」と声が聴こえる手を洗う小さな滝の速度の中に
 羨ましいならなれよ女に、犬に、ぐらりと地下鉄がやってくる

 北山あさひの第二歌集『ヒューマン・ライツ』の中の連作「F」から引く。今年の「まひる野」一月号で読んだ時から気になっていたが、初出にあった「フェミニズムのFも知らずに三十代女性の視聴率(すうじ)を狙っているぞ」は落とされている。一首目、職場で意見(おそらく正論)を言うことでいたたまれない気持ちになるなど自分をすり減らすことでしかない。「晩秋の墓場」は秋の衰えた陽ざしの分だけ冬よりも物哀しい気持ちになる。もし男であれば拍手喝采だったのかと言えば、たぶんそれはそれで妬まれるだろう。二首目は綿々と続く女性蔑視の歴史を片隅に置きながら、女であることを悔しがっているようだ。風に揺れる薄の一本一本が声なき声をあげる女性たちなのかもしれない。三首目は手を洗うことで気持ちを切り替えようとしながらも、「無駄だよ」という虚空の声に貶される。その声は無意識の内に身体の中に充満してゆき、四首目のやや自暴自棄な態度へとつながるようだ。カーブを曲がってくる地下鉄がそのまま自分に突っ込んでくるような、そんな不穏さを感じる。
 黒木が「レイプされたかつたんだろ?」と言われ、北山が「無駄だよ」と聴くまで約三十年。「ハラスメント」の意識や知識の有無はあっても、女性の置かれた位置は「くりやうた」と言われた時代から実はそんなに変わっていないのかもしれない。「厨」という言葉は好きだが、「くりやうた」の裏にある蔑視が今なお薄くとも残っていることに気づく。ただ、声高に「女性が」というのはとても危険だ。三十年前にはまだ「男は強い」という根拠のない幻想があったかもしれないが、今は女性であれ男性であれ抱える問題に差はない。男女の二項対立で考えることではないだろう。一首について歌人について表現以外のことを言う時には十分な注意が必要だ。

 以下、今年のマチエール欄から引く。

 どこからがハラスメントかあぐねつつあぐねつつそのぎりぎりで叱る
        滝本賢太郎
 色玻璃を眼に嵌め込んでうそをつく性持たさるる此の世だから
        立花 開
 平成に作られた規程(マップ)を頼りとしジャングルを走れというのですかバカ      荒川 梢
 悪気なく職無きことを問うてきて生命保険の人は笑いぬ   小原 和

 一首目、滝本は大学で教えている。私も職員として大学で働いているので、三、四句目は身につまされる。学生に何か言われたら教員や職員はひとたまりもない。しかしこの歌はどのような場面でも通用する。「ハラスメント」の一語によって「叱る」ことがどんどん難しくなっているのが現在の風潮だろう。二首目、「色玻璃」はカラーコンタクトレンズのことだろう。カラコンを入れて顔の印象を変えるように「うそをつく性」を持たされてしまった。ここには身体や心の性別を選んで生まれることの出来ない悲しみや嫌悪感があるように思う。三首目は仕事の場面。規程(もしかしたらハラスメント関係かもしれない。)のルビがユニークだ。規程に沿って現状の問題を解決すること。それが与えられた業務だが、肝心の規程内容が現在に合っていないのだろう。規程の改正はそうそう頻繁には行われないため、作者の右往左往する様子が浮かぶ。四首目の作者は小さな子供を育てている。今は家にいるのだろう。「生命保険」というと塚本の「はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を賣りにくる」を思い出すが、こちらは笑いながら無職であることを確認してくる。実際は「生命保険の人」は必要事項として聞いているだけだろうが、作者のなかではどこか現状に引け目があるのだろう。
 北山も含め、彼らの歌が性差や年齢といった立場によって特別に抑圧されている訳ではないと思う。けれども日常のなかで感じた違和感が歌として表現された時、どこか息苦しさがあるように思うのはおそらく私の中にも同じような気持ちがあるからだろう。

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