短歌結社 まひる野
2023年のテーマ評論をまとめました。
まひる野2023年6月号特集「結社の魅力」は堂々21人21ページの大特集!! 各地の会員や相対的な若手に結社の魅力について語ってもらいました。 その中から12名の作品とエッセイを転載しています。
9月号恒例歌集評特集です。
まひる野会です。 こちらでは、誌面に掲載されたいくつかの記事を公開していきたいと思っています。実際の更新は8月号から始めます。 * まひる野は1946年3月、窪田空穂の長男窪田章一郎の元に若い歌人が集まり創刊されました。 現在は、代表・篠弘、編集人・大下一真のもと、中根誠、島田修三、今井恵子、柳宣宏、柴田典昭、広坂早苗が運営・編集に当たっています。 生活の中で生まれる感動を大切にする作風が特徴です。 どなたでも入会できます。 詳しくはホームペ
定型をわかりたい 一月二十八日に開かれた佐藤華保理『ハイヌウェレの手』の批評会に参加した。仕事の歌、家族の歌、とりわけ歌集の柱となる娘の歌について議論が盛り上がったが、わたしが注目したのは〈積まれたる履歴書をシュレッダーにかけながら励ますシュレッダーを〉という歌について、数人のパネリストが「黙読していたときは気にならなかったが音読してみると読みづらい」と話していたことだ。もちろん「初読時から読みにくいと思っていた」という人もおり、非常に興味深い。歌を読むとき、脳内では何
あなたの言葉は無力か 一月一日に発災した能登半島地震。一月二十日時点で死者は二三二人、今なお一万人を超える人たちが避難している。今回は二〇一一年の東日本大震災に際して歌人が何を綴り、語ったかを、今一度振り返ってみる。 全てが壊れた。震災前の価値観・思考も廃墟となった。それは被災地の人ばかりではあるまい。だが、私たちは言葉まで廃墟にしてはいけないのだ。もし、言葉の廃墟が目の前にあるなら、一人の点灯夫として、私たちはその廃墟を灯しつづけなければなるまい。 ――高木佳子(
「伝えるための時事詠」 塚田千束 時事詠は時代を切り取ることで、その歌の詠まれた社会背景をさぐる重要な資料となりうる。同時にその時代を生きていた人間が一体どのようにその事件や物事に対峙し、考え、行動していたかを知る手掛かりになりえるだろう。しかし物事をそのまま描写するのであれば新聞や当時の雑誌を読むのもまたかわらない。 時事詠の主題や独立性はどこにあるのだろうか。いくつかの例をあげ実際に考えてみる。 【多様な視点からの時事詠――コロナ禍において】 曲線は未来へ伸びて、
後ろめたさ、外から 染野太朗 時事詠と言えば、もうずっと考えていることがあり、しかし考えるたびにその考えが変化し、結局どのような立場で時事詠を詠み、読めばいいのかわからなくなり、自分では詠まなくなってしまった、あるいは、詠んだとしても発表しない、もしくは通常よりもずっと慎重になって取捨選択し、結局それが時事詠なのかわからないような歌を提示する、というようなことをくりかえしている。 正直なところ、時事を詠むことが怖ろしい、あるいは後ろめたいという気持ちがある。い
〈生き物としての人間〉という視点 柴田典昭 東日本大震災のあった年、二〇一一年の七月に金子兜太、半藤一利の対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』が刊行されている。金子は二〇一八年、半藤は二〇二一年に亡くなっているから、肉声で語り合った、二人の遺言集のような趣のある一冊となった。 金子は俳人、半藤はノンフィクション作家と表現方法に相違はあるが、第二次大戦に拘り、終生、表現し続けたことで共通する。その表現行為は、金子の言葉を借りれば、「悲壮とか悲劇」が「出発点
ラブとリスペクトのあいだ あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女の悩めるところあるに似たり。つよからぬは、女の歌なればなるべし。 十一月二十七日放送の「100分de名著」(Eテレ)で紹介された紀貫之による小野小町評である。指南役の渡部泰明は「この場合の「強くない」は心情表現に重点を置きすぎてがっちりとした構成をとっていないということ」と解説した上で、貫之は「女」を一括りにしている、女性の歌には弱々しく見えて実は強い歌もあるとして異議を唱える。 この番組は四
白菜、ひとつ百円 島田修三 主婦という専門職があるかないか微妙なところだが、私は自分の主婦能力がかなり高いと思っている。大学でも専任の職務に就いているが、主婦業もこなしているのである。七年前に家内が急逝したために、彼女の担っていた家事万般が私に回って来たからだ。パートのお手伝いさんを頼むという手も考えたが、私の留守中に見も知らぬ他人がわが家(狭いマンションだが)にいるという状態は、なんとなく生理的にイヤだなあ、と思って諦めた。 昔は男の独り暮
暴力を見るということ 滝本賢太郎 わたしはテロリストの末裔である。幼い頃、祖母から繰り返し、先祖は桜田門外の変に参加した人なのだと聞かされてきた。当時はよくわからずに、関心も持てなかった。だが歴史の授業でこの事件が暗殺事件だったことを知り、俄然興味が湧いた。図書室の本で詳細を追ううち、わたしの中に大義のために人を殺めた人物の血が流れているのだと感じ、恍惚を覚えた。その後思春期から今に到るまで、年々過激になる政治信条はこの血のせいではないかと時折思う。 なので
「厨」から 後藤由紀恵 「時事」を広辞苑で引くと「①その時に起こった事。当時の出来ごと。②昨今の出来ごと。現代の社会事象。」とある。「事」を引くと「①意識・思考の対象のうち、具象的・空間的でなく、抽象的に考えられるもの。「もの」に対する。②文末にそえて、終助詞的に用いる。」とある。(「事」は①の中にも、①世に現れる現象。②言ったり考えたり行ったりする中身。の意味がある。私の広辞苑は古い版なので最新版とは違うかもしれないが、そう大差は無いだろう。)何となく言葉の
「女ことば」ですわよ すこし前の刊行だが『女ことばってなんなのかしら?「性別の美学」の日本語』(平野卿子著・河出新書)が面白かった。「女ことば」とは「かしら」「のよ」「わ」など特有の終助詞や、「お砂糖」「お花」のように接頭辞「お」をつける、「うるせえ」(訛った母音)や「畜生」(罵倒語)「尻(ケツ)」(卑語)などを使わない、といった言葉遣いを指す。明治時代の女学生の間で流行った言葉遣いが、戦後に「丁寧・控えめ・上品」といった「女らしさ」と結びつき、さらに「女はそうした言葉
幻想を糸口として 本年の「まひる野」の年間テーマは「幻想とリアリズム」だったが、ここ数年のテーマのなかでもかなり難解に感じられた。私は三月号の論考で染野太朗『人魚』を取り上げ、集中に出てくる「人魚」を、「外的圧力という負荷エネルギーが放出されるとき、その矛先となる」存在として幻想の歌に位置付けた。そして「『人魚』が人間の真理に迫った歌集と感じられるのは、ある意味、幻想を内包するリアリズムという二重のリアリズムがとられているからではないか」と書いた。 この「人魚」的な
「短歌」九月号の山下翔の時評「短歌を決定するもの」は山中律雄、小池光の主張する「五句三十一音」について取り上げている。短歌はたんに三十一音であればいいわけでなく、五句から成ることを意識しなければならない、というのが山中、小池の意見だが、これに関わってくるのが句跨りの問題だ。山下は次のような歌を挙げながら口語文体の句跨りについて整理する。 靴音の消えてしまった街角でふいにモーツァルトがうたいだす 笹井宏之 果樹園に風をむすんでいるひとと風をほどいているひとの声 『ひとさ
最近、是枝裕和監督作『歩いても 歩いても』をみた。二〇〇八年公開だから、結構前の映画になる。老いた両親をさびしくみつめた話で、過ぎ去った歳月や人間関係の立ち行かなさといったものが、たとえば浴室の壊れたタイルの描写からにわかに浮かび上がってきたりする、しみじみとした逸品だった。 老いた両親といえば、大口玲子「東京」二十八首(「短歌」八月号)は、認知症の母と「暴力暴言」の父を歌って切実な一連であった。と同時に、作者が父母を、そして東京を主題に歌っていることに、軽くない驚きを
「女性」の場 濱田美枝子『『女人短歌』小なるものの芽生えを、女性から奪うことなかれ』が書肆侃侃房から出た。一九四九年から約五十年間にわたって刊行されてきた季刊誌「女人短歌」の軌跡を辿ったもの。殆ど予備知識がないまま手にとったのだが、雑誌の中身だけでなく当時の社会情勢や歌壇の動向についての丁寧な解説があって、読んでいて気後れしない。誌面からの引用歌が多かったのもよかった。 全五章のうち、第四章「五島美代子と『女人短歌』を牽引した歌人たち」は歌人論として五島、長沢美津、山
ただ歳月を 滝本賢太郎 サーベルと燕。魅力的なタイトルの歌集である。著者が七〇代前半の、二〇一八年から二一年に発表した歌を収める。この時期小池は母や弟の死、墓じまいによる故郷との別れを体験する。そのせいか時間、歳月と向き合う歌の多さが目を引く。 氷結の川ひとたびも見しことなし七十年をたちまち生きて 籠のカナリア逃してしまひしその日より六十余年がひらりと過ぎつ たまごからうさぎ孵るとおもひゐし弟よあれから六十年か 小池はかつて「廃駅をくさあぢさゐの花