鯖虎1表紙04

猫目探偵鯖虎キ次郎の冒険「鋼の嘴」

登場人物

■鯖虎キ次郎
猫の目のような縦長の瞳を持つ私立探偵。池袋西口に事務所を構える。
池袋周辺を襲う、数々の怪事件、難事件に取り組んでいる正義の味方。

■とめきち
鯖虎探偵と一心同体の相棒。奇跡の鯖虎猫で、巨大な猫又に変身する。

■針筵慎太郎
鯖虎探偵の助手。
本業は近所のバーのマスター。

■ともちゃん
針筵が経営するバー、「ボブテール」のバーテンダー。

■些末俊三
鯖虎探偵とともに、数々の難事件を解決してきた警視庁警部。

■榊原文太
天才歯車職人。自らの技術を認めようとしない「世間」に復讐を誓っている。

■マドリードの怪人オ・ラ・レグホン
鯖虎探偵の宿敵。一度は鯖虎に敗れて死んだが、天才歯車職人、榊原の手で復活した。

■山田一郎
復活したオ・ラ・レグホンの最初の犠牲者。実はレグホンの息子。

■山田光恵
レグホンの二番目の犠牲者。実はレグホンの妻、一郎の実の母親。

■モヒカン獣医師
鯖虎ととめきちのかかりつけ動物病院の天才的獣医。

■高山六郎
池袋のタウン誌「ふくろジャーナル」を発行する出版社社長兼記者。

■高山桃子
高山六郎の娘。女子高生ながら、ふくろジャーナルのチーフキャメラマンも務める。

■富さん
鯖虎なじみのタバコ屋の老主人。

■鬼子母神の7匹の猫
雑司が谷、鬼子母神境内にすみつく、思議な力をもった猫たち。

(=・ω・=)(=・ω・=)(=・ω・=)

1 志村坂上の家

 東京板橋区志村の、ふらふらと蛇行する日当たりの良い坂道の途中に、その小さな二階家はあった。春の午後、少し赤みがかった日差しが、オレンジ色のモルタル外壁を眩しく照らしている。日当たりの良い玄関脇には、若い桜の木がみずみずしい花を咲かせ始め、地面に這うように広がったタチツボスミレが青い蕾をつけている。

 気の早い新聞配達員が、夕刊を郵便受けに押しこみ、スクーターの音をバタバタさせながら去っていった。その郵便受けには「山田」の文字があった。

 その家のリビングの床の、残りわずかになった日だまりで、茶虎の仔猫、チャトランが眼を醒ました。伸びをしながらS字にくねくね舞うその尻尾に、つられて眼を覚ました兄弟の斑猫タマリンがじゃれかかる。ぴょんと飛び上がってすぐに身構えるチャトラン。 タマリンは、意味もなくごろんと横になり、バリバリバリっと床の絨毯を引っ掻く 伸びた体をぎゅっと縮めると、びょん、とバネにしてでたらめな方向へ駆けていく。その尻尾をチャトランが追いかける。タマリンは絨毯の上に転がった大きなクッションを飛び越えるとその陰に身を隠し、追いかけてくるチャトランを待ちかまえる。

 そして. …タマリンのまんまるな眼が、ふと、クッションの一部に三角の突起があるのを発見した。

 ちょんちょんと爪の先で引っ掻いてみる。薄皮が少しはがれて爪の先にくっついた。その突起には2つの穴があった。そこからツーっと赤黒い液体が流れだした。チャトランもやってきてくんくんと匂いを嗅ぐ。 突起のそばにはもっと大きな穴があった。

 それは、血の気のない唇に縁取られた口だった。少し黄ばんだ歯が見える。その奥にピンク色の舌が釣りたての深海魚のように詰まっている。

 くんくん、くんくん、つんつん…二匹はしかし、すぐに興味を失ってくんずほぐれつしながら、日当たりの良い二階めがけて階段を駆け上っていった。

 猫たちも去り、日だまりも消え、薄暗くなってやや青みがかったリビングには、一人の男の死体が転がっていた。変わり果てた2匹の仔猫の飼い主だった。見あげると、吹き上がった大量の血が、天井の半分を赤黒く染めていた。

2 鯖虎探偵社

 たいへんだたいへんだ、やばいよ、せんせえ、たいへんだたいへんだぁ。

 慌てた様子のまるまっちい小男が、池袋西口商店街を駆けている。そのままのスピードで赤いレンガ造りの細長いビルの階段をドタドタ駆け上がっていく。3階の踊り場には猫用の食器が整
然と並び、目やにをこびりつかせた三毛猫が残り少ないキャットフードを懸命に食べていた。男はその脇をおっとっととー、と通り過ぎてと目の前の部屋に駆け込んでいく。

 ガチャッ、ドカドカドカ、バタン。そのドアの脇には銅板に刻まれた「鯖虎探偵社」の看板があった。

 男はぜいぜい言いながら裏返った声を出した。

「たいへんだ。先生、殺されちまった」

 デスクの向こうで、一人の紳士が萩原朔太郎の詩集から眼をあげる。
 ところどころ白髪の混じったきれいな七三頭に、細長い顎。大きな瞳は普通の人の眼より若干縦に長いようだ。顔をあげると同時に、その瞳はきゅっと細さを増した。この猫目の紳士は、鯖虎探偵社の社長兼唯一の探偵、鯖虎キ次郎52才だ。

「針筵くん、何事だい?」

 今事務所に大慌てで飛び込んできた男、針筵慎之輔は、鯖虎探偵の助手だ。
 まるっこい顔にポマードでかためた髪がぴったりと張り付いている。この髪型は、台風程度の風では絶対に変形しない頑丈なつくりだ。まるで丈夫な万年筆で力まかせに引いた線のような眼をいっぱいに開いて(いるつもりなのだろう)、非常事態を懸命にアッピールしている。

 探偵助手といっても本業は近所のバー「ボブテール」のマスターだ。店の売り上げなどあてにしなくていいご身分らしく、店は女の子にまかせてもっぱらここ鯖虎探偵社に入り浸り、無給の押しかけ探偵助手をやっているのだ。

 針筵助手の話によるとこうだ。
 板橋区志村の一軒家で男の死体が発見された。それが今調査中の案件の依頼人だ、というのだ。

「やばいですよ」
「ふむ。」

 そう答えて、鯖虎探偵は続けた。

「お金の事なら心配ないよ。うちは全額前払い制だから」
「いやいやいやいや、先生、そうじゃないでしょ」

 針筵は、ハンカチで額をごしごしこすった。

「そういう事じゃなくて、いやだなぁ、ころされたんですよ、先生。殺人ですよ殺人事件」
「ふーむ。しかし、いいか針筵君。依頼人のプライベートに首をつっこんじゃいかんね。我々は職人なんだから、依頼された仕事だけを黙々とこなす。そのクオリティに対してお金を頂戴する、それだけなんだよ。依頼人が巻き込まれた殺人事件なんてプライベートの極致でしょうに」
「そりゃそうですけど …」

 言葉に詰まった針筵は、未練がましくぶつぶつなにか呟いている。

「事件なのにな. …」

 そのとき隣のダイニングから、なーお、という野太い猫の声がした。
 ゆさゆさと巨獣の迫力で姿を現したのは、一匹の大きなな虎猫だった。全長70センチはあろうかという奇跡的に巨大な猫は、ごろんと床に横たわると真っ直ぐに鯖虎をみあげ、鼻の穴を2回膨らませた。ごろんに鼻膨らまし2回は、おなかを掻け、という命令なのだ。
 鯖虎はやれやれと椅子から立ちあがると、猫の傍らにあぐらをかき、そのおなかを掻いてやった。

 臆面もなく腹を放り出して恍惚とする巨猫。だいぶ毛づくろいをサボった、ぼっさぼさの尻尾が、別の生き物のようにぐいっぐいっと動いて、その腹からは抜け毛と埃が盛大に舞った。

「ほいほい、殺人事件だにゃー、とめきち」

 巨大虎猫とめきちは、ガ.ラガ.ラ、とことさら大音響でのどをならした。

「先生.、でか猫構って、まったりしてる場合じゃないっつうの」
「そんなに気になるの、針筵君」
「ういっす」
「気になるならまぁ、しかたないにゃー」
「にゃーっすよ」

 鯖虎探偵も重い腰をあげたようだった。

 死んだ依頼人の名は山田一郎。
 工夫がなさすぎて逆に忘れる事のできない名だ。年齢は29才。依頼内容は人捜しだった。

 三ヶ月程前のある日、山田一郎は鯖虎探偵社のドアをおずおずと開き、ごめんください、と言った。針筵がパーテーションの向こうから出てきて、あ、ご依頼ですか?と問うた。一郎はハイ、と特徴のない声で答えてもじもじと立っている。どうぞこちらへ、と針筵は依頼人を招き入れた。
 ソファに座った彼はあいかわらずもじもじしていた。
 七三頭に、白い顔、一重の細い眼。緊張した頬に、大きすぎるワイシャツの襟が食い込んでいた。その上に羽織った黄緑色のカーディガンは逆にちょっと小さすぎ、袖口が窮屈そうだった。針筵の頭に、なんだかノートの落書きのような顔だな、と失礼な感想が浮かんだ。

 そのうち、巨大猫とめきちがゆさゆさとやってきて、彼の靴とズボンの裾の匂いをあらためた。検分が済み、巨猫が去ると、ふっと葉巻の香りがただよって探偵が現れた。
 依頼人は女性が写った一枚の写真を探偵に差し出した。そして札の入った封筒を内ポケットから取り出し、母を捜してください、と言った。

 調査はもっぱら針筵が担当した。鬼子母神近くのアパートに一人で暮らしている事を調べ上げ、報告書を仕上げようという段階で依頼人は死んだのだ。針筵にしてみれば自分のクライアン
トだったわけで、事件にこだわりたくなるのも無理はなかった。

「あの母親に関係あるんですかね?」
「さぁねぇ。あるかもしれないし、ないかもね」
「でも母親を捜してウチに来た。母親が見つかったと同時に殺された…関係あるんじゃねえですかい?」
「予断は禁物だよ、針筵君」
「ういっす」
「とはいえ、まずは鬼子母神の母親だな」
「なーお」

 最後はとめきちが返事をした。

3 鬼子母神の女

 鯖虎探偵と針筵助手は、さっそく鬼子母神に向かった。
 池袋駅東口から明治通りを行き、その先が雑司が谷というところで、鯖虎は路地に入っていった。
 針筵もあれ?という顔で続く。

 ラーメン屋とクリーニング屋を通りすぎて、鯖虎が立ち止まったのは、一軒の煙草屋だった。

 店先の呼び鈴を押す。
 りりん、と鳴って、奥から和服姿の品の良いお婆さんが顔を出した。

「あら、いらっしゃい」
「お久しぶりです、ちょっとジッポのオイルが切れてしまって」
「はいはい、コレですね」

 お婆さんは、ガラスケースの中からライターオイルの小さい缶を出した。
 鯖虎の馴染みの煙草屋、須藤商店の富さんだ。

「陽子さん、どうですか?」
「うーん、どうもねえ、もう動けないみたい」
 
 富さんは小さくため息をついた。

「そうですか……」

 陽子さんは、富さんの飼っているアビシニアンだ。利発な細身の猫だったが、22年も生き、
ある日突然動けなくなってもう1年になる。

 針筵もちょっと心配顔になって、富さんの背後を伺った。
 座敷の真ん中にきれいに千代紙で飾ったダンボールの箱が据えられている。箱からは点滴のチューブや、酸素吸入用のホースが伸びていた。
 箱の中に、ふかふかの毛布に乗せられた、弱々しいこげ茶色の固まりがかいま見える。かすかに息はしているようだ。

「それじゃ、お大事に」
「ありがとね」

 二人は煙草屋を後にした。

 雑司ヶ谷のだだっ広い墓地を抜けて鬼子母神に進む。
 鬼子母神の境内には桜の花びらが舞っていた。

 鯖虎が境内に入っていくと、そこかしこから、ふくよかな姿の野良猫たちがそろりそろりと儀
式めいた様子であらわれ、後につづいた。白、白黒ぶち、黒猫に虎猫、三毛、錆び、茶トラ……猫の毛色の見本帳みたいな整った体型の七匹の猫たち。そのさらに後から針筵がせかせかとやってくる。

 境内を出ると猫たちは一列に並んで鯖虎を見送った。列の真ん中にいるひときわ優雅な白猫が、澄んだ声でにゃんと鳴いた。鯖虎はその声に軽く手を振って先を急いだ。

 境内を通り抜けて住宅地へ入る。しばらく路地を行くと安っぽいモルタルのアパートがぽっかりと目の前に現れた。鬼子母神からついてきた桜の花びらが目の前をはらはらと舞い落ちる。

 塗料もとうの昔に剥げて錆びついた、安普請な金属階段をガタンガタン、と上っていく。
 アパートの2階にその部屋はあった。
 菓子箱をばらして安物のボールペンで書いたと思われる表札には「山田光恵」と書かれている
。事務用の華奢なセロハンテープでドアの脇に貼り付けられていた。
 体育会系の針筵、コンコンとノックしたつもりが、ドアはガンガンと鳴った。

「針筵君!」

 針筵はまるまっちい肩をすくめた。

「ちょえっす……」

 ドアの奥からいかにも病弱な女の顔が姿をあらわした。

 もう昼過ぎだというのに花柄パジャマにピンクのカーディガン姿のその胸には、幸薄い顔のミ
ルク紅茶色の猫を抱いている。猫はにゃーと鳴いたつもりだったのだろうが声は聞こえず、か細い息が、ぁーはっと漏れただけだった。
 飼い主の顔はなお幸薄い。グレーと呼んでもいいほどに薄い色の眼、細い眉、青白いこけた頬、こめかみから垂れた後れ毛が寂しさをさらに際だたせている。
 その存在感の儚さといったら、顔の向こうにアパートの部屋が透けて見えそうだった。

 女の目が鯖虎の顔をとらえ、怖ろしいような懐かしいような、不思議な色になった。
 ごくり、と女はつばを飲み込んだ。

「息子さんの事で、すこしお話が……」

 落ち着きはらった低音で鯖虎が告げた。声帯の振動が効率よく胸板をゆらし、その声は周囲の空気を暖かい彩りに変えた。それを聞いて光恵はますます肩をこわばらせた。

「息子……?」

 女の目がますます遠くなった。針筵が引き継ぐ。

「山田一郎さん……あなたの息子さんですね」

 針筵はポケットから写真を取りだし、光恵の目の前に差し出した。

「おととい、遺体で発見されました」

「知りません、私には子供はおりません」

 光恵は少し唇をふるわせ、胸の猫をぎゅっと抱きしめた。その眼は写真の中で笑っている若い男に釘付けになっている。
 やっとの事で視線を写真から引きはがすと唇を噛んだ。
 光恵の顔を見つめていた鯖虎の瞳が、ふと細くなった。急に何かを思い出したのか、すっと息を吸うと口を開いた。

「光恵さん、あなた、マドリードに居たことは?」

光恵はビクッと肩をすくめ、小さな声で言った。

「い、いえ、ありません。お引き取りください」

 ドアが閉まった。その反動で部屋の中にこもっていた安物の猫缶の悲しい匂いが漏れ出て、んのすこしの間、あたりを漂った。

4 バー・ボブテール

 まだ宵の口、8時では、バー「ボブテール」に客はいなかった。
 バーと言ってもそう気取った店ではない。カウンターと、四人がけのボックス席が2つ。BGMは無い。アーリーアメリカン風にしたかった痕跡が見受けられる店内の一番奥には、立派な神棚が思いつきのように祀られていたが、それも年月のせいか、妙に空間になじんでいた。
 雑司が谷の調査を終えた鯖虎探偵と、助手兼この店のオーナー針筵が、ぎぎ、と木製のドアをあけて入って来る。

「もー、マスター、どこ行ってたんですか、たまにはお店の事もやってよ、もう」

 店をまかされてい.る……といっても本人にはそのつもりは全くなく、針筵が勝手にそう決めているだけなのだが……バーテンダーのともちゃんが、カウンターの奥からブーたれた。洗いざらしの白Tシャツに黒いままのショートカット、愛嬌のある大きな目が、抗議口調とはうらはらに、3分の1ほど笑っていた。
 針筵は、どうもともちゃんには頭があがらない。

「はいはいはいはい、わかってますって。先生にハイボールねいつもの」

 針筵のはいはいの連発に押されて、鯖虎は思わず謝った。

「ともちゃんすまないね」
「なに謝ってるんですか、足手まといな助手に迷惑かけられてるのは先生のほうでしょ?」
「イヤイヤ、有能な助手さんだよ」
「ほらね、ともちゃん、いつも言っているのほんとでしょ?」
「ばかねマスター、先生困ってるじゃないのよ」

 その時、店の奥の神棚から黒い影が姿を見せた。
 久しぶりの鯖虎の声に気づいて姿を現した黒猫は、神棚の大黒様の脇からタタンとカウンターの上に降り立った。伸びをいつもの半分で切り上げて鯖虎の顔をみあげ、なふん!と鳴くと、お約束通り膝にいそいそと乗ってきた。ぼんぼり尻尾がつんつんしている。鯖虎の手をじょりじょりと舐め回し、しばらくしてぷっとおならをして膝の間におさまった。

「よ、クロ助、調子はどうだ?」

 黒猫は、こたえるかわりに大きなあくびをした。あくびの頂点で「アッ」と小さな声が出た。

「しかし先生、絶対に関係ありますよ、あの様子。子供はいないなんて言っていながら、眼が語ってましたよ」

 鯖虎はにぶい歯痛のようなひっかりを感じながらこたえた。

「…そうだな…」

 ともちゃんがハイボールを差し出した。間髪を入れずに針筵が小皿にのったカシューナッツを差し出す。クロ助は短い手を伸ばして、興味もない癖にナッツをツンツンつついた。

「しかし先生、帰り際に言っていたマドリードって……」
「…実はね針筵君、私は、あの母親に会った事があるかもしれない」
「光恵に、ですかい?」
「うん」
「ほんとですかい?」
「依頼人の一郎氏が出した写真を見たときは、別段何も感じなかったんだが」
「んー、そう特徴のない顔ですからね」
「今日アパートに彼女を訪ねて、あの眼を見たとたん……」
「眼?そういや少し色の薄い日本人離れした眼でしたね。西洋人形みたいな」
「そうなんだ。あの眼……」

 そう言ってハイボールを一口すすり、探偵は深く物思いの淵に沈んでいった。

 鯖虎は、かつてしばらくマドリードに暮らした事がある。
 その乾ききった石の都での3年間は、遠い記憶の暗闇に沈めたままにしておきたいおぞましい過去だった。しかし今、マドリードの夜を彩るオレンジ色の水銀灯がちろちろと力を取り戻し、鯖虎の封印された記憶を少しずつ照らし出しつつあった。

 鯖虎の脳裏に唐突に閃光がまたたいた。その中に恐ろしい顔があった。
 それはニワトリ、巨大な白色レグホンそのものだった。透き通るような色白の顔から飛び出した黄色いくちばしが菱形に開いて笑っている。くちばしの縁には血糊がこびりついていた。その胸板はあくまで厚く、身長は2メートルを超える巨体だ。

 人食いにわとり、オ・ラ・レグホン。

 マドリードの住民を心底震え上がらせた凶悪な殺人鬼だった。
 オ・ラ・レグホンは人間として生まれたものの、遺伝子のいたずらでその頭部に雄鶏の鶏冠と強靭なくちばしを授かった男だ。真っ赤な鶏冠をぶるんぶるんと震わせ、鋼鉄のくちばしでマドリード市民の命を次々に奪った。
 当初は、旅行のつもりでその地を訪れた鯖虎だったが、知り合いである市の有力者の依頼でレグホンが引き起こした連続殺人事件に関わることになったのだ。数日のつもりで訪れたマドリードで、鯖虎は3年もの間、怪物との戦いにあけくれる事になったのだ。

 探偵の脳裏に蘇ったオ・ラ・レグホンは、マントを翻し、鯖虎の前に立ちはだかっている。鯖虎のトレンチコートのポケットの中で仔猫のとめきちが震えている。高笑いするレグホンのたくましく脈打つ腕の中には、目の色の薄い痩せた日本人女性が抱かれていた。その顔は山田光恵だった。彼女のお腹は大きくふくらみ、明らかに妊娠していた。そのお腹にいたのが依頼人山田一郎だったのだ。
 光恵のグレーの眼がひくひくと痙攣するように、鯖虎の顔を見つめていた。それは恐怖のような、哀願のような、悲しい光を放っていた。

5 二番目の殺人事件

 10日後、鬼子母神近くの安アパートの2階の一室で中年女性と痩せた猫の死体が発見された。山田光恵とミルク紅茶色の猫だった。死後7日だったという。

 鯖虎探偵社の応接セットに気持ちの良い午後の太陽が差し込んでいる。
 来客用ソファに腰掛けたその男には、そのうららかな空気に似合わない、どっぷりと染みついたかたくなさが伺えた。警視庁警部、些末俊三。鯖虎キ二郎とともに数々の怪事件を解明してきた盟友だ。向かいのソファには探偵がまぶしそうな顔をして座っていた。警部の話を聞いていた鯖虎は、ふうっと葉巻の煙を吐き出し、口を開いた。煙は陽の光の中に渦を作った。

「何だ?その共通点とは」
「うん、特殊な傷だ」

 些末警部は、ふう、と溜息をつき、くたびれたスーツの上着を脱いで、グレーと赤のチェックのネクタイを緩めた。
 些末によると、山田一郎と光恵の死因になったのは、全く同じ形状の、しかもかなり特殊な傷だという。検屍の結果だった。

「どんな傷だ?」
「三角錐……と言ったらいいか……特殊な形の鈍器だ。ざっくりと後頭部がやられている」
「即死か?」
「ああ、両方とも脳挫傷だ。なんというか、ちょうど馬鹿でかい鶏のくちばしで力まかせにつっつかれたような傷だな」
「鶏のくちばし?もしかすると……」
「あぁ、あんたが知っているマドリードの怪物のしわざに良く似ている」

 鯖虎の瞳はきゅっと細くなった、

「いや、ばかな…殺人鬼、オ・ラ・レグホンは死んだ。私はその死体も見ている」

 些末は、少しの間逡巡した。

「鯖虎探偵、実は、怪物レグホンは生き延びたかもしれない」
「なんだって?私は確かにあの怪物の死体を見ている。しかもその命を奪ったのはこの私だ」
「正確にいえば、やつの細胞が生き延びているかもしれないんだ」
「どういうことだ?」

「レグホンは、人間の唇が角質化して、まるで鶏のくちばしのようになっていた。きわめて珍しい奇形だ。実はレグホンの叔父が、医学実験材料の流通会社をやっていたんだ。そこを通じて研究材料としてヤツの細胞が配布された形跡がある」

 この世界のどこかの研究施設の冷凍庫で、オ・ラ・レグホンの細胞が生き延びている。そこからクローンが作り出され、池袋に出現したとしたら …。しかし、いったい誰が?何のために?

 些末警部は、帰り際にもうひとつ、奇妙な事実を口にした。

「実は、山田一郎の家の近くで、不思議な機械が目撃されているんだ。そして光恵が殺された日の深夜、雑司ヶ谷でも。二本足で歩く、ロボットだそうだ」
「その機械が二人を?」
「わからん、何も、わからん。目撃証言の中には、ロボットの頭は馬鹿でかい鶏の頭のように見えた、という話もある」

 瑣末を見送った鯖虎は、とめきちお気に入りの金色の猫缶を開けた。
 漆塗りの小皿に、香り高いフレークを慎重に盛る。完璧な円錐形を目指して丁寧にスプーンを使う。……ふう、今日は少し気持ちが乱れている……。
 待ちかねたとめきちが、なーおおお、といなないてフレークの小山に鼻をつっこむ。好物をかっこむとめきちの背中をなでながら鯖虎は考えていた。
 オ・ラ・レグホンが機械になって戻ってきた?ほんとうに奴なのか?

 依頼人の死からはじまった事件は異様な展開を見せようとしていた。

6 ガラス瓶

 薄暗い地下室。
 青白い光に照らされた瓶の中に、透明な液体が満たされている。
 液体の中では、ピンク色の肉片がゆらーりと漂っている。
 ひとつめの瓶には肉片。
 ふたつめの瓶では、肉片に黄色い嘴がついている。
 瞬膜をかぶった眼ができている瓶もある。
 瓶の液体の中で、なにか鳥のような生き物が成長しているのだ。

キシィー、キシィー、シュー ……建物のどこか他の場所から機械の音が聞こえてきた。
 汎用旋盤のダイヤモンドの刃物が小さな歯車を削っているのだ。
 ミクロン精度の歯車が、今生まれている音だ。

 工作室で旋盤に向かう男の後ろ姿。
 使い込まれた汎用旋盤は、油で磨かれ、鈍い光を放っている。それを操作する男の眼鏡に、旋盤の刃先から飛び散る火花が反射していた。男は瞬きもせずに、一心不乱に歯車を削っている。
 その胸のネームプレートには「技師長 榊原」と書いてある。
 ぼさぼさの頭に、いわゆる「牛乳瓶の底めがね」をかけた真四角な顔、その頬には太すぎる無精ひげがまばらに生えている。
 建物の中には、ほかに人の気配はない。
 榊原歯車製作所。ひところは30人程度いた工場従業員はすべて解雇され、実質的な経営者である榊原文太と、多額な借金だけが残ったのだ。

 突然、トランペットスピーカーからチャイムの音が聞こえた。
 誰も聞くあてのない、テープのアナウンスが聞こえてくる。

「五時になりました。残業届けをだしていない方は、速やかに退社しましょう。五時になりました。残業届けをだしていない方は…...」

 そのあとを続けて男はつぶやいた。

「速やかに 復讐しましょう」

 旋盤の火花がいっそう激しくまたたいた。

7 葬儀

 月明かりに照らされた雑司が谷の集会所で、地味な葬儀が営まれていた。
 祭壇には、死んだ山田光恵と一郎親子の写真が飾られている。
 読経もなく、線香の香りもない、殺風景な無宗教の葬儀。オーケストラが奏でるレクイエムが、どこからともなく聴こえている。

 祭壇の前で、鯖虎探偵は、光恵の写真をみつめていた。
 照れたような顔をした光恵は小さな薄茶色の子猫を大事そうに抱えている。誰が撮影したものなのだろう?背景にはあの雑司ヶ谷のアパートが少しぼけて傾いて建っている。

 鯖虎は写真に一礼すると、出口に向かった。
 出入り口の脇ににもうけられた喫煙所で、一足先に出てきた針筵がつぼめた口から、ぽーっと煙を吹き上げている。

「しかし先生、お経も焼香もない葬式なんて手持ち無沙汰なもんですねえ」
「いいじゃないか、さっぱりしてて。私の時にもこれでたのむよ」

 その時、探偵を呼ぶ声が聴こえた。

「鯖虎さん!」

 振り向いてみると、池袋のタウン誌「ふくろジャーナル」の発行人兼編集長、高山六郎だった。丸刈りの頭を自分でくるくる撫でながら人なつこい顔で笑っている。

「高山さん、どうして?」
「鯖虎さんこそ」
「あ、あぁ、依頼人の関係でちょっと……」
「そうでしたか。私は、大山の有毒ガスの件を調べてましてね、ひょんな事からこの山田親子の事に興味をもった次第でして……」

 ひと月ほど前から、大山で有毒ガスが発生してちょっとした騒ぎになっていた。中学校で生徒が原因不明の吐き気やめまいで倒れるという事件があいついでいる。分析によると大気中の高濃度の亜硫酸ガスによるものだという。高山はその事件を調べているうちに奇妙な証言に行き当たったのだという。夜、ガスの発生源があると思しき板橋税務署の裏あたりで、二足歩行のロボットのようなものを見たというのだ。それも複数の人間がほぼ同じ証言をしている。
 そこで取材の範囲を広げ、ロボットらしきものの目撃証言を集めるうち、証言が集中している

志村坂上と雑司ヶ谷が浮かび上がった。そして、その二つの地点であいついで同じような殺人事
件が起き、今日がその被害者の葬儀というわけだった。

「驚きましたよ、親子だったなんて」
「うーむ、確かに、瑣末警部もロボットの目撃証言は把握しているようだった」
「そうですか」

 話を聞いていた針筵が大げさに首を傾げた。

「こりゃ、なんだか、ますますおかしな事になってきやがったな……」

8 猫たちの溜息

 殺人事件も、毒ガス事件もほとんど進展をみせないまま、池袋の街は梅雨時のうっとうしい空気に飲み込まれていった。

 そんなある日の夕方近く。 ともちゃんはバー・ボブテールの裏口でなんだか妙な胸騒ぎを感じていた。

「この子たち、どこからきたのかしら」

 ともちゃんの目の前には、昨日までは見かけなかった数匹の猫がなにか物いいたげに佇んでいた。

 同じころ、鯖虎探偵社のビルの階段でも探偵がすこし困ったような顔をして立っていた。 足下には数匹の見かけない猫が佇んでいる。全員が鯖虎の顔を見上げて黙って座っていた。
 一番近い場所に陣取る華奢な三毛猫が、はぁーう、と鳴いた。それはため息に聞こえた。

 その日の夜、探偵社の事務所でソファにあぐらをかき、微妙な顔で耳かきをしていた針筵が、思い出したように口を開いた。

「そういや先生、なんだかおかしいんですよ。猫が」
「ん?そうだな、表の階段にも見慣れない猫が押しかけている」
「ともちゃん怖がってんですよ」
「怖い事ないだろ」

 耳から抜いた耳かきの先端をまじまじと観察しながら、針筵が応える。

「何か言いたげだっていうんすよねぇ」
「うーん、確かに……それはそうなんだよ」
「はぁ」
「確かに何か言いたげなんだよなぁ」

 鯖虎の耳の中に白猫のため息が蘇った。
 そして、溜息をつく猫たちの数は、その後も日を追うごとに増えていった。

9 大山の怪人

 数日後、異様な暑さのなか、針筵が息を切らして探偵事務所に駆け込んできた。
 ワイシャツの背中は汗でぴったりと背中にはりつき、脇の下からは汗のしずくがしたたろうとしている。
 ぜいぜい言いながら無言で冷蔵庫をあけ、オレンジジュースのパックをあけるとドボドボとグラスに注いだ。一気に飲み干すと、ふぅぅと大きな息をつく。ハンカチを胸元につっこんでゴシゴシこすりながら早口で報告した。

「先生、大山町のほら、税務署の裏あたり、高山さんが調べていたあたりなんですがね、かなりにおいますよ。いないんですよ、猫が… …」
「大山か」
「あの猫たち、あそこから逃げて来たにちがいないですぜ。行きますか、先生」
「よし」

 池袋駅、東武東上線のホームは暑かった。
 ここ二三日で急に気温を増した空気が、じっとしたままホームに充満している。 鯖虎と針筵は、ホームに滑りこんできた各駅停車に逃げこむようにして乗り込んだ。

 大山の駅前はコロッケ屋の油のにおいが漂っていた。
 ずいぶんと待たせる踏切の遮断機をそそくさとくぐって商店街へと入る。
 東洋一と言われる伝説の大商店街だ。百メートル歩くと餃子屋と焼き肉屋とそば屋が必ずある、餃子、焼き肉、そば、餃子、焼き肉、そば、そして3回転ごとに団子屋がはいる。
 やがて商店街の喧噪が静まってきた。
 文化会館のあたりから、すうっと空気が薄くなってくる。
 風景の色も薄くなり、どんな街にもうっすらと漂う「猫の気配」がすっかり消滅していた。池袋西口に集まってきている「ため息をつく猫たち」は多分ここから引っ越して来たのだ。中学校の校庭や近くの小さな公園は猫たちの格好の居場所だったはずだ。そこにも猫の影はまったく無かった。

「ちっ、ひでぇもんだ、老いぼれ猫一匹いやしない」
「これが糧無き土地というものだ」
「ほんとですねぇ、どうしたってんだ……」

 やがて二人は板橋税務署の前に到着した。
 板橋税務署の裏側一帯は工場地帯だ。スレート板で覆われ、油にまみれた工場が集積している。

 暗かった。
 冷たい風で土埃が舞い、その一帯だけが日差しを拒否しているようだった。 その中にひときわ目立つ建物があった。
 円錐形のタワー、5階建ビルほどの奇妙な形の工場だ。あたりには目を刺す臭気が濃厚に漂っている。
 工場の入口には「榊原歯車製作所」の煤けた看板がかかっている。
 ふと見ると、工場の敷地の中から薄茶色の埃っぽい子猫がよろよろと歩いてきて、鯖虎の足下でばったりと倒れた。鯖虎はその子猫をすばやく拾い上げ、慎重に内ポケットにいれた。
 針筵はうなった。

「うーむ、先生、こりゃひでぇことが起こりそうだ」

 あたりを覆う刺激臭に涙目になった鯖虎はハンカチで口と鼻を押さえている。

「…針筵君、今日はここまでだ」
「へい、長居は無用ですね、胸が苦しくなってきた」

 鯖虎は顔色を失っていた。冷たい汗が額を覆い、それはやがてぽたぽたと垂れてきた。

 榊原歯車製作所のワーの中の、薄暗い一室で監視モニターにかじりつく人影があった。
 この工場の主、天才歯車職人榊原文太だ。
 モニター画面には、立ち去っていく鯖虎と針筵の姿が映っている。

「ふんっ!どうせ借金取りか役所の回し者だ」 

 文太は苦々しげに鼻を鳴らし、監視モニターのスイッチを乱暴に切って立ち上がった。
 ビニールの健康サンダルをぺたぺたさせながらドアへ向かう。ぶ厚い鉄のドアが自動的に開いて彼はその奥の暗闇の中へ消えた。

 まっくらな地下室。
 文太の油にまみれた手が壁の電源レバーを押し上げる。
 地下室の天井に水銀灯が灯った。だだっぴろい床には、ずらりとおびただしい数のガラス瓶が並んでいる。その中では巨大な鶏の頭が成長を続けていた。もうほとんどの瓶で白い羽毛が生えそろい、ゆらーりと水中で揺れている。それは人間の頭部ほどの大きさの白色レグホンの頭だった。
 文太は、満足そうにそれらを眺めながら、ぺたぺた、ぺた、とサンダルをならして、部屋の隅の大きな木箱に向かった。

 高さ2メートルほどの油の染みこんだ木箱には幾重にも鎖が巻かれている。
 文太の手が、それををほどいていく。
 じゃらりじゃらり、じゃらり、鎖が床に重たいとぐろを巻いていった。
 箱の中から、何か動物の荒い息遣いと、小刻みに動くサーボモーターの音が聞こえてきた。

10 薄茶色の子猫

 北池袋の獣医、カズ動物病院の入り口で針筵が所在なさげにたたずんでいた。ポケットからつまらなそうにラークマイルドを取り出して火を付けた。
 鯖虎と針筵は、税務署前で救出された子猫を獣医につれてきたのだった。
針筵は獣医も含め病院というものと相性が悪い。さきほども鯖虎と子猫を受付で中に送り込むと、じゃ、まってますんで、と言い残してそうそうに出てきたのだった。

 診察室ではうす茶色の子猫が虫の息だった。
 つきそう鯖虎の瞳はいつもより丸い。
 その傍らで金髪モヒカン頭の獣医師がものすごい勢いで仕事をしている。

「あー、シュビっときて、ビシってね」
「だめかな」
「いやー、そうとう……」
「やっぱり、何かの中毒か?」
「んー、こりゃ……」

 モヒカンをつっぱらかした若い獣医師の手は、そのトンマな受け答えとは裏腹に、超人的なスピードで点滴の準備をし、適切な薬品を選んでいく。
 繊細な指先でチューブを伸ばし、点滴の針を子猫の腕にそっと刺してから、うーんとうなった。

「うーんって、どうなんだ?」
「うーん、生きてますね、とりあえず、こりゃ」
「みりゃわかるよ」
「それがそうでもないんすよ。見た目生きてるっていっても、命があと1ミリだったら死んでるのとおんなじっすから」
「なんだ、それは」
「でもこれ、10センチはあるから、なんとかすなるかもっす」
「たのむ」

 この医師は命の長さをセンチとミリでいうのでわかりやすい。

「明日のあさ15センチになってたら大丈夫っすから」

 子猫をモヒカン獣医に託した鯖虎と針筵は、池袋西口商店街を歩いていた。

 そろそろ日が暮れかけている。
 西日を顔の片側に受けながら煤けた暖簾をくぐる。
 やきとん「串八」のカウンターの向こうからいい匂いと湿った煙がただよってきた。かまどの上で新鮮なレバーが踊っている。ふと見るとカウンターに見知った顔があった。

「よ、ともちゃん」
「あ、先生、マスター」
「晩ご飯?」
「うん、今日お店休みだし、たまには肉くうぞ!ってわけでして」
「うちの店には、カシューナッツとキスチョコしかないからね」

 鯖虎はふっと笑った。

「マスター、ホッピー」
「ふたつ」
「あたし、子袋、タレでね」
「あと、串もり塩でふたつ」

 この店のカウンターに並ぶ12個の椅子の最後の3つには、それぞれ年老いた雌猫が1匹づつ陣取っている。
 3匹とも尻尾の無いさび猫だ。ひがな一日それぞれの椅子に丸くなって眠っている。名前を一匹が幸、もう一匹を福、最後を祝と言ったが、まったく同じ顔、同じ錆び色なので、区別のつく者は誰一人としていなかった。この猫たちがいったい何歳なのかも、はっきりわからない。今の60がらみの店主が、25際で婿養子に入ったときには、すでにこの椅子に居たという話だから、それが本当なら大変な高齢だ。3匹のさび猫はいつまで見ていてもまったく動かないが、客の注文の声が聞こえると耳だけがかすかに反応する。この店には伝票がなく、客がそれぞれ自己申告でお金をはらって帰るしくみだが、ごまかす不届き者は一人もいなかった。というのも、客が勘定をごまかすと、この3匹のさび猫がたちまち目を覚まし、音もなく後をつけてくるのだという。どこまでもどこまでも、だまって後をつけてくるらしい。そのうちに食い逃げ野郎は全身がだるくなり、腰が抜けてしまうという。そして運良く回復したとしても口がきけなくなってしまうのだ。

 モヒカン獣医のもとで生死をさまよっている薄茶色の子猫は、もし生きて帰ってきたらともちゃんが引き取ることになった。
 ホッピーとモツ焼きを堪能した三人は、4280円を払って店をあとにした。幸い、猫が眼を覚ますことはなかった。

11 ふくろジャーナル

 桃子は、二階の勉強部屋で寝っ転がりながら、「平次御馳走帖」という17才の少女にはあまり似つかわしくない時代劇漫画の1巻目を読み終え、明日はテストだというのに教科書を開きもせず、2巻目を鞄から取り出して表紙を開けようとした。そのとき、携帯電話にメールが着信した。

 桃子は、ひとめで父のお下がりとわかるシャンパンゴールド色のオヤジ臭い携帯電話をパカっとあけると微笑んだ。
「ともおばちゃんからだ」
 メールを表示すると、そこには、猫の絵文字とこんな文面が。

「ねこ、ゆずってもらう、たぶん、ぐふふふ」

 彼女は、ボブテールのともちゃんの姪っ子なのだ。
 桃子はそれを読んで起き上がった。

「へえ、ついに、ともおばちゃんも」

 桃子は、携帯をひらいたままぶらぶらさせながら、階下に降りていった。

「ねえ、おかあさん、ともおばちゃんね」

 階下では、ちゃぶ台の前で、桃子の父、高山六郎と母の恒子が、何かもじゃもじゃした、一抱えもある灰色の毛のかたまりと格闘していた。

「こら、おとなしくするのよ!」
「ダン吉、お前のためだ、じっとしてろ!」

 ダン吉は、ヒマラヤンの雑種で、この家の猫だ。

「なごー」

 恒子の手に、猫用爪切りがキラリと光った。

 それをみて、ダン吉は、恐怖のあまり、だだだだっと眼にも止まらぬ速さで猫キックの連打を繰り出した。二本の足が、あまりのスピードにぶれて百本ぐらいにみえる。
 恒子の爪切りがさささ.っと流れるように動く。その間に、かすかなパチンパチンという音が聞こえたようだった。
 ものの数秒間、ダン吉の四肢の爪は正確に2ミリ切られ、切り取られた爪がスローモーションのようにキラキラと宙を舞った。

 六郎はあっけにとられた。

「恒子、お前すげえな」
「ふっ…...」
「ダン吉のキックもいつのまに、こんなに速く…...」

 桃子がタタン、と階段を降りた。
 入れ違いに、耳をすっかり後ろに倒したダン吉が、ダカダカ音をさせながら二階に逃げていった。

「つまり、それはある種の、共進化のたまものね。追うものはより速く、逃げるものはさらに速く、そして追うものは、もっと速く、こうしてチーターの俊足が生まれたのです」
「なーに小賢しいこと言ってんのよ、ばかばかしい」
「それより、ともおばちゃん、とうとう猫飼うらしいわよ」
「あらそう、それはよかったじゃない。心配してたのよ」
「まあなあ、家に猫もいないようじゃ、いろいろと心配だからな、よかったじゃないか」

 そう言って六郎はちゃぶ台の上の灰皿をひきよせた。老眼鏡をちょこんと鼻に乗せ、ハイライトを咥えると、ふくろジャーナル来週号のゲラを読み始めた。
 その原稿には、大山町の大気汚染の事がかかれていた。
 大山町付近の亜硫酸ガスの濃度が異常に高まって、すでに子どもの健康被害もでている。

「やっぱり、ぶっそうな感じなんだよな.、大山のこれ」

 桃子も背後から覗き見る。

「これ、臭うよ。なんか、鯖虎系のニオイだよ」
「ん?そうだな、やっぱりそう思うか。例のロボットの噂も気になるしな。それに、例の親子の葬式に、探偵来てたぞ」
「やっぱり。ますます臭うよ、プンプンするよ」
「そうだな、こりゃ忙しくなるな」

 六郎の鼻の穴が広がった。
 ふくろジャーナルはほとんどが直販。売れると利幅が大きいのだ。
 ふくろジャーナルが、過去もっとも売れたのは、鯖虎探偵が解明したカルト教団による集団自殺事件の詳細報告号だった。

「二匹目どころか、どじょう100匹狙うぞ.!」
「鯖虎さまさまぁ!」

12 怪物の復活

 板橋税務署裏の円錐形タワーからは、ますます黒いガスが発散されて、あたりを暗くしている。ガスばかりではない、何かあやしい妖気のようなものまで漂いでているようなのだ。
 工場の煙突という煙突に、スレートの屋根という屋根に、トタンの塀という塀に、黒光りする無数の烏がとまってじっと何かが起こるのを待っている。

 榊原文太の、レグホン培養作戦は順調だった。床に並べられた瓶の中では、無数の鶏の頭が育っていた。ガラス瓶のひとつひとつからは、細いダクトが伸びていて、部屋の隅の小規模なプラントへ接続されている。プラントの目立つ位置に手製の看板がぶら下がっていた。そこには「鋼の嘴プロセス」の文字が読めた。
 培養した鶏の嘴をより強くするために、文太はある特殊な工程を開発していたのだ。特殊な二種類のガスを、新開発の触媒を使って反応させ、培養液に送り込む。するとその作用で嘴の微細構造がハニカム状になり、強度が数十倍になるのだ。その工程の最終生成物が、大山の街を覆う亜硫酸ガスだった。

 タワーの地下室で、文太がカップ酒を手に誰かと話しをしていた。
 木箱の鎖が解かれ、立てかけた棺桶のように前面が開いている。
 箱の中に収まったその会話の相手は、異様な生き物だった。ピカピカ光る真新しい金属でできたロボットの体に、大きなにわとりの頭が乗っかっている。白色レグホンロボットだ。
 その頭は紛れもなく、鯖虎探偵がマドリードで戦った殺人鬼、オ・ラ・レグホンだった。

 文太が、ちょっと心配そうな声で言った。

「本当に大丈夫なんだよな、俺の復讐は」

 レグホンロボットはガラガラと耳障りな音を発した。

「心配するな。俺の言うとおりやればお前の復讐は成功する」
「ところで、こないだ、あんたが殺ったあの男と女は誰なんだ?」
「ははは、さぁ、誰だったかな。よく憶えていない。ひょっとしたら、妻と息子だったかもしれんな。しかし、そんな事はもうどうでもいい。俺のくちばしの力がまだ失われていないことを確認したかっただけだ。それより、急げ。早く体制を整えろ」
「レグホン軍の蜂起」
「そうだ、レグホン軍だ。俺の分身が隊を成して進撃するんだ。そして破壊する。街と人々の幸せをな」
「俺の復復讐……」

「そうだ。"俺とお前の復讐だ…世界が憎い……」

 レグホンは頭の中で言葉の続きを思った。私は3人目の犠牲者が欲しい。鯖虎キ次郎、お前の命はもう風前の灯火だ。

 一年程前、精密機械加工を極めた文太は、新しい、刺激的な技術を求めて、生物機構に興味を持ち始めた。
 独学で学べば学ぶほど、ナノスケールのタンパク質部品が作り出す精巧なシステムの魅力に囚われていった。
 インターネットで手頃な強い細胞株を探していた文太に、あるスペインのディーラーが販売しているキットが目にとまった。まぎれもない人体の細胞だが、魅力的なオプションがついていたのだ。口に鋼鉄のくちばしを持った人体。
 文太の頭の中で、すぐにアイディアが形になっていった。そいつを手に入れ、文太のロボットと合体させ、復讐を成し遂げたい。アイディアだけを盗んでいくあいつらに、毎年毎年値段を下げてくるあいつらに、俺の腕を尊敬しないあいつらに。池袋を火の海にして思い知らせてやる。文太はその細胞を購入し、培養をはじめた。
 そして、その最初の一つがこの目の前にいる怪物、レグホンロボットになった。
 怪物を前に、文太は切り出した。

「レグホン、あんたの軍団には、もう一つシステムが必要だ」
「なんだ?」
「それは……」
「なんだ、それは?」
「それは、飛翔システム」
「飛翔システム?はっはっは、傑作だ。もとの俺にさえ出来なかった、空飛ぶ力をくれるのか?お前は天才だ。文太、天才だよ、早く、早く作ってくれ、俺は空を飛びたい、あの邪悪な烏どものようにな」
「災いは、空から降ってきたほうがかっこいいです」

 そもそも、製造業はきびしい状態が続いています。仕事も安いです。しかし一番堪えるのは、世間の尊敬がこれっぽっちも得られないということです。この眼で、この手でミクロン単位の精度をたたき出す、この俺の技術を誰も認めようとしないです。世の中にあって当たり前の歯車をつくる、油まみれのおっちゃん、それが俺です。俺たちがいなかったら、原発から放射能が漏れだし、電車は脱線し、湯沸かしひとつまともに動きはしないのに。もうたくさんです。俺の技術をすべてつぎ込んで復讐してやります。俺の技術の前に、世間をひれ伏させてやるんです。イッツ・ショータイムだどー。

13 モールス信号

 池袋西口の商店街をつっと入った住宅地にある、小さな一軒家。
 かつては手入れの行き届いたイギリス風の庭であった事がみてとれるが、今では、蔓バラが生い茂る草むらのようになっている。
 ドアが開いて、茂吉さんが出てきた。先ほどこの家のポストに郵便物を投げ入れた郵便配達人の音が聞こえたらしい。黒眼鏡をひくひくいわせながら、白い杖をつきつき、郵便受けに向かっていく。
 白髪まじりの頭をかき回し、慣れた手順で蔦のからまった郵便受けの扉をあけると、中から届いたばかりのA4封筒を取り出した。
 黒眼鏡の奥で見えない眼がにっこりと笑みを作った。愛用の白い杖を再びコトコト動かしながら、そそくさとリビングに戻っていった。

 テーブルにつくと、封筒をびりりと破る。
 その音を聞きつけ、シャム猫のミッキーがやってくる。
 茂吉さんは、封筒から「ふくろジャーナル」を取り出すと、テーブルの上に置いた。
 ふわっと音もなく床から飛び上がったミッキーは、すたんとテーブルに着地し、冊子の脇でぴたりと姿勢を正した。

「さあ、ミッキー頼むよ」

 茂吉さんは表紙をあけると、ミッキーの尻尾の先を手のひらにのせた。

「みー」

 ミッキーはそう高く鳴いて、尻尾の先を茂吉さんの手のひらにぽんぽん、つー、ぽんぽん、とうちうつける。
 ミッキーは、冊子の文字を読み取り、それを尻尾を使ったモールス信号で茂吉さんに読んできかせているのだ。茂吉さんは、うんうんと頷きながら手のひらに集中する。

 ひとしきり、ぽんぽんしていたミッキーの尻尾が、今度はすっすっと茂吉さんの手のひらをなでる。

「よし」

 茂吉さんは無精髭をじょりじょりこすると、ページをめくった。ふくろジャーナルの第一特集は、例の大山の毒ガス事件だった。

 主筆、高山六郎の文章は、いつになく強い口調になっている。

 行政の再三の注意にもかかわらず、毒ガスの発生源である工場経営者はだんまりを決め込み、その要塞のような建物にこもったきりである。幸い、現在ガスの濃度は一時期ほどではなくなっているが、確かにまだ発散は続いており、継続的な監視が必要だ。
 さらに、この工場周辺では怪しい二足歩行ロボットの目撃が相次ぎ、板橋区志村、豊島区の雑司が谷付近でも目撃されている。この2地点では連続殺人事件も起きており、なにやら不気味な展開が予想される。
 これらについては、かの鯖虎探偵社の鯖虎キ次郎氏もおおいに興味を示し、独自の調査を始めている模様である。

「鯖虎探偵が出張ってる……こりゃ大変事になりそうだ」

 茂吉さんは不安な面持ちで、ミッキーを膝に抱いた。

「今夜から、非常持ち出し袋を枕元に置いて寝よう……」

14 スクラップ

 大山のタワー、榊原歯車製作所の屋上で、榊原文太は一人、神妙な顔で牛乳瓶の底眼鏡をずず、と上げた。
 クリーニングしたばかりで糊のきいた作業服、ピカピカに磨かれた安全靴。作業用の帽子を目深に被っている。榊原の正装だった。

「これより、α型ロボットの飛翔性能に関する実証実験を行います、です」

 そう宣言したものの、その場にいるのは榊原一人。孤独な正念場だった。
 彼の目の前には、棺桶ほどの鉄製の箱が2つあった。

「羽の形状の異なる二種のロボットを飛翔させ、その性能を評価し、優秀な方を量産型と位置づけ、製造に入ります、です」

 榊原は、手にしたリモコンボックスのボタンを押した。
 2つの鉄製の箱の上部が開き、それぞれ翼を持った等身大のロボットが飛び出してきた。頭の位置には立体視用の2台のカメラが取り付けられている。キュイーン、キュー……ターボモーターの賑やかな音が鳴り響いて、2台のロボットは羽ばたきを始めた。

 シャキッ、シャキッ、シャキシャキシャキ……。
 2台のロボットは空中へ飛び立った。

「では、シーケンスAを実行します」

 榊原がリモコンのボタンを押す。

 2台のロボットは、旋回しながら上空へと浮かんでいった。
 榊原がスイッチを切り替えるたびに、ロボット達は、旋回し、ホバリングし、急降下して急上昇した。その姿は、次第に暮れていく赤い日差しに照らされて、仲良しの二匹のコウモリのように見えた。
 そのとき、周囲の工場のスレート板がバタバタと鳴りはじめ、ひんやりとした風が吹いてきた。旋回しながら降下していたロボットたちが、風に煽られてバランスを崩した。もがきながら落下していく2匹のロボット……しかし、一匹は屋上の床すれすれで飛び上がり、上空でホバリングを始めた。もう一匹はあえなく墜落して、クシャ、という意外に軽い音ともに大破した。

 その様子を無表情に見つめていた榊原、もう一度リモコンのボタンを押すと、壊れたロボットに近づいた。片方の翼は風に吹き飛ばされたのか、そこには見当たらない。安全靴で残された翼を踏みつけると、文太は呟いた。

「お前の負けだ」

 残ったロボットがシャキシャキと翼の音をさせながら屋上へと降りてくる。

 榊原は、降り立ったロボットの翼をチェックした。大丈夫だ、強度も十分だ。

「おめでとう、君の優勝だ。量産を許す」

 榊原の唾に濡れた唇が、バナナのような形に歪んだ。

 あははあ、俺は久しぶりに笑っている。はぁはぁはぁ……。
 息が弾んで、鼻水がつーっと垂れてきた。


「これで製造にはいれるです……工程表通りだ、あはは」

15 二人の忍者

 月明かりのなか、大山商店街にすばしこく動く2つの人影があった。

 ひとつは長身、一つは丸い。鯖虎探偵と針筵助手だ。ふたりとも忍者の装束に身を包み、音もなく商店の屋根を、雑居ビルの壁面を移動していく。顔面にはものものしい防毒マスクをつけている。鯖虎の祖先は甲賀の者だというし、本当かどうかはわからないが針筵の祖先は風魔の出の者だということになっている。だから二人は潜入捜査は忍者装束と決めていた。

 やがて二つの影は、板橋税務署裏の、例のタワーに到着した。
 二人はタワーのスレート葺きの壁面をするすると上っていく。
 針筵は壁面に手頃な通気口を見つけると鯖虎に合図した。そして、背中にしょった袋からなにやら筒のようなものを取りだした。鯖虎は、その筒を受け取ると通気口に差し込み、慎重に振りはじめた。筒の先からは、きらきらひかる紙吹雪のようなものが漂い出し、通気口の空気の流れにさからって、建物の中へと入っていった。
 それは、超小型カメラにヘリコプターのような微細な羽をつけた、マイクロ監視ロボットの群れだった。無言で仕事を終えた二人は、また音もなく壁面を走り去った。

16 タワーの内部

「なんだかヤバいですぜ、先生」
「なんなんだ、これは……」

 鯖虎探偵社の事務所で鯖虎と針筵は頭をかかえていた。
 目の前のモニターに次々に奇怪なものが映し出されていた。鯖虎が例の大山のタワー内部に放ったマイクロ監視ロボットから、刻々と映像が送られて来ているのだ。その映像の異様さに、二人は言葉を失った。
 一つ目のモニターには工場にずらりとならんだ二足歩行のロボットが映し出されている。それらはどれも背中に、金属製の、まるで悪魔を思わせる翼がついている。頭部には何もなくシリコン製と思われるチューブの束が刷毛のように飛び出していた。
 二つ目のモニターでは、風洞装置の中につり下げられたロボットがものすごいスピードで羽ばたきをくりかえしている。

「強度試験だ」
「金属製の悪魔ですぜ、こりゃ」

 3つ目のモニターには、薄暗い部屋の中に並んだおびただしいガラス瓶が映し出されていた。

「何が入ってるんでしょうね」
「もう少しアップにしてみよう」

 鯖虎がコントローラーを操る。カメラはふわっと浮き上がり、ガラス瓶の一つに近づいていった。
 カメラのピントが一瞬揺れ、再び鮮明さを取り戻すと、そのモニターには、鯖虎がもっとも見たくないものが姿を現した。

「これは、レグホンだ、マドリードの殺人鬼、オ・ラ・レグホンの頭だ!」
「なんじゃコラ、こんなにたくさん……」
「培養されたんだ……。このタワーで一体何が……!」

 その時、画面の中の白色レグホンが、カメラをギロリと見据え、笑ったように見えた。

 ふーっ!ダイニングの暗闇に姿を隠したとめきちの威嚇音がした。
 暗闇から、巨大猫が光る両眼でモニターを見つめ、背中の毛を逆立てている。

17 祭りの日

 その日、大山の街は、おおいに賑わっていた。板橋区の農業祭だ。
 先日まで大山界隈を騒がせていた亜硫酸ガスもこのところほとんど検出されていない。
 露天でジャンボウインナーを買ってもらった子供が大はしゃぎで風のような速さで走り去っていく。足の悪いおばあさんが、区内でとれた化け物みたいなレモンを買い物袋一杯に詰め込んで、ぎこんばったんと嬉しそうに通り過ぎる。大通りを神輿が練り歩いていく。わっしょいわっしょい。江戸から伝わる鉄砲隊も列をなして歩いて行った。

 そんな中、周囲の人々とはまた違ったテンポで歩く二人組がいた。鯖虎探偵と針筵助手だ。ゆっくりと通りを渡ると、上を見上げる。その視線の先には、榊原の工場タワーがあった。
 タワーは、しんと不気味に静まり返っていた。

「妙だな」
「へい、あの嫌な匂いもすっかり消えてますね」
「何かしでかすなら、今日は絶好のタイミングのはずなんだが」
「そうですね……」

 露天が並ぶ広場には、またべつの二人組がいた。

「桃子、どうだ濃度は?」

 ふくろジャーナルの高山六郎が、タブレットPCを覗きこむ娘の桃子に尋ねる。

「編集長、亜硫酸ガス、ほとんど検出されません」
「そうか、見込み違いだったか」

 桃子はパパイヤのソフトクリームをぺろっと舐めて、PCの電源を切った。

「こう、祭りの賑わいの中でさ、いたいけな子供がさ、5,6人、いや、この際2,30人さ、毒ガスでばたばたーっと倒れているところなんざ、絵になるんだがなあ」
「父さん、これじゃ、普通のお祭りの絵しかとれないよ」
「こら、仕事中には……」
「はい、編集長、このままでは、クソみたいな普通の絵しかとれません」

 桃子は、バッグから愛用のカメラを取り出して、ファインダーを覗いた。ぐるっと体を回して、周辺の絵を切ってみるが、区の広報誌に載っているような退屈なイベント風景が見えるだけだった。

「なんとかなんねえかなあ、この際、オレが毒ガス捲くか」
「コラ、編集長、それやばくないっすか」
「それくらいガッカリだってことだよ」

 カメラのファインダーを覗いていた桃子が、「おっ」と声をあげた。

「なんだ?」
「鯖虎探偵が来てる」
「ん?」

 桃子のファインダーの中に、広場の入口で佇む鯖虎と針筵の姿があった。

「ほう、そら、今日は収穫ゼロでもなさそうだな」

 30分後、大山駅前の純喫茶エリーで、高山親子と鯖虎、針筵の4人はレモンスカッシュやらコーラやらを囲んで座っていた。

「鯖虎探偵、いったい、何を掴んでるんです?」
「うーむ……私にもまだよくわからんのだが、何か悪いことが進行中であることは確からしい」
「悪い事?」

 鯖虎探偵は、マドリードでの殺人鬼との決戦、そして山田親子はその殺人鬼の妻と息子であったこと、そして、あの税務署裏のタワーで密かに行われているおぞましい実験について語った。

「なんだかわけの分からない話ですね……、山田親子の死、毒ガス、殺人ロボット……ともかくすべての事象があの税務署裏の工場に結びついているということですか」
「そして、あの工場では、大量のロボットが作られようとしている」
「…!ロボットの群?」
「いや、群れというよりは、軍といったほうがいいかもしれない」
「このことは警部には?」
「まだだ。このところ連絡がとれないんだ。彼は彼でなにか掴んでいるかもしれない」

 喫茶店の前を、神輿が通り過ぎていく。
 わっしょい、わっしょい!晴れやかな掛け声が遠ざかっていった。

18 翼

 そのころ、瑣末警部は科捜研にいた。
 目の前のステンレスのテーブルの上に、銀色に光る翼のようなものが横たわっている。
 ボール状の基部に取り付けられた薄い金属片が、扇状に広がっている。全体としてはコウモリの羽のような形に見えた。基部からは、何本ものリード線が飛び出し、その先端は引きちぎられたようになっていた。
 痩せた研究員が、興奮した面持ちであちこち点検している。

「これは、スゴイ……」
 
 大東文化大学の女子学生が、川越街道の歩道に落ちていたこの物体を拾い、交番に届け出たのだった。

「警部、これはすごいですよ。こんなものが道端に落ちてるなんて、日本って国は……」
「これは何かの翼か?」
「確かにこれは翼ですね。こんなに軽量で、複雑な制御のできる機構を作るのはまさに神業ですよ。おそらく、このボール状の基部に、羽ばたきさせるための別の機構がついていたにちがいない」

 工学部出身の研究員は、翼から飛び出したケーブルに、電極クリップを取り付けた。彼がPCを操作すると、翼のいたるところに取り付けられた超小型のモーターが動き、翼の形状がいきもののように変化した。

 研究員は、しばらくその様子に見とれていたが、ふと気づいて報告書に目を通した。

「しかし、警部、志村と雑司が谷で目撃されたロボットには、翼の記載はありませんね。二本足で歩いていたということですが、この翼、関係あるんでしょうか」
「なんとも言えんな。まったく無関係かもしれないが、二足歩行の殺人ロボットが、今度は空を飛ぶ力を身につけようとしているのだとしたら……えらいことだ」
「空飛ぶ殺人ロボット?」

 ふう、と瑣末は暗い溜息をついた。

19 池袋の惨劇

 週末の夜、池袋。うかれた人々が行き交い、酔っ払いたちが発散する熱が、街全体をすっぽり包み込んでいる。
 湿っぽい風が吹いていた。予報によると台風が近づいているらしい。
 天空にはおぼろな月があった。

 そんな池袋上空を、群れをなして飛んでいく銀色の動物の群れがあった。
 頭は鶏、体は銀色に輝くロボットだ。コウモリのような金属製の羽を羽ばたかせ、数十匹が飛んでいく。シャキッシャキッシャキ……。羽ばたきの音は、まるで包丁を研いでいるような不吉な音だった。規則正しく、精巧に、非情に、シャキッシャキッシャキ.……。
 ロボットの群れは池袋東口の交差点を目指していた。眼下に賑やかなネオンがまたたき、車のヘッドライトがうごめいている。
 ロボットの一匹がさっと急降下して、道を歩いていた若いOLをさらって上空へと舞い上がった。それを合図にレグホンロボットたちは次々に急降下をはじめ、手当たり次第に獲物をさらって上空へと舞い上がる。シャキシャキシャキシャキ……。
 恐怖軍隊の来襲に、池袋東口はたちまちパニックに陥った。

 飛翔ロボットに捕まった通行人は、空中でたちまち鋭いくちばしの犠牲になった。
 頭の後ろを一瞬の内にくちばしで破壊され、ぴゅーっと鮮血を垂らしながら、遺体となって池袋西口へと運ばれていった。池袋の駅ビル屋上は、ペンキをぶちまけたように真っ赤に染まった。そして犠牲者たちは、上空から西口公園へ投げ捨てられた。あとからあとから遺体が落ちてきて、どさっ、ぼきっ、ぐちゃっという音がひっきりなしに鳴り続いた。
 空中から降ってくる遺体は、公園の真ん中に小さな山になって積もった。

 公園をねじろにする猫たちは、我先に逃げ出して、西口商店街の入り口あたりに固まり、だまって惨状をみつめていた。どの猫も背中の毛が逆立ち、小刻みに震えている。
 商店街のアーチに上って公園を見つめていた一匹の痩せ猫が、ついに耐えきれずに鳴き始める。すると恐怖が伝染して猫たちは口々に落ち着かない声で鳴き始めた。池袋西口は血の臭いと不安な猫たちの声につつまれた。アーオ、アーオ、ナーオ、ナーオ……。

 警察が到着するころには、池袋西口公園に数百体の遺体が積み上がり、じゅくじゅくとした血が池のように広がっていた。それは悪夢の光景だった。
 飛来したたくさんのレグホンロボットたちはいずこへともなく消えていた。

 事務所でシャワーをあびていた鯖虎探偵は、不吉な予感を感じて、早々に着替えをすませた。
 街がなんだかが騒々しい。パトカーや救急車のサイレンがけたたましく鳴っていた。

 ドアをあけて外に出てみると、足元に大山からやってきたため息をつく三毛猫が座って鯖虎をまっすぐ見上げていた。
 おびただしい数の猫の鳴き声も喧噪にまじって聞こえてくる。
 鯖虎は、ため息猫を抱き上げると階段を下りていった。

 商店街を抜けていくと、西口公園が見えてくる。
 公園の廻りは不吉な祭りのようだった。公園の真ん中には小山のように積もった遺体。
 パトカーと救急車が幾台も公園を取り囲み、赤いランプで凄惨な風景をチカチカさせている。
 腕の中の猫がウゥゥ、と低く唸った。
 地面に激突した被害者たちは何が起こったのか全くわからないままに、惚けたように口を開け、眼を見開いていた。
 行き来する警察官の中に、鯖虎は瑣末警部の姿を見つけた。

「些末警部!」
「あぁ、鯖虎探偵」
「どうした事だ?これは……」
「羽の生えたロボットが大挙してやってきて、東口の通行人を襲い、遺体をここに捨てたっていうんだが……信じられるか?」
「なんだって?……些末警部、ちょっと一緒に来てくれ」

 鯖虎は、些末警部を伴って事務所へと戻った。そして、例の大山のタワーの映像を見せた。

「こ、これは……」

 些末警部は携帯電話を取り出すと部下を呼び出した。

「私だ、些末だ。大山に急行しろ、板橋税務署の裏だ。殺人ロボットのアジトがそこにある。急げ」

応答する部下の高揚した声が漏れ聞こえてくる。

「了解……あっ」

 電話の向こうの声が緊張した。

「どうした!」
「あれ??死体の山の上に、テレビ?なんだ?」

 鯖虎探偵と些末警部が西口公園に戻ってみると、異様な光景が展開されていた。

 遺体の山の頂上に液晶モニターが突き出ている。遺体の山の上からテレビモニターが生えてきたかのようだった。
 画面の中に一瞬ノイズがはしると、そこに一人の男の顔が現れた。無精髭を生やした四角い顔に牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけている。天才歯車職人、榊原文太だ。

「ウッシッシッシッシッシッシ!イッツショータイムだどー」

 感極まった彼の目から大粒の涙がぼとぼとこぼれ落ちた。

「み、みなさん、これは、復讐だぁ!俺の歯車は、一個55円20銭じゃねぇ… …です。俺の天才料金が込みで1億円だぁ、お前らは間違っている
…です!俺の歯車は俺の魂だ。それなのに……それなのに……」

 些末警部は唖然としてつぶやいた。

「なんなんだ?これは」

 鯖虎の内ポケットで携帯電が鳴った。

「鯖虎だ」

 電話してきたのは針筵だった。

「先生、サンシャインビルの屋上です。やつですよ、タワーの男だ」
「よし、すぐに行く」

20 屋上の対決

 サンシャインビルの屋上に、一人の男がうずくまっていた。
 自分でセッティングした小さなカメラに向かって、涙を流しながら笑っている。はぁはぁはぁ、呼吸数も心拍数も最高潮だ。呼吸の度に、ふいごのように鼻が鳴った。
 そして、給水塔の影からそれを覗き見るこんもりした人影があった。針筵助手だ。
 そこに長身の影が音もなく近づいた。

「あ、先生、あれ、ほら」
「うむ」
「大山のほうはどうです?」
「些末警部に頼んだ」
「そりゃ安心ですね」
「うむ」

 鯖虎は、懐から携帯サーチライトを取り出すと、男にむけて光を放った。

「大山の怪人!そこまでだ」

 背後から光を浴びた文太は、ふっと我にかえって振り向いた。

「ぐおぉお、誰ですか、お前は誰、誰ですか」
「私は鯖虎キ次郎。君の毒ガスにやられた子猫の保護者だ」
「薄汚ねぇ猫なんかっ猫なんかっ!俺の邪魔をするやつは許さんですー」

 文太の体の周りから、どす黒いガスが漂ってきてあたりを覆った。

「なんです?あの黒いのは」
「おそらく自分の体の細胞に改造を加えて毒ガスを発散しているんだろう。怖ろしいやつだ」

 その時、文太の眼が見開かれた。

「あぅ、思い出したぞ。俺のタワーを偵察していたやつだな。重要なのでまた言いますが、邪魔をするやつは許さん、です」

 文太は大きく息を吸った。
 すきっ歯から、勢いよく空気が吸い込まれていった。しゅぅううううっ!

「食らえですー!」

 両手を筒のようにして口にあて、鋭く息を吹いた。
 すると、文太の口から黒い毒ガスが勢い良く飛び出し、輪っかになって鯖虎に向かってきた。
 針筵が叫んだ。

「危ない!」

 みるみる鯖虎にせまる毒ガスの輪。
 しかし、それは寸でのところで砕け散った。
 いつの間にか、鯖虎の背後にいくつもの光る眼があった。鬼子母神の猫たちが鯖虎の危機を察して駆けつけたのだ。
 猫たちは、聞こえるか聞こえないかの低い唸り声を発している。猫たちの発する波動が複雑に絡み合い、探偵と助手の周囲に音波のバリアーを作っていたのだ。文太はうめいた。

「うー、クソ猫どもめ!」

 鬼子母神の猫たちは微動だにせず、二人の背後に整列している。そのまん丸な瞳が文太の瞳をまっすぐに見つめている。

「もうやめなさい、榊原さん」
「ふん、やめるものか、こうなったら……」

 文太は、ポケットから黒い箱を取り出し、その箱を高々と掲げた。

「これは地獄の小箱だ。俺が、この天才職人さまが、丹精込めてお作りした、最終兵器の起動スイッチだぁ」
「やめろ、榊原文太!君の気持ちは解る」
「何がわかるってんだぁ!」

 猫たちのうなり声が少し高くなった。波動が文太の周囲に集まり出す。今度は、文太の体の周囲にバリアが形作られていった。

「地獄を見せてやる!」

 裏返った声で文太は叫んだ。

「超破壊巨神マスターレグホン、起動!」

 興奮した文太の体から一層の毒ガスが発散された。しかし、その毒ガスは猫たちのバリアーによって閉じこめられ、文太の体を包んでいった。

「うううぅ」

 文太は自分の毒ガスで自家中毒に陥り、気を失った。

 しかし気を失う刹那、文太の油まみれの太い指が箱の赤いスイッチを押していた。
 文太の唇がみるみるどす黒くなり、顔がぱんぱんに腫れ上がっていく。

「起動ぅううう」

 文太の叫びがかすれながら消えていく。文太の口は勝利の笑みを浮かべていた。
 鯖虎が叫んだ。

「しまった!スイッチが押されている」

 一瞬の静寂が訪れた。
 しばらくして、遠くの方からズシン、ズシン、という、巨大な「何か」がやってくる音が響いてきた。
 鯖虎の瞳孔が丸く見開かれた。

「大山のほうだ……」

21 破壊神

 大山の板橋税務署の裏で、些末警部の一隊は信じられない光景を眼にしていた。
 自らが包囲している榊原文太の工場タワーが、巨大なロボットになって立ち上がったのだ。
 タワーの下部に二本の足が生え、タワーの頂上からは幾本ものチューブが伸び、その一本一本の先に巨大な鶏の頭がついて「ケェーッ、ケェーッ」と奇声を発している。
 チューブの束の中心からはひときわ太い真っ赤なホースが空中に飛び出している。その先端には、オ・ラ・レグホンの頭がついていた。
 レグホンは、激しくヘッドバンキングしながら、何か呪いのような言葉を叫んでいる。
 まるで気の狂った人間が書いたキングギドラの落書きのようだった。

「なんなんだ、これは……!」

 これが、文太の「マスターレグホン」だった。
 マスターレグホンは、パトカーと警官たちをヒステリックに蹴散らし、川越街道を池袋方面へと向かった。ズシン、ズシン、その歩みは、街道沿いの住民を恐怖のどん底へと突き落とした。
 些末警部はどす黒い唇の間からつぶやいた。

「いったい……俺はどんな気違いの夢の中にいるんだ」

 猛スピードで走ってきた機動隊車が川越街道の真ん中に急停車した。中から姿を現したのは鯖虎探偵と針むしろ助手だ。
 鯖虎の手には特大のペットキャリーバッグがぶら下げられている。
 その中からドスをきかせた猫の声が聞こえてきた。

「んなーうー!」

 それは、興奮しきった、とめきちの声だった。

 やがて街道を覆う煙の中から、マスターレグホンが姿を現した。
 ガクガクと頭を振りながら真っ赤なホースの先端で猛り狂っているオ・ラ・レグホン。
 やがてその眼が鯖虎の姿を捉えた。

「見つけたぞ、鯖虎キ次郎。まっていろ、俺のくちばしですぐにあの世へ送ってやる」

 鯖虎は、キャリーバッグの扉を開けた。
 どかどかどかっ。重い音をさせながら鯖虎の愛猫、とめきちが姿を現した。

「さぁ行け、とめきち!」
「なーうー」

 一声鳴いて背伸びをすると、とめきちはたちまちのうちに巨大化した。
 バリバリと体の表面を電流が走る。みるみるビルをしのごうという大きさになった。
 巨獣と化したとめきちは、大きなあくびをして背中をジョリジョリと舐めた。針筵は焦った声をあげた。

「あぁ、もう、体舐めている場合かよ」
「違う!あれは戦闘態勢への準備だ!」

とめきちは雄叫びをあげた。

「んなーうーー」

 そのころ、一台のバンが、川越街道を走っていた。車体には「ふくろジャーナル」とある。中には、六郎と桃子の親子が乗っていた。行く手の土埃越しに、悪夢のようなロボットと、巨大化した虎猫が見える。

「うー、キター!桃子、当たったな」
「ほらね、鯖虎系だったでしょ?これ以上近づいても警察に止められるだけだから、この辺でいいよ編集長」
「よし」

 バンは路上に停止した。
 桃子がカメラの入った衣装ケースをあける。

「父さん、どれ?3号?」
「ばか、ちげーよ。4号に、ドデカ望遠つけろ」
「らじゃー」

 桃子は、大判センサーの4号カメラに、超望遠レンズをがちゃりと挿すと、まるで機関銃を構える女兵士のような趣きでバンの屋根に立った。

「いくぞ、桃子、抜かるなよ!」
「オッケー!」

 バンの屋根がエレベーターのように、上昇していく。

 学校がえりの桃子のセーラー服が、風に吹かれてバタバタと音を立てた。
 桃子のファインダーの中には、無数の鶏の頭を持ったロボットと、巨大な虎猫が対峙している。
 キシキシキシキシ!機関銃のようにシャッターが切られていった。

「きゃはー!行けー!とめきち.!」

 とめきちは、川越街道にすっくと立ってマスターレグホンと睨み合っている。
 まん丸な瞳がマスターレグホンをロックオンしている。髭がピンと前を向き、ぶるぶると震えていた。完璧な戦闘体勢だ。

「見たまえ針筵君、とめきちの尻尾を」

 とめきちの尻尾は、二本の巨大な蛇のようだった。
 不思議な力を持つ猫の妖怪、猫股のあかしだ。
 巨大な猫股に変身したとめきちは、しゃーっと威嚇の声をあげて身構える。肩の筋肉が、まるで別の怪獣のようにぐにぐにと動いた。

「なーっ」

 強烈な猫パンチがマスターレグホンの胴体に食い込んだ。
 強靭な爪で引き裂かれたスレート板が轟音とともにあたりに飛び散る。
 二本の尻尾がダブルで鉄骨の足をはらう。尻尾で巻き上げられた空気が竜巻になって渦をまく。
 マスターレグホンの破片が竜巻に巻き上げられて飛んでいく。
 その時、マスターレグホン胴体の一部が扉のように開いた。
 すると、その中から池袋を襲った飛翔ロボットが次々に飛び出してきた。
 シャキシャキシャキ……。規律正しい音をさせながら空中を飛び回るレグホンロボットの群れ。
 とめきちは尾を大きく一振りした。
 そこから発生した竜巻がたちまちロボットを巻き上げ、どこかへ運びさってしまった。

 とめきちの猫パンチが、さらにマスターレグホンを襲う。
 どおん、とマスターレグホンは地面に倒れる。しかし、鶏の頭をつけたチューブが、しゅるしゅると伸びて、執拗にとめきちを攻撃しはじめた。

「ははは、化猫め、勝負はこれからだ」
「なうっ」

 執拗にかみついてくる白色レグホンの頭に、とめきちは手を焼きはじめている。
 街道に倒れ込みレグホンのチューブに絡め取られていくとめきち、猫キックもむなしく空中を蹴るばかりだった。
 鯖虎が叫んだ。

「い、いかん、とめきち、無理をするな!」

 マスターレグホンのチューブがとめきちの首をしめつける。

「まずい、持久戦に持ち込まれたらお終いだ」
「あっちは壊れさえしなきゃ動き続ける機械、こっちは持久力のない猫ですからね」

 オ・ラ・レグホンは勝ち誇ったように叫んだ。

「さあ、かわいい猫ちゃん、そろそろ俺様のくちばしを味わってもらう時がきたな、猫を片付けたら鯖虎、きさまの番だ」

 レグホンの雄叫びとともに、マスターレグホンの背中のスレート板が剥がれ落ちた。
 その中から姿を現したのは、銀色に輝く翼だった。
 甲虫が羽を広げるように、ジャキジャキと嫌な音をさせながら翼が広がっていく。
 翼は羽ばたきを始めた。
 マスターレグホンは、とめきちもろとも空中に浮かび上がろうしているのだ。
 ジャキン、ジャキン、ジャキン!巨大な金属音とともに砂塵が舞い上がる。
 もう少しで体が浮き上がろうというそのとき、とめきちは力を振り絞って尻尾を高く振り上げた。
 振り上げた2本の尻尾は、しかし攻撃をすることなく、空中をゆらゆらと動き始めた。
 尻尾の先から二本の緑色の光線が放射された。光は空中に星の形を描きはじめた。
 針筵は目をみはった。

「なんだありゃ?」

 その時、遠くの空からバリバリッという放電音が近づいてきた。
 見上げると、雲の間からまばゆい光のかたまりが姿を見せた。
 それはみるみる近づいてきて、ごぉぉっとあたりの空気を引き裂いた。
 光の正体はくさびの形をした隕石だった。
 放電音を響かせてとめきちの描いた星を目指して飛んでくる。そして星の中心を射抜いた隕石はそのままマスターレグホンの胴体を貫いた。
 轟音、放電音、煙……それがおさまった時には、マスターレグホンは跡形もなくなっていた。
 とめきちにとりついた鶏の頭は胴体を失ってちりぢりになり、オ・ラ・レグホンの頭部もどこかへ消えていた。

「なーうー」

 とめきちの体はみるみる元に戻った。
 駆け寄った鯖虎探偵が急いでペットキャリーに収納する。
 あたりにはただ瓦礫の山があり、川越街道の真ん中に巨大な隕石が突き刺さっているだけだった。

「よくやった、とめきち!」

 針筵はうなった。

「とめきちのやつ、いつのまにか腕を上げやがったなぁ」

22 号外

 ふくろジャーナル社のプリンターが唸っていた。
 次々に「号外」の冊子が刷られ、閉じられていく。
 その表紙には、桃子撮影になる巨大ロボットと戦うとめきちの姿が、センセーショナルな見出しとともに印刷されている。

 「その日、川越街道は戦場だった」

 六郎渾身の見出し。
 六郎と桃子は、次々に刷り上がる号外をダンボール箱に詰め込んでいく。

「桃子、こりゃ、売れるぞ」
「やったね、父さん」
「金が入ったら、寿司だ。寿司を食うぞ」
「うん、寿司ね」

 恒子が差し入れのおにぎりを持ってくる。

「トロね」
「おうよ、大トロよ」

 ダン吉は、ダンボールの一つに機嫌良く収まってぐーすか寝ていた。

「ダン吉、金が入ったら、お前にもボーナスだ。高い猫缶いやってほど食わせるぞ。金のなんとかいうやつをさ」

 軽い躁状態に陥った六郎、超人的なスピードで、ダンボールをガムテープで封印していく。

「金のなんとかってやつだ.」

23 再会

 カズ動物病院の診察台の上で、とめきちがすっかり縮み上がっている。
 尻尾を股の間に巻き込んでブルブル震えていた。
 モヒカン獣医はなんだか首をかしげている。

「あれ?なんでちかねぇ.、ダニでちょうかねぇ.、虫にくわれちゃったのかな.?とめきちたん、かゆいでちゅか.?!」

 巨大化して戦っているとき、レグホン軍団につつかれたところが、虫に食われたような無数の小さな傷になっているのだ。
 獣医は、目にもとまらないほどの超人的スピードで数十カ所はあろうかという傷跡を消毒していった。

「なっ」

 緊張しきったとめきち、診察台の上に黒いウンチをぽろぽろとこぼした。

「あららー、もらちちゃったですねー」

 治療が終わり、鯖虎はとめきちが入ったキャリーバッグを抱えて待合室にもどってきた。
 ソファにはともちゃんが座っている。

「とめきっつあん、大丈夫でした?」
「いや、びびってウンコちびった」
「ははは、とめ、かわいい!」

 カウンターからモヒカン獣医が呼んだ。

「鯖虎さーん」
「はい」

「これ、一日一回の塗り薬でして、あといちおう、抗生物質出しとくっス。今日だけ飲ませてくらはい。あれ、虫ですかね?変な食われ方してますよね」
「いや、あの、鳥……かな」
「え?鳥?」
「い、いや、虫ですよ虫、キャンプ行ったときに、その……」

 獣医は、川越街道の大事件を知らなかった。医院に篭って腎臓病のオオコウモリの処置に追われていたのだ。

「そっすかあ。あ、それとちょっとウェイト・モーメント!」

 獣医は奥に引っ込むと金属製のケージを抱えてもどってきた。

「これ、もう大丈夫っス」

 ケージの中には鯖虎と針筵が大山から保護してきた子猫が入っていた。
 ミルクココアのようなうす茶色の毛はもうふかふかになって、鯖虎をくるくるした目で見つめている。

「ともちゃん、ご覧よ」
「きゃ!かわいい」

 ともちゃんはこの子猫を迎えにきたのだ。

「そういえば、鬼子母神のアパートにいた猫もこんな色だったな」

 獣医の入り口に針筵が待っていた。
 ともちゃんのペットキャリーをのぞき込むと、目をますます細くして言った。

「おっとこりゃ、すっかりめんこいのになったなぁ」
「名前、なんにしようかなぁ」

 ともちゃんはすっかり幸せな顔になっていた。

24 宇宙の鰹節

 鯖虎と針筵は事務所にもどってきた。

「ほうら、とめきち、着いたぞ」

 ペットキャリーをあけてやると、とめきちは脱兎のごとく走り出した。
 あちこちに体をごとんごとんぶつけながら、ダイニングのテーブルの下へと一目散に駆け込み、一心不乱に毛繕いをはじめた。

「しかし先生、とめきちが呼んできた、あの隕石なんだったんですかね」
「あぁ、あれ、鰹節らしいよ」
「へ?」
「カツブシ」
「猫が呼んだだけに?」
「科捜研からの報告だと確かに成分は鰹節だそうだ。上物らしい」
「そんなんでいいんですかい?」
「何が?」
「結末」
「うーん、まぁしかし、事実なんだからしょうがないだろう」

 池袋にまた平穏な日々がもどってきた。探偵は、階段の踊り場で待っている猫たちのために新しいキャットフードの封を切った。

 ふたりと一匹、鯖虎探偵社の冒険は続く。

-おわり-
.

後日譚 1

 トルルー、トルルー、鯖虎探偵社の電話が鳴った。
 葉巻に火をつけようとしていた探偵が電話をとる。

「もしもし」
「あ、鯖虎探偵?おれだ、些末だ」
「ああ、警部。どうしたんだ?事件か?」
「いや、そうじゃない、あの、その、水なんだが」

 些末警部の住まいは、成増の駅からほど近いアパートだった。
 ダイニングで、なんだか、変な格好でつったったままの些末が電話をかけていた。

「あのさ、水道の水じゃまずいんだよな?」
「水ってなんの?」
「決まってるじゃないか、猫だよ。確か、カルキ抜きってのを、さ」
「些末警部、それは金魚の水でしょ。猫は人間と同じでいいんですよ。水道の水をそのままあげてください」
「あ、そうか、そうなのか、わかった。やってみる」

 そう言って警部は電話を切った。
 些末警部の足元には、山田一郎の家で保護された2匹の子猫が大騒ぎをしていた。
 茶虎のチャトランと、白黒ぶちのタマリンだ。
 二匹は、くんずほぐれつしながら些末の足元にやってきて、スエットの裾にがぶがぶとじゃれついている。
 些末は、カッブ焼きそばの空き容器に、水道の水をなみなみと注いで、エサ入れの横にそっと置いた。

 ちゃぷちゃぷと水を飲む二匹の仔猫を見ながら、些末は。凍りついたように硬直化した肩の凝りが、なんだか少しづつ楽になった行くのを感じていた。

後日譚 2

 もう、午前2時を過ぎていた。
 富さんの煙草屋には、まだ明かりがついている。
 家の中から富さんの叫び声が聞こえる。

「陽子ちゃん、陽子ちゃん!行っちゃだめ!戻ってきて、お願い」

 窓の中に燐が燃えるような青い光が見えた。
 それはやがて、ゆらゆらと上昇を続け、煙草屋の屋根を突き抜けて、天空を目指していった。

「あぁ!陽子ちゃん!戻ってきて!」

 富さんの声に応えるように、ふと電信柱の根本に2つの光る眼が現れた。
 んー、という低い猫の唸り声が聞こえる。
 ふと見ると、光る眼は、次々に増えていき、7匹分になった。鬼子母神の猫たちだった。
 アオー!猫の声は、はっきりとした鳴き声に変化し、7匹の猫が交互に鳴き交わすようになった。
 天空に飛び立った青い光は、空中にとどまったまま、オレンジ色に光りはじめた。
 これは、陽子の魂?何か特別な力を得て、光は大きく瞬いた。
 アオー!アオー!アオー!今度は7匹の猫が一斉に鳴き合わせる。
 光は、ゆらゆらしながら、戻ってきた。
 煙草屋の屋根を通りぬけ、陽子ちゃんの体が横たわる、千代紙に飾られたダンボール箱の中へ戻っていく。

「あ.!陽子ちゃん、眼を覚ましたのね!よかった、戻ってきたのね、陽子ちゃん!」

 富さんの声が深夜の街角に響いた。
 その声を確かめて、鬼子母神の猫たちは、境内へと帰っていった。
 ひかひかひか……陽子に授けられた不思議なエネルギーの影響を受けたのだろうか。電信柱の電灯がひとしきり瞬いた。

-どっとはらい-


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