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mahora編集後記+

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八燿堂から刊行している、人と自然と宇宙の豊かさを祝福する本『mahora』の編集後記と、『mahora』のプロトタイプであるテキストを収めています
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記事一覧

[第5号]編集後記

怪我の報告を少し。 2020年の9月にボルダリングの落下事故で右足を骨折し、1カ月超の入院のあと長いリハビリに励んできましたが、22年6月の診断で、完治することはないと医師から告げられました。損傷した骨の接合がもろい状態のまま改善せず、骨に沿って埋められたプレートによって体重を支えている状態で、日常生活や軽い運動には耐えられてもボルダリングの落下のような大きな衝撃は再骨折の恐れがあり、再手術は技術的には可能だが骨はボルトで空いた穴だらけになる、むしろそこまで治ったなんてすご

[第4号]編集後記

前号で「趣味はクライミング」と書きましたが、その刊行から数か月後、当のクライミングの最中に転落して、右足を骨折しました。山の麓から街の病院までドクターヘリで搬送され、そのまま緊急手術。「右脛骨腓骨開放骨折」と診断される大怪我で、この文章を書いている、事故から一年以上経った2021年11月現在、日常生活には復帰できましたが、折れた骨はまだくっ付いておらず、金属の板が脚に埋め込まれたままです。 何とも暗い話ではありますが、これだけの重傷を負うと不思議なもので、私の場合、失ったも

[第3号] 編集後記

趣味のクライミングの話をします。 クライミングはもともと登山技術を磨く練習法として始まり、現在では氷の絶壁をバールのような道具で突き刺しながら登るものや、命綱をつけて数十メートルの岩壁を登るもの、ロープやヘルメットを付けずに高くても五メー トルほどの岩を登るものなど、さまざまなスタイルを包括しています。 自然の岩を登るわけですから、自然の脅威を直に受けることになります。地震や河川の氾濫などで岩が傾いたり削れたりし、登るコースが消滅したり、難易度が変わったりすることもしばし

[第2号] 編集後記 ※本誌未掲載

本日(注・2019年12月11日。現在は別の写真に更新)からトップページの写真が変わりました。第2号で紙漉思考室・前田崇治さんを取材したときの、写真家・野口優子さんの撮影によるものです。端切れや印刷ミスなどで余剰物となった手漉きの紙を、漉き返し(現代で言う再生紙)としてよみがえらせていく風景は、取材から半年以上が経ったいまでも、鮮明に思い出すことができます。特に、もとの紙に印刷された文字が、消滅することなく、紙を成す植物の繊維と共存しながら、新たな紙に留まって、存在しているあ

[創刊号]編集後記に代えて

1. アユタヤの石像タイ、アユタヤ歴史公園。14世紀半ばから18世紀後半にかけて栄えたアユタヤ王朝が遺した、大小さまざまな遺跡群のひとつ――確か、観光名所としてはさほど有名でもない遺跡に、その石像がありました。そんなに大きなものでもない。遺跡の中心に位置しているわけでもない。建物の廻廊跡に数メートルおきに並ん編集後記に代えてでいるうちの、取り立てて特徴のない像だったと思います。表面はだいぶ風化していて、黒ずんでいました。ほかの像と同じく盗掘に遭ったのでしょう。無残にも胸から上

序 1. はじめに

ここ日本では、遠くない将来、元号が変わろうとしている。思えば、平成と名付けられたこの約30年は、とてももどかしい時代だったと言えるかもしれない。グローバル資本主義経済、阪神・淡路大震災、オウム真理教による一連の事件、アメリカ同時多発テロ、リーマンショック、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故――。経済の大きな波と自然災害と突発的な人災に翻弄された時代だった。災禍はいつか訪れるだろう遠いものではなく、いつでも訪れ得る日常的な存在となった。そのたびに人々は不安を抱えた。隣人との

序 2. 近代的自我の彼方

けれどもこの数年、それらとは異なった表現が存在感を増しているように感じられてならない。特に東日本大震災を経験したあとのことだろうか。どこか、表現する人が主役ではなくなっている。それも、見取り図を描いただけで裏方に下がってしまうような、これまであった表現の方法[2]ではなく、エゴイスティックな意識を手放し、表現者であるはずの自分はもう、消えてしまってもいい、そう考えているようなあり方。またはそこまでいかなくとも、自分というひとりの存在には限界があるということを、素直に認めている

序 3. 自我が退いた芸術

具体的に何人かの作家を挙げてみよう。例えば、鴻池朋子の著書[4]には、次のような記述がある。東日本大震災以降、自分の作品に「まったく興味がもてなくな」った作者が新たな芸術の在り方を模索するなか、北秋田の雪深い山の避難小屋での展示を始めるうちに、ある直観に至るのだ。「観客は人間ではないのかもしれない」と。やがて作者は人の命すら奪う自然の猛威に地球のエネルギーを感じ、眼球ではなく霊的な視力を凝らすことで、人以外の存在が「連れて」きた「物語」のあり方に芸術としての確信を抱いていく。

序 4. 宮沢賢治『農民芸術概論綱要』

このような表現/表現者[12]の特徴をもう少し挙げてみよう。美術的な文脈や評価を頼らず、土地に根付いた伝承・神話・伝統といった民俗学・文化人類学的な興味を持っている。自然や先人に対する畏怖の精神がある。人間の進歩史観に疑問があり、西洋近代/都市文明や資本主義経済への批判的な考えを持っている。物質ではなく精神的な持続可能性を追求し、自分という存在や人間の理性を越えたものに作品を託すことで、それを実現しようとしている。作品が、知的側面より感情・情緒的側面が強い。自分の人生だけでな

序 5. ホリスティックについて

そのような世界認識は、ホリスティック(holistic:全的、全体的)という言葉で表される。ホリスティックとは、物質的・非物質的世界においてさまざまな要素が始まりも終わりもなく循環していると考える。システム思考と言い換えてもよいだろう。例えば江戸時代、米を収穫し、藁で草履や草鞋や蓑を編み、または家屋の修繕資材や雑草を抑制する地被として用い、藁が古くなれば堆肥か暖をとるための火にくべ、灰となれば酒の原材料やまた堆肥として用いる[18]。生物学においても、自身の細胞を構成する原子

序 6. 全派芸術について

全派芸術は、そのいずれの表現も、界面にあって移ろっているという性格を持つ。人の住む世界と、自然との間。人の住む現代と、太古から続く歴史軸との境界。作品とは、日常から生まれながら、そうした「異界」に向かって開いた「口」のようなものであり、人ならぬものとかろうじて結ばれた接点としてある。これはまさに「神霊の依坐(ヨリマシ)」と柳田國男が語った[23]、この列島に特徴的な古代の芸能の在り方と同じである。氏神が降臨するために裏山の頂上の高い木の枝に布を下げておく、祖霊が迷わぬよう目立

序 7. 日本的霊性

ところで、ユングの説く元型と、柳田國男が指摘する芸能や芸術の姿には、少しばかりの、しかし決定的な違いがある。それは日本的に分化したとも言える地点だ。原始や自然の調和的風景、あるいは集合的無意識において、おそらく少なくない共通性を持っていたあらゆる表現が、なぜこの列島においては、ある種の“日本的な”性格を纏うようになったのだろうか。おそらく日々の生活と環境に固く結び付いた表現は、自らが依拠するその環境の性格――ほかならぬ風土の日本性のゆえに、だんだんと、そうした地平に向かってい

序 8. 「なつかしさ」の行方

岡潔の言う「ほしいままなものが取れた」状態とは、こうした“一”なるものに通じる、剝き出しの経験と瞬間の説明だと理解することができる。岡は奈良の博物館で正倉院の“切れ”を長々と鑑賞した後、外に出て、伸びている松の枝に目を留め、こう思う[32] 。 目の前にある現実をひたすら見るうちに、たどりつくものがある。「ありのまま」を見るためには、「心のほしいままなものが取れ」なければならない。ここまでは鈴木大拙とまったく符合している[33]。二人とも同じことを言っている。ただ岡は、ここ

序 9. 美という行為

畏怖すべき自然と野生といった避けられようもない異界との接点。その状況下で日々を暮らすことの延長としての生の営み。そして異界との、あるいは日々の隣人との、境界を越えた調和的な全体性。それを可能にするであろう、なつかしさという美。再び平成という時代を考える時、天災と人災に無数の傷を負い、多様性の名の下にあらゆるものが許されながら、誰もが自分の正義にしがみつき、結果として他者と敵対すらしてしまった我々は、こうした全体性の調和を、ただただ回復することを目指そうとしていただけなのかもし