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IDEA

イデアという言葉は「見られたもの」「知られたもの」「姿、形」という意味、プラトン哲学では【絶対的な永遠の実在】【純粋な理性的思考によって認識できるもの】の意味を持ちます。そのほかにもあるのですが今回はこの言葉を取り上げさせていただきます。

※哲学的な話ではない時には、着想や思いつき、見解なども意味としてありますが、これらはイデアではなくアイデアとして表記されるので別物として今回では考えます。


昔話になりますが、

私は学生のころフェンシングをしたかったです。
残念ながら私の学校にはフェンシング部が無かったのでできなかったですけど。
なりたい人物像が剣をもってドラゴンか馬に乗って戦う戦士みたいな人だったからです。(どんな人 😂)


住み込みで乗馬牧場に働きに行ったのも、少しでもその姿に近づきたかったからでした。
おかげで馬には乗れるようになりましたが戦士に近づいたかというとそうでもなく。👀🐴

飛行機に乗ったことが無い時は、「すごい!あんな上空を飛んでる!あんな大きな塊が浮かんでる」と思ったのですが、
いざ飛行機に乗った時、飛行機の中で自分の足が床についている様子に「結局人って自由に飛べないんだな」としんみりしていました。


そしていつの日か私の中ではこうなりたいという人物は消えていき、
次にこうありたいという人物像が出来上がっていきました。



善い人でありたいことでした。



生きていくうちにいろいろな経験をすると、自分の中にも他人にも色々な姿を見るからだと思います。
一言で言えない人の複雑さの中で、社会という人間の集まりに一番必要なものが何かを私なりに考え続けた答えでした。


ですがそれはとても大変なことです。

・善い人になりたい
・善い人でありたい

ここは私の中で違います。

善い人になりたいはペルソナに近く、善い人でありたいは今回の【イデア】に近いものだと思っています。

あるべき姿となるべき姿は似ているようで違うと思っています。
ありたい姿となりたい姿も似ているようで違います。

何が違うのかを考えましたが私なりの答えは

そこに善があるかどうかなのだと考えています。

私は哲学者でもないので、
ですからここでの私のnoteはあくまで私の考えなのだと読み進めてください。


【善】または【善い】とはなんのかというところから始まるのですが、
ここらへんは本当に哲学者の域になりますし、かつての哲学者すら追い求めていたことなので、私の長々とわからない文章で連ねるよりも東京大学大学院人文社会系研究科教授の記事から引用させていただきます。

「善い」というのは、いったいどういうことなのか。「正しい」ということでも十分にすごいものですが、ソクラテスは「『正しい』ということを本当に言い切るためには、さらに究極の『善い』ということを把握しなくてはいけない」「『善い』ということは、『正しい』とか『美しい』といったことを超えた、より根源的なものなのだ」という見通しを述べます。ソクラテスはこのことを「知っている」とは言いません。「私ももちろんよく分からないのだが、そうだと予感している」という言い方をします。

 「善い」とは、例えば私の体にとって善いのは善い食事や適度の運動などというように、普通は相対的に使われます。しかし、その原理は何なのか。私の体にとって善いとはどういうことか。体が善ければいいのか。生きるとはどういうことなのか。こういうことを突き詰めていくときに、「善い」とは何かということを判断する。これを見極めることが、哲人統治する哲学者の最終目標であり、かつその前提になるわけです。

太陽の比喩、線分の比喩、洞窟の比喩…「善のイデア」とはプラトン『ポリテイア国家)』を読む(12)善のイデア、洞窟の比喩

ソクラテスでも「わからないのだが」と言っています…。

でも【善い】とは何かを判断する、これを見極めることが最終目標であり前提であるとあります。



人は性善説か性悪説かが昔から議論されてきたように、
人は【善】について考える機会が多く与えられてきたのだと思います。

【正しい】の反対は【間違っている】。
では間違っていることは悪なのかというとそうでもないこともある。
やり方を間違えてしまったという場合もありますし。

正しいことが良い事ともはっきりは言えない。
それぞれの正しいがあるので。
なので善と正しいは一見似ているようで違うと考えます。


でも正しいは善に近いものだと思うのです。


上で述べられているように
正しいを決定するものに必要なものが善なのは私も感じます。
そして私は善の反対は悪だと思っています。


では悪に対抗するのに必要なのは、漠然と【正義】というイメージがあります。

この正義という状態はなんなのかと思いますが、
それは先ほどの引用の中のソクラテスの弟子のプラトンの言葉にあります。



イデアの中に最高のイデアとして位置づけられる存在として
【善のイデア】があります。


善について考察したソクラテスは【善はあるべき姿】と述べました。
そしてその弟子のプラトンは、そのあるべき姿に到達するために何が必要なのかを考察したと言います。
善の本質を決定づけるもの、あらゆる善いと思えるものに必ず共通で存在しているものを考えたとか。

プラトンは、魂には三つの要素があると考えました。
・理知的部分
・気概的部分
・欲望的部分

そしてそれぞれの要素に持たなければならない性質があるとも言いました。
・知恵
・勇気
・節制


欲望の部分を節制で抑え、気概的部分は勇気を持ち、理知的部分は知恵を持たなければならない。
この中で理知的部分である理性が、魂が善へ向かうことが出来るように何が善かを知る必要があります。

そしてこのうまくバランスが取れている状態を正義としたそうです。


ということは正義とは、

欲望を節制し
意志に勇気をもたせ
理性により知恵をもって善に向かう姿

ということでしょうか。


このことを知った時に私には気づいたことがありました。


私が大好きなゲームで私の創作の根幹になっているものに
【ゼルダの伝説】があります。
ゼルダの伝説にはトライフォースという重要なシンボルがあるのはみなさんご存じかとおもいます。

知恵、勇気、力で成り立っている三角形です。


私は恥ずかしながら「勇気のトライフォースってなんや」って思ってました。力と知恵って分かるけど勇気のトライフォースってなんか抽象的だなーもらったら微妙になるなーって。

でも私は、トライフォースがプラトンの唱えた善のイデアを求める姿を表していたのかなと重なりました。


善のイデアに行くために必要な要素と持つべき性質
・理知的部分(理性)には知恵
・気概的部分(意志)には勇気
・欲望的部分(欲望)には節制


おお!まさにトライフォース!✨と感動したのを覚えています。

勇者と魔王、そしてとらわれた姫という構図はよくありますが。
恋愛関係でもないこの三角形の関係が私の中で珍しいなと感じていたのです。

ガノンが力を欲望のままに節制することができずハイラルはバランスが崩れ危機になります。

ゼルダだけでは節制を失った魔王のガノンは手に負えず、勇気をもって立ち向かうリンクが必要でした。そしてリンクは理性の部分で知恵をもったゼルダ姫がいなければ進むべき道がわからず物語は進まなかったでしょう。

ゼルダ姫という知恵のトライフォースをもった存在の導きで理想の姿に近づくことが必要だったのだなと感じました。


またプラトンは善のイデアに向かうための例えとしての【洞窟の比喩】も有名です。

書くと長くなるのと難しいので調べていただけるとありがたいですが、
私がわかる範囲で説明すると、

………………………………

暗い洞窟に縛られた囚人が、壁に向かって座らされます。
彼らは背後に何があって何が壁に映し出されているのかはわからないけれど目の前に映し出された影のそれが世界のすべての姿だと想像し、認識するようになります。

そして解放者が囚人を洞窟の外へ導き、洞窟の外へ連れ出します。
しかし太陽の光は眩し過ぎてすぐには何があるのか認識できません。
そして時間をかけて徐々にその光に慣れて物事を正しく認識し、真実の世界を知ることができるようになっていきます。

やがて洞窟からでた囚人は、まだ暗闇の中で繋がれている洞窟の中の仲間が同じように外へ出て正しい世界を知ることができるように助けるために戻ります。

………………………………

この洞窟の比喩では、太陽が善の象徴とされています。

世界に影を作りだす光の正体である太陽を知ることが大事で、その"太陽"こそが 善のイデアだとプラトンは言いました。

自分が思いこんで作り出した“影”による間違った信念や考えに拘束されてしまっている状態から、真実を教えてくれるのが太陽の存在ということですかね。


太陽は光の源。


やはり光は善なのだなと✨
私はプロフィールにも書いてありますが光をテーマに作品を作ります。
これからもどんな大きさでもいいから光をテーマに作品を描いていこうとより一層思います☺️

Idea

あなたが見る私 わたしが見る私
時と感覚によれば 美しくも正しくも それは不確で虚ろな存在
心で見るのは 確かなもの 気持ちで見るのは 不確かなもの

イデア
宵闇を纏い暁闇の中で
変わりゆく私の中でも あなたは永遠に同一の私

肉体によらず 魂によって
その姿を見せて


暗闇という固定的な思い込みから脱するため、
自身に起こる現象をすぐ認識できずとも光へ進むことが大事なことなのだと思います。

とらわれたままの洞窟の囚人になるのか、解放された自由な囚人になるのかは自分次第です。


肉体の知覚による【現象】に振り回されず、
純粋な理性的な思考による【実在】を知るため
勇気をもって光の下に進もうとする姿。

難しいですね【善い人である】ことは。


だからこそ哲学者たちも人生をかけて追及したのだと思いますし、
その姿が人にとって最も美しく光る姿なのではないでしょうか。



宵闇から暁闇へ
雲間をぬって現れる

より善い方へと進む姿

眩しい光に照らされながら
静まり世界を知ろうとする人



それが彼女

イデアです。



Maho

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