"存在してごめんなさい''の気づき

先に言っておくと、死にたいとかそういう話ではありません。


何もかもしんどいなーと考えていた時にふと浮かんだこの言葉

今日の夜更け、退院したらホステルオーナーに4日くらいホステルに泊まっていいかと聞かないと、、って考えてるとき、
''これ以上ホステルオーナーに迷惑をかけたくない。きっと私は邪魔者だ。''というような思考が私の中にうずまき始めた。そして心拍が上がってることに気づいて、「何で私はこんな些細なことでこんな風になってるんだろう」と思った。その時、ふとポッと頭の中に''I'm sorry my existance''という言葉が浮かび上がった。なぜか、英語だった。変な英語かもしれないけど、日本語にしたら''存在してごめんなさい''というような感じか。
なんの脈絡もなく浮かび上がったから、最初はただ不思議だったけど、その言葉を噛み締めてみた。

すると、私の今のこの心拍が上がる感覚の底には「存在してごめんなさい」があるような気がしてきた。私の存在が人に迷惑をかけてると。
私が仕事をしていたとき辛かったのも、これが底にあったからだと思うと説明がつくと思った。いつもどこかで、私の存在が皆の邪魔になっているような気がしていた、と思う。だからどこにいても、誰といても落ち着かなかったんだ。今も。
職場はもちろん、家も私にとっては安らぎの場じゃなかった。常に私は「私はここにいてもいいの?(きっと良くない) 。置いてもらっていてごめんなさい。」という感覚を無意識に持っていた気がする。

周りの「人」という存在にいつも少しの怖さというか、後ろめたさのようなものを感じていたのもこのせいかと思えば説明がつく。
「私なんかと時間を過ごしてもらって、ごめんなさい。」
人と会っている時は無意識下にそういう想いがあったと思う。ごめんなさいじゃなくありがとう、でもいいはずだけど、私の底にある言葉はたぶん間違い無く、ごめんなさい、だ。

無力で弱い自分を自覚

この夜更け、それに気づいたときに、
「ああ、私は自分で思ってるより重症なのかもしれないなあ」とぼんやり思った。
力がないものは落ちて消えて行く、その土俵の瀬戸際にいるような。自立とか、自活とかそういうところから程遠い場所にいる気がする。まるで幼児みたい。
その感覚のまま、今の自分の状況を感じてみた。

病院の人たちにも、ホステルオーナーにも、親にも職場にも後ろめたさを感じながらベッドに寝転がってる私。「かなりしんどいな」と意識した。外には車のクラクションが鳴り響き、複数のエンジンの爆音が響く。
「私はこんなに弱いのに、こんなに刺激の多い場所にいた」よくもここまで来たなと。

ちょっとした刺激ですぐに傷ついて、おかげで何も自分からは判断しようとしない、行動を起こそうとしない、与えようとしない、そういう、未熟すぎる幼児のような自分をこのとき自覚した。

何か人に打診する時は命懸け。相手が少しでも不快な感情を出したら、やっぱり私なんていない方がマシなのだ、と絶望するしかないから。

私は旅が大好きで、中毒のようなものかもしれないとまで感じていた。1年旅に出ないと、鬱屈としてくる。
神経過敏で音などの外的要因によるストレスを抱えやすいにも関わらず、同じことの繰り返しの日々が続くと退屈に耐えられない、、。一見矛盾してるように見えるかもしれないけど、私はこういう感じ。他にもこういう人はいるのだろうか。

心の未熟さの理由

心が成長できなかったのはなぜだろう。
私は、タグはアダルトチルドレンとか複雑性ptsdとかと付けているけど、今は自分を何とも呼びたくない。アダルトチルドレンは幼い頃の親からの愛情不足などにより、心が未発達のまま成長する、だからアダルトチルドレンだとすれば説明がついてしまうのだけど、それだと原因を全て親になすりつけているみたいで。 
私が人から学ぼうとしなかったから、今こうなのかもしれない。それか持って生まれた性質によるところが大きいのかもしれない。
色々な可能性が考えられる。

今、カーテンの向こうで病院のスタッフ達が話をする声が聞こえる。その声がどれも大きくてドスが効いていて、私の肩は今すごく緊張してる。私は声が大きい人はただそれだけで、一緒にいると肩が緊張する。
怒っているような気がするからかもしれない。

書いていたらだんだん悲しくなってきた。
こんな弱くて私は大丈夫か。

 職場でのことを思い出すと、電話の音でいちいち緊張していた気がする。電話の音を聞くのも嫌だし、自分が出るとなるとものすごいストレス。(こう書いていて同時に、皆そうなのかもしれない、それでも頑張って仕事してるのかもしれない、とも思うのだけど。わからない。)

生き場所を考える

家でも本当の意味で安らいでいなかったことを自覚したら、肩の力を抜いて本当にリラックスして生きられる場所を見つけたいと思った。大きな音がするところはだめ、人とは3日に1度位の、たまに関わる程度が私の場合はいいのかもしれない。
優しい人と話すのは好きだけど、人のドロドロした感情が本当に苦手(もちろん自分にもあるからそれも含めて)。社交辞令、噂話、悪口、嫉妬、欲望、できるだけ見たくないし聞きたくない。
書いてて意味もなく涙が出てくる。今までよくこの自分で毎日人に接してきたなって。弱すぎて情けない、でも頑張ったな と言いたいような。

場所を考えていて、ふと思ったのは、海の近くはどうだろうということ。前にダイビングを少しやったことがあるけど、とても楽しかった。海の中は静かで、神秘的で、汚れたものや感情も無くて。
でも海でプカプカ浮いてるだけで生きていくわけにはいかない。生きるためには働かないとだけど、自分がダイビングインストラクターをしてるとかは想像できない。
とりあえず、海に行ってみようと思った。どうせ行くなら、ずっと興味があった沈没船をみようと。で、インド 沈没船 でググッたら、スリランカには200近くも沈没船があるらしい。スリランカはインドのすぐ南の島国。これは行ってみるしかない。し、やっぱりインドのムンバイは気になる。自分が弱っ弱の霞メンタルということに気づいたけど、休み休みムンバイまでは行って、そのあと飛行機でスリランカかな、とぼんやり考え始めてる。
(やっぱりどこかアンバランス?)

生き方を考える

私はお金のことを考えるのが苦手。通帳の記帳はしたことがないし、自分の給料表や年末調整表はいつも見ないまましまってた。だから月にいくら自分がもらってたか知らない。そこから税金がどれだけ引かれてるかなんていうのも見たくないから見てない。

責任とか、義務とか、約束とかという言葉が本当に苦手。その言葉を使われた瞬間に全て放り投げてしまいたくなる。インドでトゥクトゥクの運転手に、「明日何時にここ、約束だよ」と強引に言われたとき、「約束なんてできない」って反射的に声を大きくしてしまったことを覚えてる。本当に、これらのワードを私に投げられると「やめて!」と耳を塞ぎたくなるくらいに嫌だ。なぜだろう、理由はよく分からない。

こういうことを考えると、私は責任感を持って働くとか、お金のために働くということは難しいのかもしれない。私がしていた仕事は、まさにお金のためだった。

今は、夢中になって取り組めることを探してみようと思う。そしてお金のことは考えずにそれに取り組もうと思う。

治療を考える

最近Yahoo知恵袋で「精神病院では、私の精神を一旦ゼロに回帰させ、思考を解放させる療法を何度も繰り返しました」という文を読んだ。こういうことができるなら私もしてみたい。色々情報を集めてみたいと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?