【春の再会】


軽く舌打ちをすると、男は携帯をポケットに突っ込む。
今日何本目か分からない煙草に火をつけて、大きく煙を吐き出した。

大通りから少し外れた路地裏には、人通りもなく今にも崩れそうな長屋やアパートがひっそりと並んでいる。
その先に見える、場違いなまでに美しい花を咲かせた桜の木々が、男を一層憂鬱な気分にさせた。

男は桜が嫌いだった。
一瞬で散るその花のために、必死で花見をする奴らがバカバカしかったし、何よりもその花が連想させる“出会い”や“別れ”…そんな感傷的な雰囲気が嫌いだった。

「チッ…」
もう一度舌打ちをすると、男は捨てた煙草の吸い殻を力任せに踏みつけ、意を決したように今日の“仕事”へ向けて歩き出した。


カン、カン、カン…。

錆び付いて本来の色など分からなくなった階段を、ゆっくりと昇る。
目当ての部屋の呼び鈴は力無くぶら下がり、用をなさないのは一目瞭然だった。

ドンドンドン!!
男が派手な音を立ててドアを叩く。
「いるんだろ!?出てこい!」

そう言って出てくるわけもないのは百も承知で、何度か呼び掛けてみる。
何度かの後、男はドアに手を掛けた。
鍵はかかっておらず、構わずそのまま足を踏み入れる。

部屋の中は、生ゴミとアルコールと煙草と汗とが混ざったような、なんとも言えない嫌な臭いが充満していた。
入ってすぐの台所は特に臭いがきつく、男は一瞬顔を顰める。
なんとなく目についた炊飯ジャーを開けてみると、何日も放置された米がカピカピになっていた。

うんざりした様子で顔を上げると、改めて中を覗いてみる。


男の目当ての人物は、手前の部屋にいた。
ヨレヨレのTシャツにステテコ姿のその中年男性の枕元には、焼酎の空瓶が無造作に転がり、吸いかけの煙草からは細い煙が立ち上っている。
大きないびきをかいて眠る男性を軽く揺すってみる。
「おい!起きろよクソ野郎!」


その時だった。
奥の部屋から制服姿の少女が現れた。

「それぐらいじゃ起きませんよ、その人。」

突然家に入ってきた男の姿に顔色ひとつ変えず、落ち着いた冷たい声で言い放つ。
「わたしは出てるので、好きにしてください。」
そう言って出て行こうとする少女の腕を、男は思わず掴んだ。
「ちょっと待て!…お前、大丈夫か?」
自分の腕を掴んだその手を一瞬見つめて、少女はその手を振り払って外へ飛び出した。


「なんだ、あのガキ?」
少女の静かな迫力に気圧されつつも、男は寝ている男性のそばに転がった財布をチェックして小銭しか入っていないことを確かめると、溜め息をついて部屋を出た。


少女は、まるで男を待つように、階段のそばに佇んでいた。
「なんだよ、何か言いたいことでも?」
「働きたいの。どこか、働ける場所知らない?」
なんの感情も無く淡々と尋ねる少女の、その暗い瞳に、やり切れない苛立ちを覚えつつわざと乱暴に答える。
「お前、まだ中学生だろ? ガキが働けるとこなんて無ぇよ。」

「…煙草。」
「は?」
「煙草、ちょうだい。」
唐突に言い出した少女に戸惑いつつ、ポケットから取り出した煙草を渡し、火を点けてやる。


当たり前のように大きく吸い込んだ少女が、一拍遅れて盛大に咳き込んだ。
「なんなんだよ、吸ったことねえのかよ!」
涙目で咳き込み続ける少女の背中をさすってやりながら、男はできる限り優しく、安心させるように語り掛ける。

「なあ、今がクソみたいな生活なのは分かる。だけど、あと数年耐えろ。そんで、また俺んとこに来い。な?」
そう言って、少女の手に名刺を握らせる。

「またちょこちょこ来てやるから、なっ?」
そう言って照れくさそうに微笑むと、男は早足で階段を降りて行った。

少女はただ、黙ってその後ろ姿を見ていた。
腕を掴んだその手と、最後に微笑んだ時の優しい目…。


少女は、男がくれた名刺を、そっと胸に抱き締めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?