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仕事を辞めて婚約者の義母の介護をして看取った後に婚約破棄になった話

今から3〜4年程前、私の人生を振り返っても、大きな節目だったなと思う経験しました。
生まれた時から、次から次へとびっくりするようなことが起こってきて
その度に「もうダメかもー」ってなる打たれ弱い私ですが
この出来事は「もうダメかもー」を通り越して、まやかしの夢の中にいたら全部無くなっていた。ここはどこ?私は何をしていたの?
そんなふわふわした精神状態に一瞬なりました。
でもちゃんと大きな学びに気づき、今に生かしています。

きっかけ

当時、大阪で付き合っていた彼がいたのですが(偶然にも地元が同じ県)、実家がお金持ちらしく、一人っ子で歯科医の
すごくわがままなお坊ちゃんだったんですね。
付き合った当初から、「家事は女の役目、彼女の存在理由」みたいな人で
洗濯物を投げつけられたり、すぐにキレられたり、料理を作っては文句を言われたりしていました。
なんで付き合っているのか、自分でも謎で、何度も何度も「もう無理」ってなっていて、会うのも苦痛でした(別れろよ、笑)

多分当時私は、32から33歳。
結婚に焦っていて、子供の頃お金で苦労したから
お金を持っている人と結婚したくて我慢していたんですね。
私は家族も実家もないので、どうしても家庭が欲しかったんです。

我慢しながら、苦行のように付き合いを続けていたところ
彼から「母親が癌でもう長くない。会いたがっているから会ってほしい」と言われ(5月の初め)
彼の母が入院している、私の地元の県の病院に新幹線に乗って会いに行きました。

彼のご両親との初対面とその後

「気難しくて好き嫌いが激しい」と聞いていたお母さんで緊張しましたが、すごく私を気に入ってくださり、お父さんもめちゃくちゃ私を気に入ってくださりました。

その後、お母さんは病院を退院して
自宅で最後を迎えると選択をされたので、家のある島へと移りました。

そう彼の実家は瀬戸内海の島にあるので、大阪から行くのは少し大変。
新幹線と在来線で駅まで行き、そこから高速船でいくか
岡山まで車で行き、そこからフェリーで行くか。片道3時間はかかります。

私は毎週末、大阪から通い、介護の手伝いをしました。
というのも私の専門は、在宅介護や医療や看取り。彼はそれを利用したかったんでしょう。
それでも、知らない土地で
人の家に住み込みで気を遣いながら、24時間体制でとなると
めちゃくちゃしんどかったです。

24時間ナースコール鳴りっぱなしの状態。しかも彼の両親だから
100%で対応しなくてはいけないプレッシャー。

そんなこんなで、今週末いよいよもう危ないかもという頃
仕事があるから大阪へ帰ろうとした日曜日。
帰らないでくれと彼からの圧と説得の嵐。

なくなく私は、会社と担当している患者さん全員の家に電話をして
休みと振替の調整をすることに。

仕事にずっと責任感を持って、患者さんを大切にしてきた私はとても苦しかったし、
それだけで信頼を失ったり会社からも白い目で見られることを彼はわかってくれていなかったのか、当然のような振る舞いで
結婚もしていないし、会社からしたら母親は私には何の関係もない人なのにこの人常識大丈夫?と思いながらも
たった一人の母親の死というものを前に動揺しているのかなと、自分を納得させました。

看取りとその後

そして、苦しみながらも、次の日にお母さんは息を引き取りました。家族に見守られながら息を引き取るというのは、ドラマなどの世界では普通ですが、現実ではなかなかできないことです。

亡くなってからも葬儀の準備などで大忙し。私は無関係なのに「婚約者だ」という扱いでいろんな手伝いをさせられました。

葬儀場みたいなところで家族が泊まり込みで一日おりんを鳴らし続けるのですが、家族は父親と彼しかいない状況。
父親を家で休ませて、彼はお風呂などに入るために、山奥にぽつんとある誰もいないあたり真っ暗闇の葬儀場で
出会って2週間のお母さんの遺体と数時間二人っきりでおりんを鳴らすことに。
もう怖いと思ったら負け。見えるもの、聞こえるものを見ないふり、気づかないふり。

他にも、葬儀では八つ墓村みたいな三角のやつをおでこにつけて
なんか儀式みたいなこともしました。

この白い三角巾

その他、次から次へとやってくる全然知らない
島の人のお茶だしや相手をして心底疲れて肌も髪もボロボロ。

葬儀から3日目「もう仕事があるからこれ以上は」と
逃げるように大阪に帰ったとき、自分しかいない部屋と家に心底癒やされました。

引っ越しと仕事を退職 パートへ

まだお母さんが生きていた頃に、一緒に住むマンションを探すように言われていたので何個か探していた私たち。その途中で亡くなられたので
引っ越しは一旦中止となっていました。

お母さんの看取りも終了したり、もう島に行く理由はなくなると思っていたら
父親の仕事を手伝うためにも毎週末大阪から帰るという話を聞いてびっくり。私がいく必要はないと思っていたら大激怒され
よくわからない理由を並べらて、私ももうよくわからなくなってきました。

毎週末、木曜から日曜まで島に通うという生活をする為、私は大好きな仕事を退職して同じ職場でパートとして月から水まで働くことに。お給料13万とかになりました。社会保険などもかけられなくなるので、お父さんの扶養に入ることに。しかもまだ結婚していないので、住所を島に移して同居人という項目での扶養に。ここらへんで頭の中に???こんな状況にまでしてなぜ入籍しない?という怒りが。

そして毎年、夏ぐらいから秋にかけて、週末は専門学校でケアマネの受験対策講座の講師をしていたのですが、その仕事にも文句をいわれることに。
私は仕事をすごく大切にしていて、責任もあると説明しても、「じゃあこの家に対する責任はないのか?」と逆ギレされる日々。
挙げ句の果てに、それが原因で引っ越し先のマンションが決まり、
来週引っ越しという状況で「そんなんだったらもう引っ越しもやめよう」と子供みたいな発言と行動をしてきて私はげっそり。
やめてもいいけど、もう色々解約とか契約とか手続き済みなんだけど。

そして引っ越し作業も私は私のを一人でして、明日は片付けをーと思っていたら、次の日から島に行くのに行かないのか?とキレられました。
引っ越し後くらいゆっくりさせてよ、私行ってもご飯作るくらいしかすることないやん。とどんどん怒りは溜まっていく一方。

引っ越し後のマンションは、彼の大阪の職場のすぐ近くで
私の職場から遠いところにあったので
今まで御堂筋線一本で行けていたのに、梅田で乗り換えしていくから
交通費も移動時間もかかりどんどんストレスに。

島へ向かうフェリーで、海を見ながら
「私は自分の力で何でもできるように自立できるように、
一生懸命翼を生やしてきたのに、その翼をバキバキにされている」と悲しくなって泣きました。

仕事をパートにしてやりたいことができず、給料が下がって、
島でただご飯と家の掃除をさせられるだけの日々。
ご飯も作っても文句を言われ、何をしても感謝されない。
結婚すらいつするかもわからないのに、みんなにおめでとうといわれる。
全然めでたくないし、幸せではない。私、ただの召使いじゃん。

一番欲しかったのは、彼からの思いやりとか愛情だったのかもしれません。

そして、島の本屋さんで世界の絶景の本を見つけて購入して読みながら
「私は小さい頃から世界が見たかったのに、行きたかった場所にも行けずに
この島で人生を終わるのか。あんなに行きたかったセドナにも行けないのか」と絶望していました。

別れのきっかけ

そんな絶望の中、もう引っ越しもしたし、仕事も辞めたし
住所も島に変更してお父さんの扶養に入っているし
仕方ないと自分を納得させている途中
彼が私のスマホを見て、職場の人とのやりとり
(みんなで私の家に遊びにきたけど、タクシー2台できていたので、違うタクシーに乗ってる人に道案内をしていたら、1人の男の人だけ私の家にきたみたいなやりとりに見えた)を見て
大激怒。浮気しているといってききませんでした。それが8月。

それから責められ続け、家に帰った時に
彼の車があると過呼吸になりそうな不安がおそう日々。

そして別れをずっと切り出され責められ続けていました。
私ももういいんじゃない?という気持ちと、ここまでやったのに。という気持ちでどうしたらいいかわからない状態で
とりあえず、離れようと思い、9月から住む家を探しました。
7月に引っ越したばかりでいろんなものを処分したり、家電を買ったりしたので、また1から自分で揃えてとなると大変だったので
初めてシェアハウスというものを見学に行きました。

シェアハウスに避難

私が初めに見学したシェアハウスは普通のマンションの1室に女の子4人で住んで、リビング、キッチン、トイレお風呂は共同というタイプのものでした。

すごくワクワクしたので、ここに決めました。
そして少しの荷物を持ってここに住み始めました。ここは新大阪にあり、会社も近くてとても便利なところで
オーナーさんも住んでいる女の子もとてもいい子でした。

この引っ越しで、人間というものはいくらいいものを持ったとしても
持って移動できるものは限られているんだなということを学びました。

島の自分の部屋に用意した高性能の空気清浄機も、オーダーカーテンも
食器の数々もインテリアも車も

新しいマンション用の新しい家電も家具も、持ってくることはできませんでした。集めていた高級食器も何もかも置いてきました。
本当に持ってこれたのは、僅かなものでした。

正社員復活

そして、お互い離れて考えた結果、12月に本格的に別れ、1月から仕事を正社員に戻してもらい、島から住所変更をして
お父さんの扶養から外れ、再び自分の力で生きていけるように戻ることができました。

せっかくパートになったり、会社に縛られるより
新しいことを初めてみようかという思いも巡りましたが、
当時の私にはそんな元気がありませんでした。
何をすることもできずに、そんな自分を責めていたけれど
今から思えば「何もできなくて当たり前、生きてるだけで十分だよ。」
って思います。

私の学び

この出来事で私の価値観は大きく変わりました。
そして書いていて思ったのが
「仕事をなくし、全然知らない土地で、ご飯作って掃除するしかない」って今も一緒なんですね。フランスで私は友達もいなければ、話す人もいないし
島でいるよりずっとずっと孤独です。
でも、思いやりと優しさのあるパートナーがいるだけで、全然違うんだなって思いました。

そしてこれは、何度もインスタなどでお伝えてしているんですが
「これだけやったのに」は手放さないと苦しいということです。

何かにエネルギーを注いだり、お金をかけたりすると
「これだけやったのに」という執着に変わり、もう必要無くなっても
自分にとって悪いものでも、いつまでも手放せないでいてしまいます。

また人に対しては、見返りを求める行動となり
望んでいるものが返ってこないと、それが憎しみにかわり自分の心を乱すことに。

人生はいつでも今が一番若いので、手放すなら今なんですね。
始めるのも今、捨てるのも今。変えるのも今。
「今まで」とか考えすぎずに、今できること
したいこと、心が望んでいることを大切にしていかなくてはと感じました。

そして大切なのは、条件とかではなくて
心の声をしっかりと聞くこと。心は常にSOSを出したり、違うと教えてくれていたりしています。
Yesならワクワクをくれます。スムーズにことを運んでくれます。

また不思議なもので、本当にNGなら
自分がどれだけ望んでも勝手に強制終了されるんです。
これは以前投稿した美容クリニックの話もそうですが
私の心がNGを出しているのに、頭で考えて留まっていると
向こうが勝手に強制終了をしてきてくれるんです。

私はこの彼とは本当に結婚しなくてよかったと思っています。
(まぁ誰がみてもそうよね、むしろ早く別れろって感じだよね、笑)

島暮らしの時の本を片手に
セドナに行こうと決めた先で、今の夫と出会った話はまた今度書きますね。

読んでいただいてありがとうございます。













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