見出し画像

ヤンフレ小説_230908

『5日間』

2.

 引っ越しはユリアンの分も含めて既にほとんどは済んでしまっていて、残りは三日分の生活に必要なものだけだ。本は数冊残してはいるがあとは電子書籍で済ませている。家電類はユリアンが欲しいというので全て譲ることになり、ユリアンの旅の間は保管庫に置いておく予定だ。家具はどうしようという話をフレデリカとしたが、彼女も私もそのまま使いたいということで意見が一致し、明日、フレモント街の新居に運び込まれる。私とユリアンは今日まで官舎で暮らし、後はホテルに移ることになる。フレデリカは結婚式直前まで友人宅で居候をし、前日にホテル暮らしになるそうだ。
 今日はフレデリカと会う予定はないし、私は同じく予定のないユリアンとマシェンゴと共に自宅で過ごしている。マシェンゴは悪い奴ではないのだが、あと少しでユリアンとは別の暮らしを始めることになるこの大事な時にいられるのは……率直に言って邪魔だ。私はユリアンともっと話がしたいのに、いつもマシェンゴと一緒で旅の話をしている。食事中もにぎやかで、とてもじゃないが二人きりでしたい大事な話ができない。これが巣立ちゆく子を持つ親の感情なのかなと思うが、まあユリアンとは今生の別れでもないので、旅から帰ってきたらいつでも話せるだろうと思い直した。
 昼食を済ませ、私は一人で散歩にでかけた。ハイネセンには長く暮らしているわりに仕事であまりいる機会がなかったが、やはりこの初夏の季節が一番気持ちがいい。陽が夏より明るく、新緑の隙間から白い木漏れ日がさして道や人々を輝かせる。涼しく穏やかな風が時折私の髪を揺らす中、私は官舎街の側にある公園のベンチに腰を下ろした。
 ふと思い立って、私は自分の携帯端末の写真のフォルダを開く。あまり写真は撮らない方だが、スクロールがなかなか途切れないので意外と写真がたまっているのが分かる。ユリアンにお願いして個人の端末にだいぶ移したのだが。
 人物検索を開いてみるとそこにジェシカの顔があった。彼女と写した写真はたしかあまりなかったはずだ。二人だけのものよりも、ジャンと三人で写っているものが多い。だからラップトップからも携帯端末からも特に消さずにそのままにしていたのだけれども。
 ほんの一カ月前まではまだ乾坤一擲と言ってもいいほどの戦闘を行っていたし、退役後も慌ただしくてうっかりしていたが、気がついたのは昨日、なんとはなしにフレデリカからのチャットを眺めていた時だった。
 ジェシカからのものを、結婚する前に消すか、処分する必要があるのではないか、と。
 私自身に関して言えば、彼女に対する感情はもう懐かしい過去のものとなっている。事実そうだし、フレデリカを裏切るようなことは何もしていない。と思って私は携帯端末に残っているジェシカからのメールを探して読んでみた。ところが不思議なもので、彼女のメールを読むと、当時それを読んでいた時の感情があざやかに蘇ってくるのだ。そしてそれを外側から見つめ警鐘を鳴らす現在の私も確かに存在する。私は後ろめたい気分になってすぐにメールアプリを閉ざして端末を手放した。息を吐き、自分はまだジェシカに未練があるのだろうか、と考えてみる。でもそんなことはない。というかそもそも、あれは恋だったのだろうか。その時点でフレデリカに抱いている感情とはまるで違うことは自分自身のことだからよく分かる。
 中途で終わってしまったからだろうか、と私は考えた。最後に彼女に会った日に、私は自分の想いを告げられなかったし、彼女をハイネセンから脱出させることもできなかった。彼女は自分は一人でやっていくと私より先に告げ、私の言葉を封じてしまった。君が好きだから逃げてほしいと喉まで出かけ、自分に彼女の人生を翻すことができるだけの影響力と権利はあるのだろうかと怖気づいた。気持ちは整理されていると思ったが、その後悔がいつまでも宙に浮かんだままなのが、私の気持ちの揺らぎの原因なのかもしれないと私は考えた。
 ジェシカからもらったものは、なかったはずだ。彼女からのプレゼントはいつも花とお菓子だった。本好きに本はあげられないし、金券は嫌だし、と彼女は言っていた。写真は、ジャンがいるならば残しておきたい。残るはメールだ。メールは手元に残っているだけなので、それを開いて消していこう、と私は決めた。ただ、全部消してしまうのは、彼女の存在まで消えてしまうみたいで抵抗がある。ジェシカは確実に自分の人生に強い影響を与えたひとだ。すべてなかったことにしたくはないし、できないのではないか。写真もあるが、すがたかたちではなくて、言葉をなにか一つでも残しておきたい。けれども、メールを見てああいう気分になるのはフレデリカに対して申し訳ない。浮気ではないけれども、ほんのささいなことでも、たとえばメールを何度も見て過去の感情を蘇らせるような、他の女性に気持ちを移す振る舞いをすることだけでももう私は嫌だった。
 私はもう一度息を吐く。そしてフレデリカに内心ごめん、と謝る。今だけ少し時間をもらえないだろうか、と。そして私はジェシカからのメールを検索で集め、読み始めた。一括削除ではなく、ランダムに一通残して機械的に消すのではなく、読んで判断しようとしているのは、残るのにふさわしい……つまり感情が動かないもので、ジェシカらしいものを探したかったからだ。
 彼女からのメールは読むとたわいないものだった。たいてい電話で済ませていたからだろう。学生時代のものはほとんどなく、前線勤務が始まってから急に増えている。ほとんどが私の様子を心配するものだ。それから、ジャンと三人での待ち合わせ。誕生日や出世祝い。文面を見ると、なつかしさで胸がしぼられる心地がする。そして浮かびあがりかけては沈ませる凪のようなかすかな愛。一通、一通読みながらそのたびに消していく。流行歌や文学に出てくるありふれた行為。誰もがこういう感情を通過していくのだろうか。完全なさよなら。私はジェシカに最後の別れを告げている。それは忘れることではなく、特別だったなにかを人生のあらゆるものと価値が等しくなるよう均質化していく作業なのだろう。
 午後の公園で私はベンチにきちんと座りその作業に没頭していた。候補のメールをいくつか残し、最後は彼女の死後、クーデーターで止められていたハイネセンのメールサーバーの通信が回復してから送られたものだった。『ごめんなさい、今までありがとう』それが彼女の結びの言葉だった。私はそれを少しの間見つめ、他のメールと同様、削除した。そして候補のメールから一通、これにしよう、と決め、他を削除して私の儀式は終わった。
 腕を下ろし、私は頭を上げる。新緑の間から垣間見える日差しと空の青さ。今日は美しい日だ。こころばえの美しいひととのきれいな別れにふさわしい、明るく爽やかな日だ。不思議と私は笑んでいた。気持ちが軽くなったような気がして、私はジェシカに感謝した。
 最後に残った一通のメールは、ジャンとの結婚式についての話だった。そこには『あなたに向けて花嫁のブーケを投げるから、ちゃんと受け取ってよ?』と書かれていた。私は『女性の恨みは買いたくない』と返事をしたはずだ。私は結局花嫁のブーケを受け取る機会はなかったが、彼女の祈りは天に届いたのだろうか。私はあの激戦から生き残り、こうしてあと数日後に、これ以上望むべくもない幸せな結婚をしようとしている。あまり私は死後の世界について考えたりはしないが、ジャンとジェシカが私に約束通り、ブーケを渡してくれたのだろうと考えることにしよう。それが私に彼らがくれた最後の贈り物だ。ありがとう、と私は心の中で呟く。それから、私はこの世で最も愛する人と、ずっとしあわせに過ごすだろう、と続けた。

 携帯端末をポケットにしまい、私はベンチから立ち上がった。すぐに帰るには惜しいので、少し散歩をしようと思いたち、私は公園を歩き始めた。
 もしフレデリカが疲れていなかったら、カフェでお茶でも一緒にしようかと考えながら。

 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?