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ヤンフレ小説_231122

『Home』

 目が覚めると、ベッドルームの窓の外は疑似太陽光が眼下のイゼルローンの街並みをオレンジ色に染めていた。扉の向こうに続くキッチンから、ことり、ことりとカッティングボードが鳴る音がする。そのたどたどしいリズムは、もうすでによく馴染んだものだ。彼女も仕事があったのに申し訳ないな、と私は毎日思っていることを、決して心のこもらない通過儀礼ではなくまた考えていた。疲れている日は無理しないんだよ、と声をかけているけれども、彼女はいつも笑い含みに大丈夫ですと返事をする。冷蔵庫には週末に彼女が熱心に考えた献立表があり、冷蔵庫の中にはその材料が鎮座している。ユリアンは訓練で遅いので、イゼルローンに来てからは彼女が一家の食事を作っている。少しずつ増えていくレパートリー。失敗することもかなり減った。けれどもいきなり歴戦の猛者になれというのは無理なので、やはりナイフを扱う手つきはまだおぼつかない。手を切らないかなと少し心配はしているけれども、もともと身体能力の高い人なので、そういうことは今までも全くない。

 
 じつは、料理が作れないんです、と消え入りそうな声で彼女が告白したのは、私達がハイネセンに帰着し、正式に交際を始めてからすぐのことだった。五月の緑が木漏れ日をつくるカフェテラスには人がたくさんいて、そのざわめきが邪魔をして彼女の仔細な前置きは正直よく聞き取れなかったし記憶にもとどめていないのだけれども、要はそういうことだった。私の方では特に困ることはなかったので、「そうなんだ」と気楽に返事をして「私もなんだ」と気軽に笑ったけれども、彼女は真面目な顔をしていた。
「料理教室は今はどこもやっていなくて……一緒に暮らし始めてからになりますけれども、私、一生懸命頑張りますね」
「いや、べつに私は料理が食べたくて君と結婚する訳じゃないから、君が苦手というなら、無理しなくていいんだ。なんなら、出来合いでもいいし……」
「それはいけません」
まろやかな、けれど意志のある声で彼女は首を振った。何かいけないかな、と私が内心で首を傾げていると、彼女はちらりと笑みを見せ
「すみません。おっしゃりたい事はわかるんです。嬉しくは思うんですけれども、そうじゃなくて……私が単にやりたいだけなんですけれども。でもあまりにも下手なので、焦げ墨みたいなものを出してしまうかもしれなくて」
そんなに下手なんだ、と思わず口にしそうになり、私は慌てて口をつぐんだ。この場にふさわしい言葉を頭の中で探し、私はすぐに「墨なら体の匂いが取れて良さそうだ」と冗談で口にしたけれど、彼女が真顔になったので、これも失敗だったと焦り、ごめんそういうつもりじゃと彼女に謝った。

 しかしそれにしても、と私は新婚生活が始まってから幾度目かの彼女の半失敗作──失敗作の中で食べられそうなものを集めた食事──を食べながら考えていた。彼女はなににつけても完璧な人で、振る舞いにしても発言にしても仕事にしても、下手を打つ、ということは全くないといっていい位の人だ。なのにどうして料理は出来ないのだろう。それに関して、私はむしろ可愛らしく感じている位で、こういった口にしているおぼつかない料理ですら私の持つ愛情が最上のスパイスになっていて、不満など全く感じていないのだが。
 問題なのは、彼女が、料理を失敗するたびに、少しずつ元気をなくしている所だ。もちろん、彼女はそんな姿を私に見せたりしない。ごめんなさい、と申し訳なさそうに謝り、すぐに作り直しますね、と腕をまくって再度料理に取り掛かり始める。一度、私は一人ぐうたら寝そべって本を読んでいるのも悪い気がして、キッチンまで行って彼女を手伝い始めたのだが、彼女以上に料理が出来ない私が来ても、彼女の動作の邪魔をするばかりで、三度目に彼女と私の身体がぶつかった時、ついに彼女は声をあげて笑い始め、
「あなたは休んでらして」
と『邪魔』をやさしく言い換えた物言いで私の背をそっとソファに向けて押した。そんな風に私の目の前では明るい様子を見せているのだが、彼女がひとり、食後の洗い物をしている時、本を読みながらさりげなく彼女を見ていると、流しに向かう彼女の背から落ち込みを感じるのだ。傍に寄り声をかけると、彼女はふと雰囲気を切り替え、照れたような笑みを広げ、見ちゃ駄目です、と私の目から彼女の言う所の「焦げ墨」を長く細い指を広げて隠すのだった。
 夏のある夕刻、彼女はいつものように料理を作っていた。しばらくすると夏野菜とトマトのいい香りがして、今日はラタトゥイユかなと私が声をかけると、彼女はそうですよと振り返りにこやかに返事をした。夏は私の食欲が落ちるということを彼女は既に知っていて、このごろは食べやすい、さっぱりしたものを出してくれる。陽が落ちようとしていて、私が部屋のカーテンを閉めて回り、部屋に戻るとラタトゥイユは完成していて、白い器に盛り付けがされていた。それにサラダと、カットされたバゲットサンド。みるからに美味しそうで、私は今日は彼女は落ち込むことはないなと内心ほっとしながら席に着いた。まだ西日が紅くカーテンを染める中、私と彼女はテーブルで向かい合いながら食事を取り始めた。トマトのとろみがくたりと煮えた野菜に絡まる皿を見て、私はズッキーニにフォークを刺し、ひとくち口にした。そしてそれをすぐに飲み込むと、ベーコンを食べようとしていたフレデリカの手を止めた。
「どうしたんですか?」
不思議そうな彼女になんと説明したらいいか、言葉を探しあぐねていると、彼女は止めていた手を動かしててフォークに刺したベーコンを自分の口に運ぶ。そして顔色を変えた。そのラタトゥイユは塩気が強すぎてとても二口目を口にできないものになっていた。彼女も急いだようにベーコンを飲み込み、こわばった、不安定な表情で「ごめんなさい、すぐ作り直します」と早口で呟き、二人分の皿を取り上げた。私は慌てて「いや食べるよ」と反射的に口にした。
「だめです、体に悪いから」
「でもこれはどうするんだい」
「捨てます」
「それはだめだ」
彼女の表情がかたいし、「捨てます」と断言した声音が強く鋭くて、私は彼女の感情のありかをたぶん正確に察していた。彼女から皿を引き取り、それをテーブルに戻すと、彼女はでも、とぽつりと口にする。
「水で薄めるとか」
「でも煮込みが」
「みんな同じようなことをしていると思うから、きっと解決方法があると思うんだよ。調べてみようか?」
優しい響きになるように、ゆっくりとした口調で彼女に提案してみると、彼女はキッチンに置かれたタブレットを持ってきて、検索を始めた。
 結局、ラタトゥイユは水を加えてさらりとした、幾分具材にパンチの効いたスープになった。彼女が満足のいかないような、曖昧な表情をしながらスプーンを口に運んでいたので、私は「おいしいよ」と声をかける。すると彼女は俯きがちだった視線を上げ、口元だけ、淡く笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、気を遣わせてしまって」
「おいしいから、おいしいって言ってるだけだけども。君らしくなく、少し卑屈に聞こえる」
私が口をとがらせると、彼女は気を取り直したように今度ははっきりと笑んで「そうじゃないんです」とスプーンをテーブルの上に置いた。
「いけませんね、私。自分で好きでしていることなのに、勝手に煮詰まって、勝手に落ち込んで、勝手に不機嫌になって。あなたは別に食事のことは構わないって言ってくださったのに。私──」
彼女が話を続けそうだったので、私も自分のスプーンをテーブルに置き、うん、と彼女の話を促した。
「すごく下手ですけれども、料理を作ること自体は嫌いじゃないんです。それは必死ですし、間違えないようにって気負っていると余分に力が入って疲れてしまうんですけれども……ご飯を作っている間、私、ずっとあなたのことを考えているんです。今日も食欲がなさそうだったわとか、お肉をこのごろあまり食べないから、栄養もつけないと、とか、今日は、ズッキーニをこの前はよく食べていたから多めに入れましょう、とか。不味いご飯なのに、いつも美味しそうに食べてくれるのよね、とか。
 私、ずっと本当はあなたのために何かをしたかったんです。
 ただの副官だった時は、そんな立場ではなかったから、できなかった色々なことを──たとえば、いつ見ても曲がっているスカーフを直したり、顔色が悪かったらベッドに連れていったり、ユリアンがいなくなってからくしゃくしゃだったシャツを綺麗に直したり、嫌いなものもきちんと食べるんですよと声をかけたり、そういった些末なことを。
 料理もそうなんです。ユリアンも私よりずっと美味しいご飯を、あなたに心をこめて作っていたと思いますけれど、それとはまた別で、あなたの体や気持ちがいつだって健やかであるように、私の手で守って差し上げたいと思っていて……でも、いつも変なものばかり出してしまって、あなたにしたいことが全然うまくできなくて、それで。」
 彼女がそんな思いを持って、私に食事を出していたのを、私は初めて知った。私は基本的に舌が雑だから、彼女が頑張って料理を出してくれても、味覚を的確に認知できる能力もそれを言い表せる表現力もないと思っている。だからそんなに頑張らなくても大丈夫なのに、と私は彼女と結婚してからずっと考えていた。今も、食事のことについては、それほど意見は変わらない。私と暮らしていく日々で、彼女が私のために、自分に対してがっかりしたり、腹を立てたりすることはない。
 私は彼女を幸せにするために結婚した。私のことより、彼女は彼女の幸せについて考えて欲しいし、それを掴むためにふるまって欲しいのだ。
 ただ、そんな私の考えとは別に、彼女が語った彼女の想いは私の心をたしかに暖かくしていた。それでふと気が付いた。この家はいつも心地よく、エアコンディショナーで涼しいというのにどこか暖かい。部屋はいつもほどよく整頓され、シーツや衣類はナチュラルウッドや日差しの良い香りがする。私のスペースの乱雑さは、仕事で一緒だった時と同様、私だけの快適さを保つために見逃され、仕方ないわねといった具合に放置されている。食事は、食欲の落ちる夏だというのに、いつもとても食べやすい。
 私は彼女の手で守られているのだ。彼女のそうしたいという愛情とそれを表す振る舞いでもって。明らかにやり慣れていないだろうに、毎日毎日、ぎこちなくも一生懸命に。
「うまくできていないなんてこと、絶対にないよ」
そこまで思い至ると、私は自然とその言葉が口について出てきていた。彼女は俯きがちだった顔を上げ、潤うヘイゼルのまなざしで私を見つめている。
「ありがとう。君は私にはすぎた奥さんだよ……心から、そう思ってる」
私がそう続けると、彼女は頬を染め、嬉しそうにやわらかく微笑んだ。

 午睡を軽くするつもりが、夕刻まで寝過ごしたようだった。私はベッドから降り、サイドテーブルに置いておいた資料の紙の束の上から一枚取り上げそれに軽く目を通す。彼女の手によって作られた戦術用のデータ分析レポートはいつも解析に漏れがなく的確だ。私の欲しいデータがそこに余さず記され、隙が無い。そう考えながら、私の耳には先程からずっと、彼女のならす不器用なナイフの音が入ってくる。リズム感の全くない、不規則なカッティングボードのことり、ことり、という間の抜けた音。完璧な資料を見つめていた関心は次第にそちらに移り、私は思わず口元を緩めてしまう。それからあなたを守って差し上げたいといつか口にした彼女の言葉を思い出す。
 私達の家は一日、一日絶え間なく続いている彼女の愛で満たされている。それが私達の家と家族に心地よさと暖かさを与えている。そこに私の愛は、きちんとまじり合えているだろうか。彼女を幸せにしたいという私の想いは、彼女を包み続けているだろうか。
 私は取り上げていた資料をベッドサイドに戻し、ベッドを横切った。ドアを開けると彼女がこちらに顔を向ける。「起きましたか」と笑顔を見せる彼女に私は、「なにか手伝えることはある?」と聞いてみる。すると彼女はくすりと笑い、
「いいえ、あなたとわたしが二人でキッチンにいると、観客のいないコメディーになりますから」
と軽快に私に返した。

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