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『9:00PM』

 高級士官のクラブで一人酒を飲んでいたら、「これは閣下」とよく聞き慣れた深い音色の声がして私は彼の方を向いた。夜に独りとは珍しい。そう返すと、彼──シェーンコップ少将は片眉を上げ、「いつもいつも誰かといても億劫ですからな」と発言とは矛盾するように私の隣に座った。
「座っても?」
「もう座ってるじゃないか」
私は苦笑し、彼の同席を言外に許した。彼がウィスキーのロックを頼み、杯を掲げる。私もそれに付き合ったが、どうにも心軽やかな部下との飲み会、といった気分になれないのは、これから彼が何を言ってくるかおおよそのことは予測しているからだろう。
「浮かない顔ですな」
「これが地顔だよ」
シェーンコップは面白げな顔をして私を見た。私の顔色から何を考えているのか読んだのだろう。普通は、上官が何を考えているのか理解したらわざわざそこに踏み込んだりはしないものだし、私ですら必要に迫られていなければそんなことはしないが、彼はどうもそうではなく、常に自分の上官が、自分の上に立つだけの能力と度量があるのか試す所がある。私はそらとぼけていればいいのだが、彼に関してはほとんど諦めている所もあるし、特に隠すべきこともないだろう、という程度の気安さもある。ただし、これから彼が口にすることに関しては別だが。
「グリーンヒル大尉のことは聞くな、というやつですか」
「そうだよ」
「あの新聞記事は、本当のことですか」
私はため息をついてグラスに口を付けた。聞くなと言っているのに。ただ彼の問いは彼にはいつかは聞かれるだろうと考えていたので、特に驚きはない。
「本当のことだと君は思うかい」
「本当のこととは思いませんが、閣下も大尉も自分の本音の一端を気まずい形で突かれたな、という感じですかね」
私は思わず笑ってしまった。私に関して言えばそれは当たっていたし、大尉に関しては、どうしてだかいつも彼は自説を曲げずにすべての事象に自分の見解を当てはめるので、可笑しかったのだ。
「彼女に迷惑をかけているな、と申し訳なくは思っているけれどもね。」
「勝手にメディアが『既成事実』を作ってくれたので、実情はどうあれ誰にも手出しできない所に大尉を置けて一安心ですか」
「うーん」
おもわず笑みが浮かんでしまって、私はカウンターに肘をつき、両手を両頬にあてる。彼の言っていることは文脈上は完全に正しいけれど、私の考えとは違っていた。
 査問会の間、大尉のことは心配していなかったわけではなかったけれど、奴らの目的は私なのだから、随従にまで危害を加えるということはないだろうとも私は考えていた。
 記事についてはレダⅡ号で読んだのだが、彼女がどういう状況だったのかは、マシェンゴから出立前には既に聞いていたので、私は自分の考えが間違っていたことを理解していた。彼女も十分に危害を加えられる恐れがあったのだ。ビュコック提督にお世話になっていてくれて良かったと私は心から思った。いくら彼女が強くとも、女性一人では、複数の人間に囲まれたり、銃器を持たれたり、卑怯な手を使われたらどうしようもないだろう。マシェンゴを連れてきたのも良かったと私は考えていた。常に彼女と行動を共にしていたということは、マシェンゴも彼女への危険性というものを察知していたのだろうし、彼女もそうだろう。
 記事を読んだ後、私は考えていた。もし、グリーンヒル大将が存命なら、彼女はこんな辱めを受けずに済んだのではないか。彼女は後ろ盾を無くし、天涯孤独な上に、犯罪者の系列に属す女性になってしまったのだ。どう扱われようと、それが力を持つ者であればあるほど、誰も助けず、真剣に擁護するものはいなくなるだろう。
 あの記事。私が不快に思ったのは表面的な記事の内容だけではない。あれは彼女を侮辱するものだったが、彼女に向けた「お前は美貌だけのただの女だ」というメッセージの根底に、下卑た欲望が秘められていることを私は感じ取った。いつ適当な男とこういう立場に立たされてもおかしくない、あるいはこれ以上逆らうとそうするぞという。歴史的にもよくあることで、そういう女性たちがどうなったかも私はよく知っていた。
「あなたは大尉をどう考えてらっしゃるんですか」
「得難い副官だと思っているね」
「男としては」
「君はさ、どうもいつも彼女の想いのありかはどうあれ、私をけしかけているけれども、君が失望した多くの上官たちの轍を踏ませようとしているのかな」
「そういうわけではないのですがね」
と言いながら彼はすがたのよい顔に微笑を浮かべている。
「一応、お伺いは立てないといけないかと思いまして。下につく者としては」
「何をだろう」
「大尉にお誘いをかけるお伺いですよ」
その手には乗らない、と私は思いながら私はブランデーのグラスに口をつける。今まで彼は大尉のたの字も口にしていなかったのだ。どうせ口だけのことだと私はたかをくくった。
「私は大尉ではないからお伺いは大尉にしたらどうだい?皆大人なのだから。ただ、司令部でトラブルがあるのは勘弁してほしいね」
「私と彼女でトラブルが起きるとは思えませんがね。彼女は賢い女性ですし、私は女性の要求には十分に応えられますし、自分の望まないことを回避できる程度には口も頭も回りますので」
「彼女が君の一夜の相手に選ばれることを望むかな。そうはあまり思えないけれども、君が彼女に無理強いしなければどう君が振る舞おうと私には関係ないけれどもね」
私は純粋に自分の疑問を口にした。シェーンコップは自分の誘いは女性ならだれでも乗るということを前提に話していて、実績から裏付けられる自信であるのは分かるので、その件に関しては特に言うべきことはない。しかし彼女は真面目な人だから、むしろ男女の遊びというものを嫌がるのではないかと思うのだが。
「まあ確かに閣下が関係がないと仰るのはわかりますよ。私が閣下を挑発しているだけだと思っているんでしょう」
「そうであっても、そうでなくても、私には何もいうことはないがね」
「では私は閣下に彼女に無理強いをしないことを誓って、彼女を口説くことにしましょう。私はああいう女性が好きでしてね。生硬い普段の姿が、私の手によって乱れていく様を見るのが癖になりますので」
シェーンコップが私を煽っているのは完全に分かっているのだが、あわい不快感が私の胸中に広がり続けている。これは自由にふるまえる彼への嫉妬なのだろうかと考えるが、半分はそうであり、半分は違う。私は彼女は彼を相手にしないだろうと考えているのだが、彼がどのようにして女性の心を掴むのかは分からないし、彼女もどのように考えているのかは分からない。悲しみや弱みにつけこまれたり、脅されたり。彼女は賢いし、シェーンコップは彼女の嫌がることはしないだろうと思うが、私が心配していたのはこういうこともある。今まで彼女を遠巻きに見ていた良からぬ連中が、あの新聞記事を見て、彼女を「そういうことが出来そうな女性」と認識して姿を現すのではないかと。
 彼女はクーデターまでは大きな力に守られていた。けれど今は違う。私はもしかしたら彼女に転属の辞令が出るのではないかとすら考えていたが、それはさすがに出ていないようだ。あの査問会の時、私は彼女に関したことについての意見を比較的感情を込めて連中に返したが、それが功を奏しているのだろうか。強大な軍事力を擁する私を本気で怒らせたらまずいということを彼らも計算に入れているだろうから。もちろん私自身は、その力を行使することは全く考えていないが、向こうが自らの妄想力に踊らされているのを黙って見ていても損はないだろう。恐怖されすぎたらむしろ反動も酷いだろうが。
 私がブランデーを喉に一口流し込むと、シェーンコップはわずかに身を動かし、私を覗き見る。
「で、あなたが酒を飲むタイミングは、自分の感情を見せないためですか。返答を考えるための時間稼ぎですか。それとも両方?」
「いや、たんに飲みたい時に飲んでいるだけだよ」
「なるほど」
「感心するほどのことかな」
私は苦笑してみせた。彼は他の上官からさぞや鬱陶しいと思われていただろうなと考えていた。指摘が的確過ぎるのだ。
「今、賭けますか?」
シェーンコップは目を細め、面白げに私を見つめた。私は少し嫌な予感がしながら「なにをかな」と返事をする。
「大尉の身体のどこに何か所ほくろがあるか」
「シェーンコップ少将」
瞬間的に感情的になりかけたが、私は声を抑えた。
「私は君がどういう行動を取ろうが、何においても紳士的であることを信頼していて何も言わないのだが、私は君を過大評価しているのかな。君はいつも女性を相手にする時にそういった無礼な行為をしているのだろうか」
「していませんが、閣下も知りたいことかと思いましたので」
「私はだらしのない人間だが、そんな下衆な人間だと思われるのは心外だ」
「ご不快でしたか」
「不快だね」
「何に対してですか」
大尉にちょっかいを出すな、と私は脳裏で強く思ったが、それは口に出そうと思わなかった。グラスを掴みかけ、私は先刻のシェーンコップの言葉を思い出し、思いとどまり、そしてその場が彼の言葉によって支配されているこの状況に、些少のいまいましさを感じていた。
「今言っただろう?」
「やはり、私は彼女から手を引いた方が良いのでは?お命じになられれば、私はやめますが」
「それも先程言ったね。好きにしろと」
「では私は閣下の耳に入らない所で彼女のほくろについての話を他人にすることになるでしょうな」
「それはやめるべきだね」
「そんな艶話ていど、男の間では日常茶飯事ですし、閣下だって耳にしたことはあるでしょう?それをいちいち咎めているのですか?せいぜいがところ、聞き流すくらいでしょう。なぜ大尉だけ特別扱いですか?」
私はため息をついた。誘導尋問もここまでくると酷い。彼にはMPの才能まであったのかと呆れが過ぎて感心すらしてしまう。
「うーん、それは、こう言えば満足してもらえるだろうか。『私が彼女を愛しているから』。君の用意する選択肢は一択しかないからね。そろそろこの話はやめにしてもいいかい」
「閣下。私は、あの新聞記事と同様に、彼女とどういう関係であるかという事実をよそに、彼女を落としただの、彼女の体はどうだっただの、夜の姿はどうだっただの、適当なことを吹聴できるわけでして、私の経歴からして、それを信じる人間も多いだろうと思うのですが」
確かにそうだし、それは私の考えていることの邪魔をする。「それで、何が言いたいんだい?」と私は彼に続きを促した。
「取引をしませんか」
「取引とは?」
「閣下が大尉をどう思っているのか、本当の所を教えて頂ければ、私は何もしませんが」
私は思わず笑い声を漏らしてしまった。選択肢が一つしかないと彼には言った筈なのに。彼は賢く、じっさいのところ私に関しては正確な所を突いているし、単なる自分の意見に固執するタイプではないのだけれども。
「なにか可笑しいことでも?」
「いやだって、なぜこんなことに君がこだわるのか、全くよく分からないのでね。誰が誰を好きとか嫌いとか、ミドルスクールの学生かな私たちは」
そう口にすると、シェーンコップもにやりと片頬で笑う。見目の良い顔立ちにその表情はとても似合っていたし、そのさまはいつだって彼がそうであるように、下卑た所のない堂々とした様子だった。
「閣下の本音に私は関心がありますので。隙を作ろうとなさらないのは、敵の多い閣下の自己防衛の一つかと考えていますがね。しかし人間らしい所もたまには部下にくらいお見せになられても良いのでは?」
「人間らしい。」
私は首を傾げてみせた。
「君の言う人間らしい所をというのは、つまり、私に弱みを見せろということかな。君はその切り札をいつ使うつもりだろう。例えば、以前君が私に唆したようなことを、実現するために、とか」
私たちは穏やかさを保ちながら視線を見かわした。それまで話しどおしだった私たちの間にわずかな緊張感をはらんだ、つかの間の沈黙が流れる。ややして私は息を吐き、「いいよ」と彼に返事をした。
「取引をしよう。本当のことを言えばいいんだね?では言うが、『噂を信じろ』。これが私の本音だね」
シェーンコップは首を傾け、用心深げな表情をした。私が何を言っているのか、その意図を考えているのだろう。
「つまり、噂は本当だったと?」
「事実か事実じゃないかが問題ではなくて、信じるか信じないかというのが問題だね、この場合。そして私は『噂を信じろ』と言っている。でも私は君にしかそうは言わない。私は対外的には何も言うつもりがない。」
彼はテーブルに肘をつき、自分の顎をつまみながら考えている。
「……それは、命令ですか?」
「お願いしたい」
「つまり、皆にあの話を信じて欲しいと。ではやはり、既成事実が欲しいということですか」
「そうだが、言葉というのは難しいね。全く同じ言葉を発していても、私と君とでは意図も意味も違う。まあこのくらいでいいのではないかな。すぐに君にも分かるはずだし」
彼がじっと考えている横で、私はようやく放置され続けていたブランデーを喉に流し込むことができた。軍から供給されるブランデーはさして旨くはないが、高級士官クラブで出されるそれは悪酔いしない程度には良い出来をしている。
「要は大尉を、安全な位置に置く、ということですかな?」
やはり彼は理解できたようだ。私は彼に笑みを向けた。
 レダⅡ号で考えたことには続きがある。私はくだんの記事について公に否定しても良かったのだが、すぐにそれをやめることに決めた。
 彼女は不本意だろうが、トリューニヒト派にすでに目をつけられてしまった彼女の身を守るためには、彼女に強力な後ろ盾がいると周囲に思わせておいた方がいいのだ。それが私で妥当だろうかと考えた時に、一般的な判断としては、なり得ると私にはわかっていた。彼女の愛や、彼女の立場の邪魔をしてしまうことになるとも私は考えていて、迷いはしたが、彼女に実際に会えば、そのひととなりはすぐにわかるだろうし、必要であれば個人的に話をしてもいいだろう。彼女が嫌な目にあってしまうかもしれないが、危害を防ぐということよりは優先度は低い。そして、私は公に事実関係を肯定することもやめた。否定しても肯定しても、彼女に傷がつくからだ。すまない、大尉、と私は心の中で詫び、この件に関して何もしないと決めた。
「なるほど、では私も、ひとつ協力するとしましょうか。それにしても、やはり閣下は彼女のことを憎からず思っているのですね」
「いや、仮にそりが合わない部下でも、彼女と同じような境遇であれば、私は同じことをするさ。それが上の務めでもあるしね。」
「そこは韜晦すると」
「君は相変わらず決めつけが酷いな」
「取引に満足いかずに、私が彼女に誘いをかけたとあちこちに吹聴したら?」
「困る」
彼は闊達に笑った。
「いつもいつもそれですな」
私もつられて笑ってしまった。たしかに、そう言われればそうだ。
「困るのは困るからね。ただ、君は私の信頼を裏切らないと、私は信じているのだけれども。違うかい?君には私の命令はいらないと私は思っているから何も命じないのだが。と、いうより君には命令は意味がない。君の主導権はいつも君にあるからね」
ふむ、と彼は頷き、
「まあ今のところはそうですがね。しかし実際のところ、閣下は彼女をどう思っているのですか?」
「そこは『聞くな』と命令するところだろうか」
「取引とは違いますね」
「では、『彼女は私の弱みにはなりえない』と、君に忠告するところだろうね」
「宣言ではなく忠告ですか」
「そうだよ。それはこの艦隊の連中についてもそう考えているがね。私は君も含め、皆を自分の弱みにはしないし、させないように手を尽くす。誰に対してもね。」
彼は片眉を上げて、いささかあきれた様子で私を見た。
「閣下には珍しく、はっきりした恫喝ですね。それだけ私の発言に余裕がなくなりましたか?」
「これは恫喝ではないよ。なぜなら君は命令と同じく他人の恫喝など聞きはしないだろう?君にとって私の言葉は時計のアラームのようなものじゃないか。意味はなくはないが意味をなくすこともたやすい、が確かにそこに意味はあるししかもそれは自分で決めた意味だ。そうだろう?少将」
「言外に答えているようなものだと私は感じましたが」
「君が考えたことが君の持っている答えだよ。それでいいじゃないか。じっさい、君は常にそう私を仕向けている。自分でも意味がないとは思わないかい」
「そこまで韜晦なさらなくても……。まったく……私はイゼルローンを急襲する帝国軍の艦隊ではないですよ。そこまで警戒なさらなくても」
「いや、君はいつも艦隊というよりガイエスブルク要塞級」
「破壊力がという意味ですか」
「そう」
「いつだって無様に退散という意味では?」
私は回転しあっさりトゥールハンマーに撃たれた哀れな要塞を思い出し、中にいた者たちには済まなく思うが、それはそれとしてあの時の要塞自体の滑稽な有様に思わず吹き出した。
「それは被害妄想にすぎる、シェーンコップ少将」
「あんなにみっともなくては私の立つ瀬がないので」
彼も要塞の末路を思い出したのか軽快に笑い、ようやくこの話をしまいにした。

 私たちはその後、一時間ほどともに飲み、ほろ酔いという程度で散会した。

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