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ヤンフレ小説_230920

『5日間』3


もう軍を辞めてから何日が経っただろう。だらしのない私でも仕事ではなんとか規則正しく起床していたのだが、今はすっかり夜型の生活に慣れてしまっている。それでもユリアンが起こしてくれるおかげで、私は朝八時には毎日目を覚ましている訳だが。
 引っ越しのこの日、家財の移動を早く済ませるために私は久しぶりに早朝に目を覚まし、眠い目をしばたきながら朝食を流し込んだ。それから引っ越し業者はユリアンに任せ、汚れても構わないようにデニムシャツと褪せたブラックジーンズを履いてフレモント街へと向かった。
 新居に着くと、フレデリカが既にいた。「おはよう」と挨拶すると、彼女もにこやかに返事を返す。
 私達がなぜ新居が決まってからすぐに同居を始めなかったかというと、ユリアンとゆっくり過ごす時間がほしかったのが一つ。もう一つはハイネセンの慢性的人手不足で電気、ガス、水道が結婚ぎりぎりになるまで開通しないということがある。幸い、水道は今日から使えることに決まっていたので、その日を引っ越しの日にしたのだが、電気とガスは新婚旅行中になるらしい。少しだけ残念ではあるけれども、結婚前にうかつに生活を共にして幻滅されたらおしまいだぞ、という不安もあるし、彼女と朝も昼も夜も一緒にいて「おだやかに愛を育む」ということができるのかどうか私にはあまり自信がない。
 プロポーズするまでは私たちは上司と部下という関係に過ぎず、倫理観と自信の無さが私を止めていたし、今はまだ結婚しておらず、結婚するまでは絶対に嫌われたくない、ということが私を紳士にさせている。
 彼女は男というものがどれだけろくでもない本能を隠し持っているか経験として知らないと思うし、普段のようすで清らかなひとなのだろうなという推測はつく。自分の感情の赴くままに彼女に触れて、彼女をおびえさせたり傷つけたりするようなことはできるだけしたくない。けれども私は内心、彼女を愛するようになってからずっと自分の欲情を抑えることに苦労している。最近は特に。そういう自分を私はあまり好きではない。私の愛はそういう形をしているとは思っていないし、そうであるとは思いたくないのだ。男なら普通じゃないか?と仮に当のフレデリカ自身が口にしようともそうだ。
 だからひとつの儀式を通過するまでは少し距離がある位の方が私はじつのところ助かっている。じゃあその後はいいのか?とも思わないでもないが。

 二人で部屋の床や窓を掃除していると、じきに引っ越し業者がやってきた。彼らは手慣れた手つきで次から次へ家具を運び、セッティングしていく。その差配はフレデリカがしてくれている。官舎へとやってきた時もそうだったが、私には家のこといっさいについての能力がない。官舎の時は先輩とオルタンスさんに呆れられながらアドバイスを受け、無茶苦茶だった家具の配置をしなおした。
 少し前にふたりで新居の図面を見ながら、色々意見を自分なりに出してみたが、だんだんフレデリカが何とも言えない表情になってきて、最終的に「もしよろしければ、いちど私が配置図を考えて、意見を伺ってもよろしいですか?」と気遣い混じりに提案してくれた。私は特にこだわりはなかったので同意し、結局配置図は第一案で決定した。
 家具自体は最低限のものだけだったので、受け入れ作業はすぐに終わり、再びふたりきりになった私たちは、段ボールから食器を出して棚に入れたり、クッションに新しいカバーをかけたりしていた。その時の私たちはまるきり仕事をしている時の二人で、完全に上下関係は逆転していると思うが、フレデリカの指示のもと、もくもくと自分の片付けを進めて行った。
 デスク回りの整頓が終って、顔をキッチンにいるフレデリカに向けると、彼女もちょうど手をタオルで拭きながらこちらに顔を向けているところだった。視線が合って互いに笑んだ。「キッチン終わった?」と聞くと彼女は「はい。提督は?」と返事をし、私も頷く。一階は全て終わったので、後は寝室だ。私たちは二人で二階に上がり、一番荷物の多い寝室を片付け始めた。
 それぞれの服をクローゼットやチェストにしまい、ベッドにシーツをかける。うわがけを敷き、枕をピローケースにしまう。相変わらず事務的な作業だったけれども、お互いに傍にいたので楽しみながら片付けを行っていた。フレデリカが「覚えてます?」といつか見た白いドレスを自分の体にあててみせ、私が「じつはあの時も君がきれいで呆けてた」と暴露すると、彼女が「その場で仰ってください」と照れたような顔で返す。段ボールから整髪剤を出していると、彼女が興味深げに見ているので、「これでもつけているんだ」と苦笑する。苦戦の末のはねた髪束を彼女の指先がふれ、「持ち主の性格によく似て、反骨精神旺盛ですね」と彼女がくすくす笑う。その私の髪をいじるやわらかな感触が心地よくて、私はどきりとしてさりげなく彼女の指先から離れた。それから「本当にそれはよく言われるよ」と笑ってみせた。
 荷物を一通り仕舞い、私たちはひと息つこうとベッドに並んで腰をかけた。部屋はまだ段ボールが残ってはいるが、だいたいはきちんと整えられている。それはおもにフレデリカのおかげだ。
「疲れた?」
横で息を深くはいた彼女に、私は働いてもらいすぎだったかなと心配になり声をかける。フレデリカは笑顔で首をふった。
「いいえ、ちっとも。それより楽しかったです。」
「楽しい?君といるのは楽しいけど、片付けはなあ」
「まあ、提督にとって二人の”家”ができるのはつまらない作業ですか?」
そういうことにはあまり思い至っていなかったが、そういえばここは二人の住まいなのだ。引っ越しの面倒くささばかり感じていたけれども、そう考えると今目の前で軽く口をとがらせているフレデリカがすでに私の奥さんになっていて、二人で仲良く暮らしているような気がして心が躍る。
「じつのところ言われてみて実感したけれども、そう考えるととても楽しいね」
「──私、はやく、提督と一緒に暮らしたいです」
彼女がそっと口にして、私の手の上に手のひらを重ねる。私もだよ、と私は感じたままを言う。私たちは見つめ合い、沈黙とまなざしで互いの求めることが同じだと伝えあった。
 私は彼女の顔にゆっくりと顔を寄せ、唇を重ねた。

 キスはいつも少しだけ怖い。見苦しい自分の心を隠すようにそっとやさしく口づける。彼女に無言のうちに許されて、少し前にようやく深く舌を差し入れ、彼女の咥内を愛撫することができるようになってから、よけいに緊張している。快楽で彼女を押し流さないように注意しているからだ。
 彼女と私はキスを重ねていた。彼女が私の首に腕を回し、私は彼女の体を腕で引き寄せてさらに深く唇を重ね合わせた。絡みあう舌の感覚、その敏感な場所がこすれあうことで生まれる恍惚となまめかしさ。呼気を乱しながら、私を求めるようにキスを続ける彼女に陶然としながら、私はゆっくりと彼女をベッドに押し倒していた。
 首すじにキスをすると、彼女が吐息をもらす。噛んでしまいたくなるほどやわらかい感触と、香水をつけていないありのままの彼女の甘い香りが私を誘惑する。まだ、もう少し大丈夫ではないかと私は彼女のシャツをたぐりその中に手を入れる。下着の下からじかに彼女の腰に触れると、一瞬びくりと彼女の身がふるえた。初めての彼女の隠された肌は、肌理が整い羽毛のようなしっとりと滑らかなさわり心地がする。手でふれただけで欲情を抑えきれなくなり、私はまだ、まだ大丈夫そうだからと頭の片隅で言い訳をしながら、指先を撫ぜるようにすべらせ、彼女の胸のふくらみに指を伸ばした。キスは彼女の鎖骨まで下り、私の手が彼女の胸先をつつんだ瞬間。
 強く肩を押され、私ははっとして手と体を彼女から離した。身を起こすと、彼女は今まで見たことがないほど驚いた表情をしている。しまった、やりすぎたと瞬時に思い、うろたえを押し殺しながら彼女に「ごめん」と慌てて言い、背中に手を回し慎重に彼女の身を起こす。座っている場所を後ろにずらし、私はもう一度彼女を見る。彼女は目をしばたいて、まだ茫然とした表情で乱れたシャツの胸元を手のひらでそっと抑えていた。
「フレデリカ、本当にごめん。……その、大丈夫?」
私が彼女の顔を覗き込むように謝ると、彼女はようやく私を見つめ、息を吐いた。
「あの……ちょっとびっくりしてしまって……」
彼女がそう口にした瞬間、その美しい顔がばら色に染まった。表情を隠すように彼女は俯き押し黙る。しんとした沈黙が部屋を覆い、私はなかば頭が真っ白になりながら、自分の暴走を心から後悔し反省していた。
「えっと……ごめん。ほんとうに」
その時フレデリカの手がのびて、私のシャツの袖を軽くつかんだ。
「いやだったわけじゃないんです。ただ、突然だったから……私……ごめんなさい」
その申し訳なさそうな表情に、私の方がこんなことを言わせこんな思いを彼女にさせてしまったことがいたたまれなくなった。彼女が謝るべきことでは絶対にないし、私に合わせて無理をする必要も全くない。そう彼女に言うと、彼女は黙ったまま返事をしなかった。
「あの、お昼を食べに行かないかい」
ゆっくり、彼女に自分の気持ちを伝えた方がいいかと感じ、私はそう彼女に提案した。外に出て、空気を変えた方がいいような気もしたので。彼女はそうですね、と小さく笑んだ。明らかに無理をさせていることが伝わるので、私はまた申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 私たちは近くのレストランで昼食を取ることにした。情報通の彼女は既に新居まわりの飲食店を調べ上げていて、美味しいと評判のそこがいいと私に教えてくれた。時刻はもう一時半を過ぎていたので、なんとか席につくことができて私たちはめいめいにメニューを開いた。
「提督」
「なに?」
「ここ、紅茶が美味しいらしいですよ。シロン星産の茶葉の取り扱いがあるみたいで」
「えっほんとに」
言いながら私はメニューをめくってみる。確かに、レストランでは珍しいことに紅茶のページが専門に用意されていて、それぞれの茶葉についての詳細な説明がついている。もしかして、そうだから彼女はここを選んだのだろうか。たぶん、彼女のことだからそうなのだろう。ついさっき私は彼女に無礼を働いたばかりで、彼女も彼女の理由で気落ちをしていそうなのに。
 顔を上げると彼女は「ね?」とにこやかに笑んだ。私は彼女を見つめながら、彼女のさりげない思い遣りと、今まさに普段の様子のままでいる、という気遣いをしてくれる彼女にまた申し訳なさとありがたさを感じていた。
「ありがとう、嬉しいよ」
「よかった」
「さっきは本当に──」
ごめんと口にする前に、フレデリカは優しげな声で「もうやめてください」と私の言葉を遮った。
「提督が謝ることなんてなんにもないんです。ただ私、その……掃除をして体中汚れていて、汗もかいていて汚かったですし」
「君を汚いと思うことは、仮に君が下水に落ちたってないよ。一生涯。」
率直な思いを口にすると、彼女は少し面食らったような表情をした。ん?とその顔の語ろうとするところを聞こうとしたら、
「提督は、女性にいつもそういうことをそういう気軽な感じでおっしゃるんですか…?」
と私にとっては突拍子のないことを尋ねられたので、こちらの方が驚いてしまった。
「いや女性って……そんな人今まで現れたことがないし……」
ウェイターが傍に来たので、私はランチの注文を始めた。彼女も今までの話題がなかったかのように何気ない風情でパスタとコーヒーを頼んでいる。ウェイターが去り、私は話を続けた。
「私は思ってもいないことは言わないし、リップサービスもしない質ってのは今までの付き合いで分かると思うけど、だれにでもほいほいとそんな風には思わない……というか、君にしか、こんなことは思わない」
そうなのだ。先刻の件に関してもそういうことなのだ。私という人間は、常に、何をしていてもどこか冷静で、かりに感情的になったとしても自分の状態を客観視している自分がたいていいる。よほどのことがないと私は真に自分の意思を手放すことはないだろう。私はほとんどの場合、感情より意思によって行動しているし、それが自分の性情なのだろうと考えていた。過去形を使ったのは、少し前からそうではない状態が続いているからだ。原因は彼女だ。私は彼女の前では、自分の意思が上手く働かない時がある。これもたいていの場合、優先することを優先できるのだが、どれだけ押さえつけても感情があふれて制御がきかなくなる時がある。それが彼女に伝わらないのは、感情を糊塗することにも私が長けているからに過ぎない。どういうことなのか全く分からないし、感情が激しく揺れるのでとても疲れてしまう。
 私はそのことを包み隠さず、フレデリカに正直に話した。それで、さきほど新居でも君を大切にしようとしていたのに、自分の欲望を抑えられなかったと彼女に告白した。
 彼女は自分の考えをさしはさむことはせず、私の話を黙って聞いていた。話している途中でウェイターが料理を持ってきて、私は彼女に食事を勧めた。でも彼女は首を振り、続けてくださいと私を促した。
「わけが分からないんだ。本当に、こんなことは初めての経験で。疲れるんだ。私は本当は心を波立たせず生きたいのに、自分の何もかもをかき乱されて、ぐちゃぐちゃになってしまう。でも私はやめようとは思わないんだ。つまり……君を、その……好きでいることを。君と一緒になりたいという強い望みを。」
言い終わると、私は人がたくさんいる所で何の話をしているんだ、と急に恥ずかしくなり、頭をかいて俯いた。
「提督」
フレデリカに呼ばれ、私はちらりと顔を上げる。やわらかな表情の彼女のバラ色の肌がかすかに赤みを帯びていて、気になった私はきちんと背を伸ばした。
「暑い?日差しが強いかな?奥の方の席に変えてもらう?」
「え?」
「顔がちょっとだけ赤いから」
するとフレデリカは顔を真っ赤にしてくすくすと笑い始める。なかなか収まらないので「なにか変なことを言ったかな…?」と尋ねてみると、彼女は首を振った。
「いいえ、そうじゃないんです。あの、うれしくて。私ほんとうに、こんなにうれしい日が来るとは思ってもいなくて、大げさな言い方ですけど、生きていてよかったってそんな気分なんです」
「そんな、私が君に……あれだっていうだけで?」
「はい、あれだっていうだけで」
「そんなばかな」
私は照れと、まさかという気持ちで思わず笑ってしまった。フレデリカはそんな私を優しい顔で見つめている。
「はやく、あなたのお嫁さんにしてください」
彼女は静かな声で私に言った。満席のレストランの中で、その声はかき消されそうなほどだったが、なぜか私の耳にははっきりと届いていた。
「はやく、あなただけの私に、してください」
一瞬、私は彼女の言葉を深読みしてどきりとした。彼女のヘイゼルの瞳は澄んで陽光に反射し、きらきらと宝石のように輝いていてとても美しかった。まさか、そういう意味じゃないよな、と私は思い直し、頬をうっすらとバラ色に染める彼女に「うん」、とだけ返事をする。彼女は笑みを見せながらかすかにうつむく。私の自意識過剰が入っているかもしれないけれども、今日この時の彼女は今まで見た中で一番幸せそうに見えた。顔を上げ、食べましょうかという彼女に頷きながら私はカトラリーを手にし、ディアボロ風のチキンを切ってはほおばっていく。「ほんと、おいしいね」と彼女に言うと、彼女も「おいしいですね」とパスタを上品に食べながらにこにこしていた。本人は気がついていないかもしれないが、彼女は美味しいものを食べるといつもよりずっと嬉しそうな顔をする。この先、私といて毎日彼女がこんな風に生きていてよかったと心から思って、美味しいものでも食べてにこにこしてもらえるといいなと私は彼女を見つめながら感じていた。もちろんそれは彼女にどんな時でも自分の前で機嫌よくいて欲しいという自分勝手な我儘ではなく、彼女がそんな風な気持ちに自然と思えるように私の愛を捧げたいという意味だ。私が彼女のことが好きだというただそれだけで彼女はあんなにも喜んでくれる。なにものでもない私にそこにいる価値を与えてくれる彼女こそ、私にとって他には代えがたい存在なのだ。
 
 食事を終え、私たちは店を出た。紅茶は売りにするだけはあってとてもおいしかった。もっとも私はユリアンの淹れた紅茶に舌が慣れているので、ユリアンの紅茶の方がおいしいかななどと内心でえこひいきしていたのだが。
 彼女とは明日も会うし、今日はここらへんで解散しようかという話になり、私たちは新居に戻ることにした。キッチンに置いていた荷物を持ち、二人で再び外に出る。この次この家の扉を開くのは、私達がコールダレーヌから帰ってくる時になる。その時私たちはどんな関係性を持っているだろうか。ほんの少しだけは、夫婦らしくなっているだろうか。今はまだ、想像がつかないけれども。
「提督、ありがとうございます。あの、明日のことですけれども」
「ああ、私の方こそ、誘ってくれてありがとう。できれば挨拶に行きたかったから」
明日、花を買ってから行こうと言うと、彼女は頷く。日差しの加減のせいか、かすかに複雑な表情を彼女が浮かべたように見えた。それはもしかしたら私の感情が彼女に投影されているのかもしれない。
 じゃあ、また明日、と互いに挨拶をして私たちは自分たちが住む場所に帰って行った。

 明日はグリーンヒル大将の墓参りをする予定だ。

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