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ヤンフレ小説_231029

『雪』

 雪が降ってきたのに気がついたのは、私がデータの整理をまとめ終わった時だった。降り始めのつつましやかさはすでになく、景色を白く隠してしまうほどの雪が、周囲の音を内包しながら落ちていく。ホテルの二十八階から下を覗くと地面は既に白く、人の行き来もまばらだ。ちょうどチャットの通知音が鳴り画面を見ると、夫から『積もる前にもうランドカーで帰るよ』と連絡があった。私が「艦隊のデータが整理出来ましたので送ります」と返すと『ありがたい』と返信があり、私達が面白がって互いにダウンロードした『ヤン・ウェンリースタンプ』の敬礼のマークが送られてきて私は少し笑った。いつ見てもスタンプの彼は容貌が美化されているし、顔つきが軍人らしくて可笑しい。私が幹部の方々とこれを見ている時にそう口にしたら、皆が顔を見合わせているのでどうしたのか聞いてみたら「いや、やっぱりこれは笑えるよなっていうのが総意かなって」とキャゼルヌ中将が笑い、皆もめいめいに笑いながら頷いていた。顔を見合わせていた理由は今も私には分からない。
 資料を夫の端末に送信して、私は自分の端末をたたんだ。コーヒーを淹れて窓辺に座り雪景色を見ていると、昨日送られたメールのことを思い出した。それはエル・ファシルにいる従兄弟からのもので、祖母が会いたがっているという話だった。親戚一同で待っていると。私はそれをなんの感情も浮かばずに読んでいた。夫にその件について話すと、彼は少しだけ慎重な表情をして(彼は快不快を隠す時によくその表情をする)、
「クーデターの直後に彼らから連絡はあった?」
と尋ねてきた。なかった。彼らはもちろん、どこからもなかった。それについて言えば彼らの方がむしろ同情すべき立場だと考えていると、私は本心の九割くらいを彼に伝えた。自分の些少の悔しさや寂しさは、耐えうることができた範疇だったので、言うほどのことではないと考えていたのだ。
「じゃあ、別に会う義理もないんじゃないかな」
彼はそっけなくそう言った。その冷めた語調に私は安堵し、それから形ばかりの義理を一方的に果たさなければいけない重荷が少しだけ下ろされた気分になった。それで私はちょうどこの降りしきる雪のように自分が見ていないうちに始まり、気がつくと変化してしまっていたものごとが、私とエル・ファシルにいる親戚たちとの間にも起こってしまっていたことに気がつき、内心で自分自身の感情を意外に思ったのだ。
 私はあのクーデターの件に関して、あらゆることを我慢しすぎてしまって、自分の心のありかが分からなくなってしまっているのかもしれない。そう考え、もしかしたら本当はあの時受け取った優しさやいたわりよりも、自分だけの怒りや憎しみに重きを置いているのかもしれないと思い、私は軽い自己嫌悪を感じていた。
 窓の外を見る。けれども雪の白以外、景色はほどんど見えない。音も聞こえない。小さな箱の中に一人きりでいるような心地になり、私は目を閉じる。しばらくして目を開け、私は携帯端末を取り出した。
 祖母とヴィジホンをしている最中に入口の扉が開き、夫が帰ってきた。彼は小さな祖母と私を視界に入れると一瞬だけ眉を上げ、それから私たちの邪魔をしないようにか、静かに別室へと姿を消した。互いの謝罪から始まった私たちの話は穏やかで温かく、それは心の冷たさを融解するのに十分な温度を持っていた。祖母はずいぶん歳をとったように見えた。私はむごいことをせずによかったと安堵していた。
 ヴィジホンを切ってしばらくぼんやりしていると、夫が部屋の扉から「終わった?」と小声で聞いてきたので私は頷く。彼は私の隣に座ると、私を優しく抱きよせ、頭をゆっくりと撫ぜた。
「子供扱いですか?」
と私が笑い含みに尋ねると、「嫌かな?レディに失礼?」と言いながらやはり子供相手にするように私の頭をよしよしと撫でている。私はふるふると首を振り、息を吐いて彼の肩に頭を預けた。
 彼がいったい何をどう解釈して私を慰めているのかは分からない。ただなんとなく、何が起ころうと、それによって何をどう感じようと、自分の規範から外れずにいることの愚かさと、悲しみと、ある意味での怠惰を彼は理解しているような気がする。彼の生き方も責任の重さは雲泥の差だけれども、私と似ている所があるからだ。
 「あなたもご存じの通り、同じことをしていく方が楽なんですよ?ただそれだけのことです」
「そうだね、それは確かに言える」
彼は身をずらし、私の額に優しく唇を落とした。彼の手や体は私にとっていつも心地が良く、今日はとりわけそうだ。しばらくこのままでいいですか?と自分でも珍しくせがんでみると、もちろんと彼は笑顔を見せる。
 私たちは窓辺のソファで身を寄せ合い、ぼんやりと窓の外を見ていた。景色もなく、音もなく、今は私は私自身だけではなく彼の存在を感じている。
 今夜はあたたかいものが食べたいなあと彼がのんびりと口にする。そうですね、と私は彼に体を預けながら、ぬくもりの中で相槌を打った。

 

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