見出し画像

人生タブレット

昨年の6月、乳がんの手術をした。
50歳にして初めての手術は、両胸全摘および乳房再建用の土台挿入で計10時間に及んだ。

目が覚めたら激痛。
そして酸素やらカテーテルやらで身動きできない自分の状態に軽くパニックになった。
ともかく土台として入れたエキスパンダーが痛くてたまらない。
エキスパンダーとは、シリコン挿入前に皮膚を伸ばすため、大胸筋下に入れる各200cc程度の生理食塩水が入ったシリコンの袋だ。

両胸全摘の痛みもあったはずだが、そんなもんなんでもないわてくらいエキスパンダーが痛い。
皮膚が無理やり引っ張られているので、少し動くだけで響く。
サランラップを限界まで横に引っ張ったような感覚だ。
大リーガー養成ギプスを装着させられた星飛雄馬も、きっとこれと似た痛みを感じていたはず。私は初めて飛雄馬にシンパシーを覚えた。
こんな辛いものを身に着けて頑張って訓練していたのね…
ということは、この痛みが去った暁には私もかなり強くなるはずっ!
そう妄想することで痛みをやり過ごそうとした。

計10時間というのはかなり長い。
麻酔で眠っていた私の魂は、その間どこにいたのだろう?
左手の甲に刺されたチューブから麻酔が入れられた時、不思議なことに頭髪と下の毛が一斉に痒くなった。毛穴がゾワッと熱くなったのだ(笑)。
なにこれ〜?と思った瞬間には寝てたらしい。

麻酔の影響なのか、手術のストレスなのか、術後の私は普段とは違う精神状態だった。
痛みで寝返りも打てない。寝返りどころか横向きにさえなれない。
片方の胸なら、健常側に体を動かせるが私は両胸全摘なのでそれも叶わない。
仰向けになって、時々腰を浮かせたり足を動かす程度。
そしてストレスだったのがナースステーションから響いてくるナースコールの音。
普段、人間は自分に関係ない音は無意識に遮断してる。
それが一時的に機能せず、あらゆる雑音がそのまま刺激として耳に入ってくる。

動けないし、うるさいし、痛いしで産後よりよっぽど辛かった。
コロナで面会も禁止なので家族にさえ会えない。
本当に心が折れそうだった。

そんな折、目を瞑っているのにはっきりと見える映像があった。
目の前にiPadのようなタブレット画面がある。
え? 私いま目をつぶってるよね?!
目を開けて見慣れた病室の景色が普通に見えていることを確認し、また目を瞑ってみた。

やはり見える。
ベージュのホーム画面。
しかしアイコンは何も無い。ベージュのみである。
その時、ふとある考えがおりてきた。

ああ、そうか。
生まれる時に必要な才能や気質なりをこのタブレットにダウンロードしてくるのね。
私は今回の手術で生まれ変わったようなものなので、1度アプリをすべて削除してクリアにしたわけか。
だからこれから好きなアプリ入れて人生やり直せるわけね。
アップデートなわけね。
まあ、随分古いOSだった頃のアプリを使ってもいただろうし。ダウンロードしたことさえ忘れてたアプリがバックグラウンドでメモリー食ってたり、知らずに無駄なエネルギー使ってたのかもね。

というようなことをいっぺんに理解し、そのまま眠りに落ちた。
翌日には、もうその映像は見えなかった。
何だったんだろうな、あれは。

今では胸の違和感もほぼなくなり、普通に暮らせている。
ずっと寝ているとエキスパンダーが横に流れて痛くなるくらい。
乳がんも幸いステージ1で遠隔転移なしだった。
5年間は薬を飲み、定期検査に通って再発防止に努めることになってる。
がんの種類によっては放射線や抗がん剤治療も有り得たから、薬を飲む程度で済んで本当にありがたいと思っている。

今、私のアプリがどうなってるかは分からないけど、病気前とはかなり心境が変わってる気がする。のんびり自分のペースで生活できるようになった。普通に暮らして、好きなものを食べて、行きたい所に行き、会いたい人に会えるのがどんだけ貴重か分かったから。
なんかありきたりだけど、ほんとにそうなのよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?