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理想主義くんを思い出した

米田シェフの投稿

米田肇シェフの『仕事ができなかった頃の話をしよう』という投稿を読んだ。

彼が脱サラを経て料理界へ入ったことは知っていたが、元エンジニアやら最初のレストランでの指の話やらは初見だった(壮絶・・・)。
綴られる出来事のディティールや言われた台詞につい意識を持っていかれそうになるが、どん底まで落ちた時のことを淡々と書かれる今の強さ。

この時期はとにかく毎日厨房に行っているというだけで、とにかく改善案や計画を全く立てるということを知らなくて、ただ毎日行けば何とかなるのではないかという感じでした。

 Instagram投稿より

彼はお店を変えて自分のできることを増やし、そこからまたいろいろあっただろうが、結果今の米田シェフに至る。どん底からどうするかは自分次第、そこからが自分の人生の始まりだと最後にまとめていて、スマートに手を差し伸べるような温かみのある言葉には空虚さや虚勢は微塵も感じられない。穏やかで説教くさくなく完璧だ。

ふと思った。
仕事であれ違う部分であれ、人生において、これまでの自分が抱く淡い理想や安易な成功像といったものが根こそぎ倒され、挙句の果てには自分自身が拠り所とするポジティブな自分という虚像をも塗りつぶされる経験なしに、人はスマートだったり穏やかだったりそういった雰囲気と所作を身につけられるのか?

理想主義くん

以前、驚くくらいに理想主義の若手と同じプロジェクトになった。
・仕事内容:同僚から上に見られる、パーフェクトに評価されることを求める
・友人関係:友達は地位や影響力(インフルエンサーのような)があること
・自分自身:鍛えた身体、料理の腕、計算され尽くしたインテリアを備え、
 スマートで紳士的な立ち居振る舞いだと言われる
おおよそこのような観点で「かっこいい俺」の理想像を描き、至っていない部分だらけの現実の自分に、というか自分をそうさせない周囲の環境に日々幻滅していた。私は仕事内容のみ関わり、その他のことは愚痴に混じる端々でしか知らないが、仕事領域での停滞は他とも似ていただろうと思う。

威勢よく「べき論」を唱える彼は、その後の行動がない。仕事面で先輩だった私はよく「で、次のアクションは何だっけ?」と聞いていたが、回答はいつも抽象的で、行動にはならなかった。しつこく確認すると「後で考えます。」、そして出てきた行動は当然誰もがやることも多いのだが、実践したことを称賛しないと機嫌を損ねる。他の人と比べて自分には実践に伴う高いハードルがあり、それを乗り越えたから称えられるべきという主張だ。

理想と「被」

理想像を描き「べき」と考えるのはいい。理想像が、自分の成し遂げたいことや、やりたい情動と分離しているところなんだと思う。主語が自分ではなく、相手からどう見られるかの「被」に閉じている。友達の威光も他からの視線で「そういう友達がいるあなたはすごいね」という「被」に直結し、友達との間に生じる関係性を大切にしているわけではない。
なんでそう見られたいのかを尋ねると、「自分の理想だから」。
見られることで何を手に入れたいのかを尋ねると話をはぐらかされることが多かったが、つまるところ、他者からの視線によって形作られる自身の虚像こそが満足感の源泉だったんだろう。

まぁ一言で片づけるとすれば、若かりし頃に通る「俺は無敵」状態なだけだ。
ずけずけとした物言いの同僚が、「若い時に俺らも通ってきてるから、そのうちそうやって行動しないことが恥ずかしくなって、自分を変えようと思う日が来るよ。」と飲みの席か何かで言ったはなから、「そうですよね、僕はまだ若いんでわからなくていいと思うんです。」と若さのせいにする面の皮の厚さ(回答を聞いて死者のように無感情になった同僚の顔を今でも思い出す)と相反した「いろいろ経験していてスマートなかっこいい俺」を自称する矛盾に気づいていないところも含めて通過中なのである。

その後、虚像の自分をつくることの非生産性、虚勢を張らない方がものごとの進みがよくなる現実、他人からポジティブな言葉で称えられることは自分の行動でしか得られないという事実に、理想主義くんが気づいたかどうかはわからない。
プロジェクトが終わってしばらくの後に、彼は評価してくれない上長への不満を抱き(そしてそれをベラベラといろんな人にしゃべって)転職していった。
常識がないとか、もしかしたら何らかの病気だったかもしれないし、世代的に質問の仕方まで教えないと質問できなかったり、そういうたくさんの要素が絡み合って彼の仕事上でのパーソナリティは成り立ち、私からの視点では残念ながら、そこに彼自身が渇望していた「被」としてのパーソナリティはなかった。

「被」によって、彼は手っ取り早くそうなれると信じていたのかもしれない。外見がそうであれば、中身が後からついてくる、あるいは後から詰めればいいと。

雰囲気や所作と「被」

米田シェフの文章を読んで、「被」は、経験と自分自身を対峙させ変な虚像を捨てるという、自分にとっては痛いことを経てはじめて「被」になるんだろうと改めて思った。
自分という箱を先に作ることはできなくて、起きたこと考えたこと影響を受けたこと、そういう経験を積み重ねるだけでも意味はなくて、少し時間が経過した時に何か振り返ることでようやく自分の輪郭が現れる。それが「被」として雰囲気や所作に出ることは最高な出来であり、多くはそうならずまた積み重ねの日々に戻っていく。人間の営みは面白い。


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