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<ネタバレ注意>読書レビュー&考察:市川沙央氏「ハンチバック」

第169回芥川賞受賞作品である本著。健常者が持つ特権性への指摘が刺さりますが、テーマ性が他にもあると感じたのでレビューします。

ネタバレ含まれます


いきなりネタバレ含みます。
『ハンチバック』を読んでから、本Noteを読んでください。




あらすじ

まずざっくりとしたあらすじから。
ネタバレ含みます。
いいですね?
↓↓

「私」は、親が遺してくれたグループホームに暮らす身体障害者である井沢釈華。井沢の背骨は極度に湾曲し、自分の足で歩くことはできない。零細Twitterアカウントを駆使し妊娠&中絶への渇望を投稿し、十分な不動産収入や現金があるものの、18禁TL小説をサイトに投稿し小金を稼いで寄付をする日々。
そんな生活の中、グループホームに介護士として勤める男性田中に、1.5億円と引き換えに精子提供を依頼する。

「せむし」とシェイクスピア

小説のタイトルが大事であることは言うまでもないでしょう。
「ハンチバック」という言葉がまず文中で登場するのは、グループホームでの一場面です。

せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。

p23

「せむし」とは差別用語です。本著では、せむしと書いてわざわざハンチバックという読み方を降っているほど。

「せむしの怪物」はこの後も度々出てくるのでキーワードですが、この表現を見たことがあり、ピンと来ました。

それは、シェイクスピアの有名な劇「リチャード三世」にて。
背骨が曲がっていた容貌から、リチャード三世は「怪物」と劇中で称されます。

シェイクスピアは、この史劇でリチャード三世を猛烈に醜く、性悪で狡猾に描きます。

彼は「ヴェニスの商人」でも、青年の心臓を奪おうとした悪名高いユダヤ人の商人をネガティブプロモーションしたように、ハンチバック=性格が歪んでいると喧伝することに大成功しました。

以降、背骨が曲がっている人は、背骨が真っ直ぐな人より性格がねじくれている「怪物」だと印象付けられます。

余談
近年リチャード三世に関する見直しがなされています。
2023年3月に公開された映画「The Lost King」は、リチャード三世の汚名返上のため、数百年見つけられなかった彼の墓を一般人が執念で見つけるノンフィクション映画です。

国内公開は今年9月ですが、飛行機で見て面白かったのでおすすめです。

せむしの怪物=根付く障害者差別?

なお、「せむしの怪物」は、本編の締め文としても登場します。
当事者である「私」までそう自分を表現し、シェイクスピアによる誤ったイメージを拭おうとする姿勢は欠片もありません。

これは、背骨が歪んでいる人は怪物だというイメージが一部残っているように、健常者が持つ障害者へのイメージが世間でも変わらないことを示唆するのではと解釈しました。

突然の旧約聖書の理由

『ハンチバック』は、「私」の名前である釈華(釈迦)や文中に登場する涅槃などの単語、中絶したいがその言い訳をし罪悪感を覚えるキリスト教的視点から、宗教への関連性が高いと感じます。

読んだ人なら分かりますが、本編後に突然旧約聖書らしき段落が挿入されます。

以下のように始まるので考察します。

ゴグよ、終わりの日にわたしはあなたを、我が国に攻めきたらせ、あなたをとおして、わたしの聖なることを諸国民の眼の前にあらわして、彼らにわたしを知らせる。

p81

旧約聖書は派生版とも言えるラビ(教師)による口語や様々な語り手による纏めもあり、文中の複数の段落は聖書のどの部分から取ってきたのか私には分かりません。

ただ、「終わりの日」は審判の日とも呼ばれる、唯一神が人間の行動を振り返って天国か地獄に行くか審判する日だと推測できます。
最後の審判は、ミケランジェロの絵でも知る人はいるでしょう。

※余談ですが、キリスト教ではこの日のため、新約聖書に従った暮らしをし、生き返るために必要な身体を残すため火葬せず埋葬します。

しかし、この文節での「わたし」というのが謎です。ゴグは、神に逆らう勢力とされています。ゴグに対立するのが「わたし」のようです。

引用文から読み取れるのは、神に逆らう勢力であるゴグから、イスラエルの民(神を信じる人々)を守ることで「わたし」の神聖さを証明するという意味のようです。

で、引用された文中に「わたし」が様々な超次元パワーで民を守ることを説明しており、以下の文章で終わります。

主なる神は言われる、見よ、これは来る、必ず成就する。これはわたしが言った日である。

p82

これだけだとよく分からないのですが…

芥川賞の審査員間で物議を醸したと言われる最終章に入ると、その謎が紐解かれている、と私は思ってます↓↓

最終章の解釈

ラスト数ページ。
ホス狂の早稲田生で風俗店に勤める「紗花」が登場します。紗花は、兄が女性を殺してしまい、宗教にハマった家庭から難関大学に一般入試で入学している大学4年生です。

勤め先の客と会話している紗花の語りにより、以下が判明します。
・兄が殺した被害者は難しい名前と病名だった
・老人ホームでもなくグループホームという表現

つまり、被害者は作中の井沢釈華である可能性が示唆されます。

本編から時間が流れて、井沢釈華が紗花の兄に殺されてしまった、と言えるのではないでしょうか。

また、本にはないですが以下が連想できます。

仮説1)井沢が田中にした同じ願い(妊娠&中絶したい)を兄に伝えて、何かトラブルがあって井沢は殺された

依頼を持ちかけた田中は、犯罪行動には出ませんでした。
しかし話を聞いた兄としては、井沢を妊娠させてお金をもらうより、無抵抗な井沢を殺して通帳を奪った方が早いと判断し罪を犯したたのでは?妹から馬鹿で短絡的な行動と言われている通りで、もしかしたら兄が感情的になってしまうほど嫌気を指す依頼があった(=妊娠&中絶)ことを仄めかしているのではないでしょうか。

仮説2)紗花は、事件後に井沢のTwitterアカウントを見てしまい井沢の企み(妊娠&中絶したい)を知った

これは、文中でも伏線が仕込まれています。

本編で井沢が妊娠して中絶したいというツイートをする際、

そもそも私の呟きなんて誰も読んでいないから炎上なんてするわけがないのだ

p42

と考えながら投稿していました。
誰も見てないとたかをくくっていたが、事件の発端である田中にもバレていましたし、ツイッターのハンドルネームである「紗花」を風俗で名乗る早稲田4年生も、井沢のアカウントを見たということが推測できます。

意外とツイッターは見られているのです。
しかも、リアルで繋がっている人に。

『ハンチバッグ』は井沢が神に挑戦するストーリー

ここで、先程の旧約聖書の挿入が生きてきます。

ゴグ=神に逆らう勢力でしたよね。
そして、井沢自身、自分は生きながら壊れていく存在だと。本著の有名な文章を引用します。

本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。
生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう。

p46

生きながら壊れていることが神様に許されるなら、生きるために芽生える命を殺すこと(=中絶)もいいのではないか、と補足できるのではないでしょうか。

この文章は、神に問いかけているのでは?
なお、聖書は家長制度が色濃い書物のため、中絶は厳しく禁止されています。

※聖書では自殺も同性愛も神の意志に反するとされ、自慰行為した男性も生殖行為をしない罰としてかつて精神病院に入れられましたが、米国では中絶だけ現代で罰則される法律が先日通りました。

中絶自体が神に逆らう行為です。
そうなると、井沢はゴグの勢力だと連想できます。
その井沢が神に逆らう挑戦をするストーリーが、『ハンチバッグ』です。

しかし井沢は、田中には断られ、誰か分からない「兄」に殺害されます。

しかし最終編では、井沢のTwitterにおける願いを、紗花が叶える、成就させます
これは、引用でも言われていることですね。

主なる神は言われる、見よ、これは来る、必ず成就する。これはわたしが言った日である。

p82

ゴグ(神に反対する勢力)に対して、神が保証する行為です。
そうするとこの場合、紗花は成就する側つまりは神の立場になります
奇怪なのが、井沢の願いを成就するということは、ゴグとも言える中絶(神様への挑戦)をするということ。

神様なのに行動が反転している

この曲がっている現象が、本『ハンチバック』のテーマではないでしょうか?
「せむし」は、骨が曲がっているのですから

裏テーマ:歪み

思えば、登場人物は何かしら歪んでいます。

・介護者の苦労を知らずご飯中にお喋りし、介護するのは女性であるという偏見で男性介護士に冷たく当たる山ノ内さん
・弱者男性と言いながら雇用主である井沢に態度が悪く、報酬のお金を受け取らずに辞職した介護士の田中さん

唯一両親から井沢の世話を託されたマネジャーである山下さんは、善良過ぎて逆に怪しいですが、本当にいい人なのかもしれない。

そして最終章では、神の立場である紗花が客からの妊娠に積極的なことを匂わせることで、妊娠して中絶する「歪み」が達成されることが仄めかされています。

そのため、私はこの本はハッピーエンドで円満に終わっているように思うのです。

なお、中絶するために妊娠するという行為自体を歪みであると著者が認識していることも、ある種のテーマです。

所感

さっと読める内容なのに文学としての厚みがある作品です。
健常者の特権意識をむき出しにするだけでなく、前述の宗教観と過去文学作品に加え、障害者&現代人の性、ルッキズム、フェミニズム、表象、弱者男性&インセル、世間体のようなテーマ設定が垣間見られます。

何よりところどころに散りばめられたユーモアセンス。快活な文章力と捻りある笑いは相性がバッチリです。

なお、この本をもし男性が書いていたら、十中八九主人公はハンチバックでありながら美少女顔で、10代か20代前半の女性になったのではないでしょうか。そして、自分から望む前に介護士に乱暴され、命を落としてしまい男が多額のお金を受け取るストーリー。あるある。

古今東西の本を読んでいる私ですが、若い女性が苦しむことを書きたいという欲望が見え見えの小説家は多いです。
今回主人公と著者の病状や生態が異なるとはいえ、従来の即物的になりすぎない小説が読めてよかったと思います。

※ヘッダーは、ハンチバックとされたノートルダムの鐘(現代『『THE HUNCHBACK OF NOTRE DAME』』)から取得。

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