見出し画像

またね。

静岡の伊東というところに向かっている。まっすぐに悲しむために。
(猫を亡くしたかなり私的な日記なので、結構克明に書いてます。自衛ください)


2022年6月8日、飼っていた猫(さち)の四十九日だった。その2週間前ほどから、自分の心の中の声が頭の中で妙にガンガンと響く事象があった。これは精神的に参っている時に私によくある事象なので、ああ、成程ね、と思いおとなしく過ごすことにした。おとなしく、というのは心の中の波風をあまり立てないように過ごすことで(喜怒哀楽の幅を小さくするイメージ)何か辛い時が起こった時に昔からそれをして生きてきた節もある。さっちゃんの写真も一切見れなくなってたことに気づいた時は、ちょっとやべーなと思ったけど。

そして山場と思っていた四十九日を超えて、ふと「ちゃんと悲しみたい」という思いが生まれた。いや、亡くなった時、これからの人生の中で発生するであろう涙、ほとんど流し尽くしたんじゃない?というくらい泣いたんだけど。でもただただ「さみしい」と思っていた私を、今の時点でもう少し言語化、更には公的な場所で書いておいたほうがいいのではないかと思ったのだ。私と公だと私はだいぶ書き方が変わるので、客観視という意味でも。私的なメモは大量に残してるけど。

今まで、私はよく心的な自傷行為をしがちと指摘されてきたこともあったけど、これは今までのそれとは違う気がする。



「さち」と名付けたのはまあそのまま「幸」で、人には自分が幸薄いからこの子には幸せになってほしい、とか適当なことを言っていたけど、自分への自虐はまあそれとして、心から彼女には幸せになってほしいから、というのは本意です。


2022年4月、さっちゃんが亡くなった。あと数日で13年一緒に過ごすはずだったその猫は、大阪の保護猫団体から貰い受けた猫だった。

何故猫を飼いたくなったのか。恐らく最初、周囲には「猫を飼う」とだけ急に言いだしたと思われるので、その頃近くにいてくれた人たちに大いに心配をかけたと思うのだが、端的に言うと帰る場所を作っておかなければ(そのとき)危ない、という気持ちだったのだと思う。


猫、いやそもそも動物を飼ったこともなくて、どうなることかと思ったけれどトイレもすぐに覚えてくれたし、机の上に上がって私のご飯を食べたりすることもなく、部屋を漁って誤食したりすることもなく、非常に賢い猫だったと思う。
ただ、ベッドへの粗相と、私の帰宅が遅くなったら家を荒らしまくるのは困ったけど。でも粗相も数年で収まったし、家を荒らす頻度も成猫になったらかなり減った。

2019年までは私はふらふら生きつつさっちゃんの元にちゃんと帰りつつ、演劇や映画に携わりつつ、と2009年に一緒になった時から同じような時間(大事な時間)を過ごしてきていたが、2019年の彼女のてんかん発症から生活は一変した。


それまでワクチン接種でしか病院に行ったことがない、元気なおなかぽっこり食いしん坊だったので、きっと彼女は老衰で亡くなるのだろうなと思っていた。平均寿命も延びてきているというし、15歳、いや20歳くらいまで生きてくれるといいな。猫は腎臓が弱いといというからそのあたりは気をつけなくちゃな、と思ってたくらいの、傲慢な私は原因不明の「てんかん」発症で砕け散った。

以前のnoteにも書いたけど、どんなてんかん薬も効かない。症状が酷くなって、一度入院をさせてたみたものの、怯えるばかりでより悪化をしてしまうため、結局すぐに家に連れ帰った。しかもなぜか病院では、病院が怖いというストレスのせいか発作が出ない(主治医の方も首を傾げていた)ので、家での発作の様子を動画に撮って、発作頻度のメモをして、それを主治医に定期的に通院して見せながら対策を講じる日々が続いた。
特に夜に発作が多かったので寝れないのは仕方ないとして、それよりもそれまで可愛い可愛いと撮っていた携帯の写真フォルダが、彼女の苦しむ姿で埋まるのが耐えられなかった。

その時からだと思う。ちゃんと言葉にしないと彼女に伝わらないんじゃないかと思って、とにかく思った言葉を口にするようにした。めちゃくちゃ今日も可愛い、発作辛いよねごめんね、絶対良くなるから、大好きだよ、とにかくその時感じた言葉を口にしまくった。
(蛇足だけど、小さい頃小児喘息で夜眠れないことが多かったのだけど、その時周囲の大人に何も口にされないのが辛かったので、反面教師的にやっていた部分はあったのかもしれない。闇深い経験が動機になることもあるものだ)

とりあえずてんかんはMRIを受けることで原因?が分かり、ただその原因も通常ではありえない原因だったので(甲状腺機能亢進症)毎日注射を打ちつつ、何か様子が変わったら病院に直行する、という日々が続いた。(正直この三年間、保険なしだったので1ヶ月十万単位でお金が吹っ飛んでいった。主治医はその辺りも気にかけてくださる方だったけど。マジ保険かけておけばよかったと思いました、所感として。単純に生活が危なくなる)

少しずつ事態が動いていたのは昨年末。水っぽい咳が出るようになった。原因は分からず、ただ心臓に少し異変が見られるということで、ステロイドは心臓に負担がかかるから、咳の治療はまず様子を見ようということになった。
しかし、昼夜問わずの咳で彼女が眠れなくなってしまい、私自身も小児喘息かつ大人喘息にもしっかりかかった身としては、咳発作の辛さは分かるつもり。猫のしんどさと比較難しいけど。
そこで、主治医と相談してステロイド治療を微量からスタートすることになった。猫の喘息治療も、とどのつまりはステロイドしかないらしい。

一時的に治ったが、数週間でまた咳が頻発。その頃には「恐らく猫喘息」という診断が出ていたが、心臓の専門医の方から「副作用の観点から、継続のステロイド治療は勧められない」と言われ、ステロイドはなしで進める。でも、全く咳が止まらない。
ぐったりしたり、低体温になってしまって慌てて病院に連れて行くことが数日間続き、もう一度ステロイドをほんの微量で試してみたい、と私の方から打診して主治医も「それがいい」と話し合い、治療方針を変更した2週間後。

午前中、ちょっとぐったりとしていた。ただ、その翌日に病院に行く予定だったので、今日病院に行って彼女にストレスを与えることもよくないだろうと判断して在宅の仕事をしつつ、ちらちら彼女の様子を見ていたのだが、18時20分頃から急にてんかんと咳発作が出て、10分ほどで彼女は亡くなってしまった。

ゆるゆると眠るように亡くなるなんてことはなくて、めちゃくちゃ苦しんで、にゃあにゃあ鳴いて、部屋中を暴れまわった。
彼女は苦しい時も暗いところに隠れることはなく、発作が起きそうになったら私から少し離れてから苦しむ性質だったのだけど、最期も隠れることはなく、ただ、初めて、私に助けて、助けてというように私の顔を見て暴れまわってにゃあにゃあ鳴いた。

私はそのとき、わたしの中に彼女が亡くなるなんて本当に全く一滴も思う要素がなくて、彼女を病院に連れて行かなくちゃ、あっでも病院で発作が起こらないかも、動画を撮らなきゃと思って最初は動画を撮っていたくらいだった(その動画は亡くなってから一度も見れていない)。

でも、尋常ではない暴れ具合におかしい、と思い携帯を放り出してとにかく彼女を落ち着かせなくてはと思い抱っこした。そして、病院に判断を仰ごうと電話を片手で操作して繋がるのを待っていた矢先、急に彼女の呼吸がすんっと穏やかになり、あ、発作が止まったんだ良かったと思った、その瞬間、彼女の瞳から光が消えた。


嘘でしょ、と思った。意味がわからなかった。
まだ温かい彼女の体を抱きしめながら、病院に電話をした。言った内容は正直覚えてないけど、「さっちゃんが、今亡くなったかもしれない」というようなことを言ったのだと思う。先方からの質問にしどろもどろで答え、それから、いつもの主治医ではない先生から、お悔やみの言葉と、明日清拭をできればしてあげたいので病院に連れてくることは可能ですか?と言われ、訳の分からぬままOKを伝えて電話を切った。

そこから、とにかく泣いた。寂しい寂しいと彼女を抱きしめながら数時間泣いていた。ただ現実に対して、駄々をこねていたんだと思う。駄々をこねたら、無い物ねだりをして彼女の死を否定したら、この小さな温かい身体がむくっと動いて、目に光が戻って、お互いが寂しがりで、常に私の横にいてくれたさっちゃんがまた取り戻せるとバカみたいに信じていた。


そんなはずはなく。死んだものは還ってこないので、彼女の身体は冷たくなっていくわけで。そこから、やらなくてはならないことをもたもたと始めた。
そういえば明日病院に連れて行くんだった、と気づき死後硬直が始まっていた彼女の体がキャリーに入るようにゆったりと曲げた。冷やせ、あと、口や肛門に脱脂綿を当てておいた方がいいと病院に言われていた気がする、と思い出してその通りにやった。そして、私と彼女のことを気にかけてくれていた友人たちに伝えなくちゃと、LINEを送った。ああ火葬の手配か、と思い「猫 死んだら」で検索してその字面に震えてまた泣き、数時間かけて火葬の会社を調べた。

火葬までのひとつひとつをクリアしていくのも寂しかった。どうして燃やさなくちゃいけないの、とまた子供のような思いが出てきて、大事な人たちの「死」に直面してきた人は本当にすごいなと茫洋と考えながら、彼女との本当に最期の時間を過ごした。


火葬は友人が二人立ち会ってくれた。綺麗な青空で、雲ひとつない日だった。あの子は一度脱走したことがあるのだけど、家を間違えてお隣の家に帰ってきてしまったうっかりさんだったから、これくらいの青空だったらさーっと空にいけるのかもな、と思った。


まあ、これを書きながらずっと泣いてるわけだけれども。
この泣いてる理由はやっぱりどう突き詰めても「ただただ、愛したものがいなくなって本当に寂しい」というところだわ。愛ってこれかあ。

飼っているペットが病気になった時、どうするかはそれぞれの飼い主の考えになる。


てんかんになって病院に連れて行っていたのは、私が彼女と離れたくないからだった。
MRIを受けさせたのは、ステロイドを投与したのは、彼女が辛そうにしているのを、私が見たくなかったから。
彼女が死んで、たくさんの言葉を私の友人からもらった。そのどれもに私は泣いた。私が慰められるばかりだった。


「私が」「私が」ばかりで笑ける。いやマジで。

彼女は人間の言葉を話さない。私が勝手に解することしかできない。

嫌われてはいなかった、と思う。
私が凹んでいる時、身体の一部分をひっそりとくっつけてくれていて、恐らく「しょうがねえなこいつは」と思っていたのだ、と思う。
病院に行く時、最初は暴れ回っていたけど、だんだんすんなりとキャリーに入ってくれるようになったので、病院が自分の症状を治してくれる場所と思ってくれるようになったのだ、と思う。
「人間」「猫」というより、「麻衣」と「さち」で付き合ってくれていたのだ、と思う。

段階別にどんどん自分が図々しくなっていってるけど、そのステージまで引き上げてくれたのは、友人たちで。飛び込んで掬い上げてくれた友人たちに本当に感謝している。
心的にダメージを喰らっている人間に対峙するって勇気がいると思うけど、そこをひょいっと飛び越えてきて火葬に付き合ってくれた友人、ずっとメッセージを送ってきてくれた友人、写真を一緒に眺めて、話を聞いてくれた友人。


私はあまり魂とか信じてこなかった性質だけど、彼女の存在が部屋から少しずつ消えていく(と感じる)のは本当に怖かった。

仕事中、彼女が気に入っていたクッションをふと振り返って眺めてぼーっとして、雨の日に亡くなったから雨の日はちょっと憂鬱になって、彼女の写真の前に花を飾るようになって、綺麗なものに少し救われて、今落ちてるな、と思ったら人と会ったり違う土地に行くようになって、毎日彼女にごはんと線香を手向けて、また泣いて、


あいつ凄くて。
彼女が亡くなったのは私の誕生日のちょうど2ヶ月後。月命日=私の誕生日。人の誕生日とか大事な日をすぐ忘れる私だけど、こんなん忘れようがないわ。
呪いのように「私を忘れるな」と言っているようで、そのことに気づいた時は笑った。愛と呪いとは紙一重、とは使い古されたように思うけど初めて実感した。あの子が聞いたら怒るかもしれないけど。


帰ってきなよ。
そうしたらまた、一緒に生きよう。

ああ、まだやっぱりだめだ。
失った気持ちを、さみしい以外に代えられない。

生きる糧にします!!!