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なぜひとり親家庭になったのか②

なぜ母が入院しているのか、本当の理由は隠されていました。
父からは、体が悪くて入院していると説明されていました。
うっすらと思い出せるのは、面会したときのこと。
机を挟んで母が座り、隣に妹がいる空間です。病室ではなかったような、、。

入院して、母の状態は良くなっていったようです。
しかし、パニック障害という病気は、回復に向かい、自分の置かれている状況を感じられるようになったときが危険なようで、
「家事育児なにもせず、入院までして家族に迷惑をかけている」と思ってしまった母は、自分で自分の生涯を終える決断をしたようです。

なんとか一命を取り止め、命を繋ぐための病院へ転院します。
しかし、小学4年生の5月、休日だったのか、母が危篤状態だったから学校を休んだのか、分かりませんが、
病院で朝食を食べようとしていた頃でした。母は他界しました。

母が亡くなった直後のことは、正直あまり覚えていないのですが、
一旦家に帰ってきたような気がします。
お葬式では、私も妹も泣いていたようです。
お葬式の時のことは、ぼんやり思い出せるような思い出せないような。。
本当に理解した上で泣いていたのか、状況は理解できないけど周りが泣いていたから涙が出たのか。
この頃には、母がいない生活が当たり前になっていたので、実感も湧かず、
ただ黒い服の大人がいっぱい来て、私たちを見てまた泣くので、「かなしいんだ」「私たちは可哀想なんだ」と思いながら泣いていたような、そんな気がします。
なんとも心のない子どもですが、
お葬式の数日後に控えていた学童のキャンプに行く気満々だったらしく(周りの大人が延期にしてくれましたが)、
心なんてものはとうに機能していなかったのだと、思います。
いや、守るために機能していたからこその状態なのかもしれませんが。

母が亡くなり、父は子育てしやすいように、家の近くの職場に転職しました。
父は色々悩んだようです。私と妹の面倒を母方祖父母の家で見てもらう選択肢もあったようですが、育てる決意をして、転職したようです。
私たち子どもの暮らしは大きく変わることはありませんでしたが、当時の父のプレッシャーやストレスは計り知れないものだったのだと思います。
それまで亭主関白で仕事熱心だった父です。慣れない育児、しかも女の子2人を育てること、ここまでは入院生活中も行っていたことですが、加えて転職までして、生活環境はガラッと変わり。。心への負担も大きかったと思います。

母がいたときの生活を思い出せないので比べることはできませんが、この時から心がつらくて苦しい生活が何年も続きます。


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