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手を頬にあてた仏は、思惟観音と言われるのが基本。 だいたいは右手を頬にあてるけれど、まれには、左手をあてているものもあるようだ。 また、観音と呼ばれず、「歯痛地蔵」と呼ばれている場合もある。 仏典などあまり読む機会もなかった庶民にとっては、石で彫られたものは、全て地蔵様となったのかもしれない。 ただ、それは、それでいいと思う。 たいせつなことは、拝む対象があること。 あまり信仰に理論付けを持ち込むべきとは思わない。
仏像の配置も、様々な決まりがある。 基本的には、それぞれの経典の記述に基づき、配置される。 ただ、それが守られるのは、寺院の内部。 石仏になると、それほど厳格ではない。 修行の場所には、神変大菩薩(役行者由来)という決まりがあるらしい。 その場所に阿弥陀如来が立つと、「決まりを無視した」とか「仏典を理解していない」と批判する学者もあるとか。 しかし、阿弥陀如来が立って、何が悪いのだろうか。 そうやって仏を区別する学者のほうが、心が狭く不用な縛り、つまり煩悩に囚われているような
仏の教えは誰のためのものなのか。 しっかりと経典を勉強した僧侶でなければ、語ってはいけないのか。 特に権威主義に陥りやすい人が僧侶になった場合、 「僧侶でもない素人が、仏の話などするな」、怖い顔で脅してくる場合がある。 そんな怖い僧侶に頭を下げるよりは、道端の石仏を拝むほうが、よほど救われる気持になる。 偉くて怖い僧侶にとっては、そんなことは眼中にないのかもしれないけれど。
人間というものは、どんなに落胆している状態であっても、身体の欲求には抗し得ない時がある。 それは、生理現象も含まれる。 腹は結局は減ってくるし、眠くもなるし、トイレは避けられない。 また、ずっと座禅を組み、悟りの深遠を考え抜いた禅僧が、突然後ろにひっくりかえって、壁に頭をぶつけて、その瞬間に大笑い、それで「悟り」を得たと言った話もある。 すべってころんで、石仏に頭をぶつけたら、痛い。 どんな偉い坊さんでも、どうでもいい筆者でも、それは同じこと。 これもまた、ひとつ
社殿が大きいとか、本尊が国宝だからと言って、仏のご利益は道端の石仏と変わりがない。 そもそも、国宝は文化財保護法により、認定されたものであって、人間によって「文化上で意義がある」と認定されたもの。 また、文化上「意義がある」と思っていても、正倉院宝物はあくまでも天皇家の所有物、国宝指定はされていない。(建物は国宝認定) お寺にとっては、国宝があると儲かる。 つまり、それを拝んでお賽銭を差し出す観光客は大事な「飯のタネ」になる。 しかし、人間の法には関わりがない仏自身
仏の教えは誰のためのものなのか。 しっかりと経典を勉強した僧侶でなければ、語ってはいけないのか。 特に権威主義に陥りやすい人が僧侶になった場合、 「僧侶でもない素人が、仏の話などするな」と、怖い顔で脅してくる場合がある。 そんな怖い僧侶に頭を下げるよりは、道端の石仏を拝むほうが、よほど救われる気持になる。 偉くて怖い僧侶にとっては、そんなことは眼中にないのかもしれないけれど。
神や仏を何により表すのか、あるいは何で示すのか。 言葉などの音声。 経文などの文字。 寺院装飾、絵画あるいは彫刻など。 奇跡というものもあるかもしれないけれど、そんなに頻繁に発生するものではない。 偶像崇拝を認めない宗教は、言葉による説法が中心だった。 聖書などを文字化することについても、当初は異論が続出したとか。 ただし、人間の記憶力には限りがあるし、結局は文書化の方法を採用した。 その結果として、他部族、そして他民族への布教が可能となった。 しかし、他民族への布教が可
古戦場に石仏がたてられていることが多い。 あるいは石仏がたてられている理由を聞いて、そこが古戦場であることを知る場合もある。 理由はともかく、人と人が殺し合って、痛みと苦しみと血にまみれた土地。 せめて、朽ち果てない石仏をたて、敵味方無く供養をしたのだと思う。 人の世は、日本に限らず、血と苦しみと涙の歴史。 この石仏が無ければ、どれほどの魂が、血と苦しみと涙の中に、居続けるのだろうか。 何も言わない石仏の周囲には、計り知れない魂が取り巻いている。
硬い石で彫られた石仏でさえ、長年の経過で劣化する。 まして、生身の人間の劣化などは、仕方がない。 「あの人は今」シリーズなどで、若い時の美しい顔が、年月を経て「劣化」などと批判したり、嘲笑のネタにするタレントもあるとか。 筆者から言わせれば、そんなことをするタレントの心のほうが、劣化ではなく「劣悪」と思う。 特に他人を嘲笑することを好む人は、好きになれない。
数多くの石仏が並んでいる状態で、どういうわけか、その中の一体に目が吸い寄せられることがある。 特に、現世で自分がその石仏に関係したことなどはなく、そうなると前世なのかとも考えるけれど、もともと、そんなことは釈然としない話である。 また、石仏に限らず、過去の歴史本などを読む場合で、興味がある時代と、まったくない時代がある。 そして、それは日本史に限らない。 理由がなく、惹かれてしまう石仏や、時代。 もしかして、何らかの縁があるのかもしれない。 それを知りたくて、その
古くからの由緒を持つ石仏、誰が建てたのか不明な石仏、新しい石仏、様々な石仏があるけれど、それを見る人の中には、古くからの由緒を持つ石仏が価値が高いとする人がいる。 理由としては、歴史上の偉人が拝んだとか、有名な仏師が彫ったとかなどである。 中には、有名な僧侶でも、石仏に優劣をつける場合もあるとか。 仏としては、どれも仏。 人間に優劣をつけられるような対象ではない。 むしろ、仏に優劣をつけるような僧侶や人間のほうが、仏の教えを理解していないのではないだろうか。
奈良町を歩いていると、元興寺がある。 元興寺と言えば、日本最古の歴史を誇る仏教寺院飛鳥寺を起源として、平城京に移ってきた歴史を持つ。 戦前までは、それが荒れ放題で、お化けが出るとまで言われていたらしいけれど、戦後の住職の御尽力により整備され、今は世界遺産の石碑が門前にある。 ほぼ官寺の東大寺や藤原氏の氏寺としての興福寺などの大寺も素晴らしいと思うけれど、この元興寺は庶民の信仰の雰囲気に満ちている。 特に信仰に根ざした智光曼荼羅を中心とする浄土信仰、地蔵信仰、聖徳太子、
奈良東大寺の広大な境内を歩いていると、きれいに整えられた芝生の中に何ヶ所か石碑が点在している。 中には、「南無阿弥」とだけ地上に出て、それ以下は地中に埋没しているものとか、赤いよだれかけをかけられた小さな地蔵様などもある。 毘盧遮那仏で有名な大仏殿には、最近特に多くなった外国人観光客が行列をなしているけれど、それ以外の場所は二月堂、三月堂、四月堂、戒壇院他、ほぼ人が歩いていない。 大仏を拝むのも、小さな石碑や石仏を拝むのも、人それぞれ。 仏から見れば、同じこと。 大
石仏として、千手観音を彫るなど、特に過去においては、至難の技だったと思う。最近は、機械彫りが多く、やがては3Dを駆使した千手観音も作られると思う。手彫りであろうと、機械彫りであろうと、観音様には変わりがない。変わるのは、その観音様を見る人の心。無骨な観音様ではあるけれど、人の汗と労苦、拝み続けた人の心まで思って拝むか、きちんと造形された観音様を良しとするか。「両方とも、わが身、どちらも良し」とするのが、観音様の心と考えている。